2019年10月5日 更新

自由意志とは?カントやデカルトの自由意志に対する考えについても

自由意志とはどのような存在のことを言うのでしょうか。哲学者のカントやデカルト、アウグスティヌスの考え方を紹介していきます。その他、自由意志がないとする反対の立場の決定論や責任論など、分かりやすく解説していくので参考にしてください。

目次

イマヌエル・カント(1724-1804)は非常に有名なドイツの哲学者です。ドイツ古典主義哲学の祖として有名ですので名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

彼は「純粋理性批判」や「実践理性批判」、「判断力批判」といった著作を残していて、その三作は「三批判書」とも呼ばれています。歴史哲学や宗教哲学など様々な分野で活躍した人物ですので、一部だけではなく西洋哲学全体に大きな影響を残している哲学者と言えるでしょう。

人間は様々な生理的欲求を満たす行為を行う

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カントは先ほど紹介した彼の著作である「純粋理性批判」において「人間は食欲や性欲、その他さまざまな生理的欲求を持つ存在である」と定義しています。

彼のこの定義においては人間は「感性的存在者」という立場に立ち、自分の感性的な欲求を第一に動く存在だと考えられています。人間の三大欲求である食欲・性欲・睡眠欲はよく知られていますが、人間がそれらの欲求を満たすために自分の行動を決定するというのが、感性的存在者という考え方です。

自身の欲求のみに従っているわけではない

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ただし、現在生きている人間の姿を想像しても分かる通り、人間は三大欲求を満たすためだけに行動しているわけでもなければ、三大欲求を抱いたからといってそれが我慢できないわけではありません。

そうした人間の存在を、カントは「理性的存在者」として定義しています。理性的存在者とは欲求だけではなく自己を律する理性にも従う存在であるという意味を持つ言葉です。

つまり、人間は先ほどの「感性的存在者」と「理性的存在者」という二つの性質を併せ持っている存在だと考えられています。

他者のために欲求を我慢したり道徳的行為を選択する場合もある

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人間は自分の欲求ばかりを考えて存在しているわけではないというのもカントの主張の一つです。自分の欲求が他者のためにならないと判断した場合は欲求を我慢することもできますし、道徳的な概念に基づいた行動を選択することもできます。

先ほどの人間を「感性的存在者」として定義しているカントの主張を見ただけだとカントは人間を非常に原始的な存在であると認識しているように誤解する人もいるかもしれませんが、「純粋理性批判」をしっかり読むことでカントが人間の欲求と選択について深く考察していることが分かるのではないでしょうか。

人間は欲求を満たす行為か道徳的行為か選択することができる

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人間は自分の欲求の大きさによって自らの欲求を優先するのか他者のための道徳的行為を優先するのか決めているわけではありません。カントによれば、人間は自らの欲求だけではなくその場の状況など総合的な判断によって自らの行動を選択することができると考えられています。

現在でも「自分は眠いけれど子供がお腹を空かせているから昼寝を我慢して食事を用意する」のような行為は日常的に多く見られます。このような状況を考えると、カントの主張はそれほど難解なものではないと分かるでしょう。

人間には自由意志が存在する

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このカントの「欲求を満たす行為か道徳的行為か選択することができる」という主張こそが、自由意志を意味しています。すなわち、カントの主張としては「人間は自由意志が存在し、それに従って行動している存在である」と考えることができます。

単に自分の欲求に従うだけではなく「会社のために眠くても働く」や「恋人のために疲れていても起きている」のような選択をすることができることこそ、人間が自由意志を持てる存在であることを証明する証拠だとカントは主張しています。

自由意志に関する意見【デカルト】

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自由意志に関して主張を残しているのはカントだけではありません。他にも様々な哲学者が自由意志に関する意見を残しています。次はデカルトの意見について学んでみましょう。

哲学者デカルト

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デカルトもカントと同様に非常に有名な人なので名前を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。また、デカルトは哲学者だけではなく数学者としても有名なので数学の教科書のコラム欄で名前を見たことがある人も多いかもしれません。

数学者としてデカルトは、比例・反比例や二次関数などで広く使われている座標を定義した功績を持っています。そんなデカルトが哲学者として自由意志に対してどのような意見を持っているのか、順を追って解説していきます。

「我思うゆえに我あり」

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デカルトの名言として本人と同じように有名なのが「我思うゆえに我あり」という言葉ではないでしょうか。これはデカルトが自身の著作である「方法序説」の中で提唱した命題です。

デカルトは「自分自身が存在していることを証明するのは、自分の行動ではなく「自分が本当に存在しているのか」と疑う心そのものが証拠になる」ということをこの本の中で明言しています。

この言葉は後世にも大きな影響を与え、先ほど紹介したカントが「純粋理性批判」の中で批判しているだけではなく日本でも夏目漱石が「吾輩は猫である」の中で、この命題について言及しています。

感覚は疑う存在であるが自身は疑いようのない真理

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デカルトにとって、触覚や味覚などの感覚は疑わしいものであったと言われています。先ほどの「方法序説」の中でも「感覚は疑わしい。感覚は欺くことがあるからだ」とはっきり明言しています。

そしてデカルトは外的な刺激に反応する感覚だけではなく、自分の思想すらも疑わしいものだと定義しています。夢を例にとると分かりやすくなりますが、夢などのように非現実的なものを作り出す自分の思想や思考も信頼することはできません。

しかし、先ほど紹介した「我思うゆえに我あり」という言葉と同様に、そのように何かを疑うこと自分自身は信じられる存在であると考えるのがデカルトの思想の根幹にあります。

神の存在を肯定する

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