2019年10月5日 更新

自由意志とは?カントやデカルトの自由意志に対する考えについても

自由意志とはどのような存在のことを言うのでしょうか。哲学者のカントやデカルト、アウグスティヌスの考え方を紹介していきます。その他、自由意志がないとする反対の立場の決定論や責任論など、分かりやすく解説していくので参考にしてください。

目次

曖昧な存在を否定するデカルトですが、一方で誰も見たことがないと言われている神の存在に対しては強く肯定しています。一般的には屁理屈のような詭弁であると言われている理論ですが、デカルトの思想を理解する上で神の存在を避けて通ることはできません。

デカルトにとって、人間はあくまで不確実なものです。しかし、その不確実な存在である人間の感覚は神に由来しています。その神も不確実な存在だとすると、疑うことで存在を信頼できる人間の意義が揺らいでしまいます。

そのため、疑念を抱く人間の存在を信じられるということは、不確実な人間が作り出した神という概念が確実に存在しているからだ、という逆説的な考え方でデカルトは神の存在を肯定しました。

自由意志と神の認識が両立する事実だと説く

Siegessäule Berlin Landmark Gold - Free photo on Pixabay (686689)

冒頭で紹介したように、自由意志とは人間が自由に自らの希望や思想を決定する考え方のことを言います。一般的に、神は人間より上位にあり神のために人間が行動することもあるので、自由意志は神によって制約を受けて自由意志と神は両立しない事実だという認識が広く知られてきました。

しかし、デカルトは自由意志を持つのは人間の思想の一つでありそこに神の存在は影響を及ぼさないとして、神と人間の自由意志を分けて考えることにより両者は両立する概念だと主張しています。

絶対的な存在として自由意志を肯定した

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デカルトの主張を紐解くと、デカルトの主張する人間の自由意志というものはカントが主張したものよりも人間個人が左右できるものではないことが分かります。カントの主張は自由意志を根源的な欲求とするのに対し、デカルトは神と同様の存在として自由意志を認識しています。

そのため、デカルトにとって自由意志とは絶対的な存在です。人間の過去の経験や未来をどうしたいかといった希望によって左右されることのない、もっと確立した絶対的な存在を自由意志だと主張します。

二元論を提唱する

Balloon Heart Love - Free photo on Pixabay (686692)

デカルトの主張する二元論とは、人間の心と身体が独立した存在であるという主張のことを言います。しかし、デカルトは自身の著書の「情念論」で「心と身体は密接に結びついている存在である」とも主張しています。

デカルトによれば「頭が痛いのは身体が不調なだけではなく、その不調を心が不調だと感じ取っているから頭痛が生じている」ということになります。精神が能動的に働き、身体が受動的に働きながらも独立して相互作用を及ぼし合っているというのがデカルトの二元論です。

様々な矛盾

Fantasy Wanderer Sculpture - Free photo on Pixabay (686694)

デカルトは明言を残し哲学者としてだけではなく数学者としても非常に高名な人物ですが、一方でその主張には様々な矛盾があると後世の哲学者たちによってたびたび指摘されています。

たとえば二元論においては心身が相互作用を及ぼし合っているという主張をしていますが、それはそれ以前のデカルトの主張である心身が完全に独立したものであるという説と矛盾しています。

この他にも先ほどから紹介している有名な「我思うゆえに我あり」では「私が考えているから私がいる」という意味だとしながらも、「考えている私が既に存在している。存在しているから考えることができるため、考えることができるから存在しているという説はおかしい」と指摘する哲学者も少なくはありません。

自由意志に関する意見【アウグスティヌス】

Columns Hallway Architecture - Free photo on Pixabay (686698)

1596年に生まれたデカルトや1724年に生まれたカントは自由意志の論者として有名ですが、実はそれよりもっと以前から自由意志に関してはたびたび論議されていました。ここではアウグスティヌスの思想について紹介していきます。

神学者アウグスティヌス

Cross Christ Faith - Free photo on Pixabay (686699)

キリスト教の神学者であるアウグスティヌスは354年に生まれて430年に没しました。哲学者というよりは、ラテン教父と呼ばれる一群の神学者の一人として非常に有名な人です。

古代キリスト教世界のラテン語圏における影響力は絶大で、自身だけではなく母親のモニカも聖人として位置づけられるほど敬虔なキリスト教徒です。アウグスティヌスの功績としては、正教信仰の確立に尽力したことが最も大きく、神学者たちだけではなく各地の守護聖人としても広く知られています。

アウグスティヌスの解釈を巡って相反する立場が存在する

Chess Chessboard Strategy - Free photo on Pixabay (686700)

アウグスティヌスは先ほど紹介したカントやデカルトよりもさらに以前に活躍した神学者および哲学者です。しかしながら、彼の時代から既に自由意志に関しては様々な議論が行われていました。

しかし、アウグスティヌスの自由意志に対する解釈を巡っては二つの相反する立場が存在しています。一つ目の立場は、アウグスティヌスは自由意志を論じながらも否定的あるいは限定的だとする立場であり、二つ目の立場は正反対でアウグスティヌスは自由意志を積極的に認めた人物だという立場です。

自由意志の否定

Censorship Limitations Freedom Of - Free photo on Pixabay (686701)

アウグスティヌスが自由意志を否定している、あるいは認めているとしても限定的だと主張するのはプロテスタンティズム神学に多い考え方だと言われています。このプロテスタンティズム神学によれば、アウグスティヌスの主張する自由意志は神によって与えられたものだということになります。

つまり、人間の基本的な活動に関しては制約が存在していませんが、それ以上に高度な活動になると神の許しや恵みが必要となるという考え方です。これは「自由意志はいかなる制約も受けない状態」という定義に反するため、否定しているあるいは限定的にしか認めていないとする主張の根拠になるとされています。

自由意志を積極的に認めたという主張

Horses Flock Horse - Free photo on Pixabay (686704)

一方、アウグスティヌスが自由意志を認めていると強く主張している哲学者としてはネーデルラントのエラスムスや日本の南原繁という哲学者が有名です。

彼らによると、アウグスティヌスの考える自由意志は「神と人間の間の関係性」を規定していると主張されます。すなわち、神が世界を創造した際に人間を「自由意志を持っている存在」として定義しているので、その時点で人間は自由意志を持っているという主張です。

神の創造はあくまで最初の発端であり、その創造にはいかなる制約も存在していないというのがアウグスティヌスが自由意志を積極的に認めているという主張の根拠となります。

人間には自由意志が存在する

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