目次
- 自分が持っている意思は自由意志ではない?
- 自由意志とは
- 強制や拘束をされず自らの言動を自発的に決定している
- 自身の人生は全て自分の選択であり「運命」は存在しない
- 現状を左右しているのは全て過去の自由意志によるもの
- 人間は自己の判断をコントロールしているという仮説
- 自由行為と混同されやすい
- 非決定論に近しい考え方
- 自由意志に関する意見【カント】
- 哲学者カント
- 人間は様々な生理的欲求を満たす行為を行う
- 自身の欲求のみに従っているわけではない
- 他者のために欲求を我慢したり道徳的行為を選択する場合もある
- 人間は欲求を満たす行為か道徳的行為か選択することができる
- 人間には自由意志が存在する
- 自由意志に関する意見【デカルト】
- 哲学者デカルト
- 「我思うゆえに我あり」
- 感覚は疑う存在であるが自身は疑いようのない真理
- 神の存在を肯定する
- 自由意志と神の認識が両立する事実だと説く
- 絶対的な存在として自由意志を肯定した
- 二元論を提唱する
- 様々な矛盾
- 自由意志に関する意見【アウグスティヌス】
- 神学者アウグスティヌス
- アウグスティヌスの解釈を巡って相反する立場が存在する
- 自由意志の否定
- 自由意志を積極的に認めたという主張
- 人間には自由意志が存在する
- 自由意志はあっても善悪を判断する知識や能力がない
- 救いは人間の自由意志ではなく神の自由
- 自由意志と対になる決定論
- あらゆる出来事はあらかじめ決定している
- 因果的決定論
- 確率的決定論
- 道徳と両立しない
- 自由意志に関する意見【ニュートン】
- 物理学者ニュートン
- この世の全ての物体に関する運動を理論的に説明できる
- 物体の状態が詳しく分かれば未来の状態も完璧に予測できる
- 人間もまた物理的な物体の寄せ集めである
- 世界の全ては初めから決まっている
- 決定論と呼ばれる
- ラプラスの悪魔
- 決定論もまた覆る
- 量子力学
- ミクロの運動予測は不可能
- 人間が物理的物体の寄せ集めなら未来予測は不可能
- 未来は人間の自由意志による選択で変えることができる
- 自由意志は存在するのか
- 量子力学は未来がランダムだと証明しただけ
- 自由意志によって左右できるとは証明していない
- 人間の心は化学物質と電気信号によってつくられているという新説
- 自由意志への見解【ソートイ】
- 数学者マーカス・デュ・ソートイ
- 人間に自由意志は存在しない
- 人間の脳をスキャンした実験
- 何か行動を起こしたいと思う意思よりも脳が先に反応している
- 自由意志への見解【ミチオ】
- 物理学者ミチオ・カク
- 決定論が正解であれば大量虐殺者もまた数百年前から決まっている
- 電子には不確実性が存在する
- 誰も自分の未来を決定することはできない
- 自由意志への見解【デネット】
- 認知科学者ダニエル・クレメント・デネット
- 決定論は「必然」と密接に繋がっている
- 物事は「必然」と「偶然」に分けることができる
- 自由意志や決定論にはパラドックスが存在していると説く
- 人間の意思とはなんなのか
- 人間が行動する仕組みは科学的に証明されている
- 電気信号がどのように意識を作っているのかは証明されていない
- 同じ事象が発生した際昨日の自分と今の自分であっても意見は分かれることがある
- 同じ環境に存在しても責任感や倫理観によって選択は異なる
- 養育環境などによって行動の規則性は一定数証明されている
- 自分の未来は既に決定しているのか
イマヌエル・カント(1724-1804)は非常に有名なドイツの哲学者です。ドイツ古典主義哲学の祖として有名ですので名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
彼は「純粋理性批判」や「実践理性批判」、「判断力批判」といった著作を残していて、その三作は「三批判書」とも呼ばれています。歴史哲学や宗教哲学など様々な分野で活躍した人物ですので、一部だけではなく西洋哲学全体に大きな影響を残している哲学者と言えるでしょう。
彼は「純粋理性批判」や「実践理性批判」、「判断力批判」といった著作を残していて、その三作は「三批判書」とも呼ばれています。歴史哲学や宗教哲学など様々な分野で活躍した人物ですので、一部だけではなく西洋哲学全体に大きな影響を残している哲学者と言えるでしょう。
人間は様々な生理的欲求を満たす行為を行う
via pixabay.com
カントは先ほど紹介した彼の著作である「純粋理性批判」において「人間は食欲や性欲、その他さまざまな生理的欲求を持つ存在である」と定義しています。
彼のこの定義においては人間は「感性的存在者」という立場に立ち、自分の感性的な欲求を第一に動く存在だと考えられています。人間の三大欲求である食欲・性欲・睡眠欲はよく知られていますが、人間がそれらの欲求を満たすために自分の行動を決定するというのが、感性的存在者という考え方です。
彼のこの定義においては人間は「感性的存在者」という立場に立ち、自分の感性的な欲求を第一に動く存在だと考えられています。人間の三大欲求である食欲・性欲・睡眠欲はよく知られていますが、人間がそれらの欲求を満たすために自分の行動を決定するというのが、感性的存在者という考え方です。
自身の欲求のみに従っているわけではない
via pixabay.com
ただし、現在生きている人間の姿を想像しても分かる通り、人間は三大欲求を満たすためだけに行動しているわけでもなければ、三大欲求を抱いたからといってそれが我慢できないわけではありません。
そうした人間の存在を、カントは「理性的存在者」として定義しています。理性的存在者とは欲求だけではなく自己を律する理性にも従う存在であるという意味を持つ言葉です。
つまり、人間は先ほどの「感性的存在者」と「理性的存在者」という二つの性質を併せ持っている存在だと考えられています。
そうした人間の存在を、カントは「理性的存在者」として定義しています。理性的存在者とは欲求だけではなく自己を律する理性にも従う存在であるという意味を持つ言葉です。
つまり、人間は先ほどの「感性的存在者」と「理性的存在者」という二つの性質を併せ持っている存在だと考えられています。
他者のために欲求を我慢したり道徳的行為を選択する場合もある
via pixabay.com
人間は自分の欲求ばかりを考えて存在しているわけではないというのもカントの主張の一つです。自分の欲求が他者のためにならないと判断した場合は欲求を我慢することもできますし、道徳的な概念に基づいた行動を選択することもできます。
先ほどの人間を「感性的存在者」として定義しているカントの主張を見ただけだとカントは人間を非常に原始的な存在であると認識しているように誤解する人もいるかもしれませんが、「純粋理性批判」をしっかり読むことでカントが人間の欲求と選択について深く考察していることが分かるのではないでしょうか。
先ほどの人間を「感性的存在者」として定義しているカントの主張を見ただけだとカントは人間を非常に原始的な存在であると認識しているように誤解する人もいるかもしれませんが、「純粋理性批判」をしっかり読むことでカントが人間の欲求と選択について深く考察していることが分かるのではないでしょうか。
人間は欲求を満たす行為か道徳的行為か選択することができる
via pixabay.com
人間は自分の欲求の大きさによって自らの欲求を優先するのか他者のための道徳的行為を優先するのか決めているわけではありません。カントによれば、人間は自らの欲求だけではなくその場の状況など総合的な判断によって自らの行動を選択することができると考えられています。
現在でも「自分は眠いけれど子供がお腹を空かせているから昼寝を我慢して食事を用意する」のような行為は日常的に多く見られます。このような状況を考えると、カントの主張はそれほど難解なものではないと分かるでしょう。
現在でも「自分は眠いけれど子供がお腹を空かせているから昼寝を我慢して食事を用意する」のような行為は日常的に多く見られます。このような状況を考えると、カントの主張はそれほど難解なものではないと分かるでしょう。
人間には自由意志が存在する
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このカントの「欲求を満たす行為か道徳的行為か選択することができる」という主張こそが、自由意志を意味しています。すなわち、カントの主張としては「人間は自由意志が存在し、それに従って行動している存在である」と考えることができます。
単に自分の欲求に従うだけではなく「会社のために眠くても働く」や「恋人のために疲れていても起きている」のような選択をすることができることこそ、人間が自由意志を持てる存在であることを証明する証拠だとカントは主張しています。
単に自分の欲求に従うだけではなく「会社のために眠くても働く」や「恋人のために疲れていても起きている」のような選択をすることができることこそ、人間が自由意志を持てる存在であることを証明する証拠だとカントは主張しています。
自由意志に関する意見【デカルト】
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自由意志に関して主張を残しているのはカントだけではありません。他にも様々な哲学者が自由意志に関する意見を残しています。次はデカルトの意見について学んでみましょう。
哲学者デカルト
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デカルトもカントと同様に非常に有名な人なので名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。また、デカルトは哲学者だけではなく数学者としても有名なので数学の教科書のコラム欄で名前を見たことがある人も多いかもしれません。
数学者としてデカルトは、比例・反比例や二次関数などで広く使われている座標を定義した功績を持っています。そんなデカルトが哲学者として自由意志に対してどのような意見を持っているのか、順を追って解説していきます。
数学者としてデカルトは、比例・反比例や二次関数などで広く使われている座標を定義した功績を持っています。そんなデカルトが哲学者として自由意志に対してどのような意見を持っているのか、順を追って解説していきます。
「我思うゆえに我あり」
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デカルトの名言として本人と同じように有名なのが「我思うゆえに我あり」という言葉ではないでしょうか。これはデカルトが自身の著作である「方法序説」の中で提唱した命題です。
デカルトは「自分自身が存在していることを証明するのは、自分の行動ではなく「自分が本当に存在しているのか」と疑う心そのものが証拠になる」ということをこの本の中で明言しています。
この言葉は後世にも大きな影響を与え、先ほど紹介したカントが「純粋理性批判」の中で批判しているだけではなく日本でも夏目漱石が「吾輩は猫である」の中で、この命題について言及しています。
デカルトは「自分自身が存在していることを証明するのは、自分の行動ではなく「自分が本当に存在しているのか」と疑う心そのものが証拠になる」ということをこの本の中で明言しています。
この言葉は後世にも大きな影響を与え、先ほど紹介したカントが「純粋理性批判」の中で批判しているだけではなく日本でも夏目漱石が「吾輩は猫である」の中で、この命題について言及しています。
感覚は疑う存在であるが自身は疑いようのない真理
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デカルトにとって、触覚や味覚などの感覚は疑わしいものであったと言われています。先ほどの「方法序説」の中でも「感覚は疑わしい。感覚は欺くことがあるからだ」とはっきり明言しています。
そしてデカルトは外的な刺激に反応する感覚だけではなく、自分の思想すらも疑わしいものだと定義しています。夢を例にとると分かりやすくなりますが、夢などのように非現実的なものを作り出す自分の思想や思考も信頼することはできません。
しかし、先ほど紹介した「我思うゆえに我あり」という言葉と同様に、そのように何かを疑うこと自分自身は信じられる存在であると考えるのがデカルトの思想の根幹にあります。
そしてデカルトは外的な刺激に反応する感覚だけではなく、自分の思想すらも疑わしいものだと定義しています。夢を例にとると分かりやすくなりますが、夢などのように非現実的なものを作り出す自分の思想や思考も信頼することはできません。
しかし、先ほど紹介した「我思うゆえに我あり」という言葉と同様に、そのように何かを疑うこと自分自身は信じられる存在であると考えるのがデカルトの思想の根幹にあります。
神の存在を肯定する
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