目次
- 西沢裕司が起こした事件「全日空61便ハイジャック事件」
- 全日空61便ハイジャック事件の概要
- 1999年7月23日午前11時23分に発生
- ハイジャックされたのは全日空61便
- 乗員14人・乗客503人を乗せていた
- 離陸直後に搭乗していた男性が客室乗務員に包丁を突きつける
- 11時25分機長よりハイジャック発生の緊急通報が発せられる
- 犯人は横須賀への飛行を指示する
- 高度3000フィート降下を要求
- 犯人は伊豆大島方面への飛行を指示する
- 11時38分犯人と機長Aだけがコックピットに留まった
- 11時55分犯人が機長Aを包丁で刺す
- 犯人は操縦行為をはじめ迷走飛行を行う
- 非番であった機長Bがコックピットに突入
- 犯人を座席に拘束する
- 午後0時14分に緊急着陸を行う
- 全日空61便ハイジャック事件までの経緯
- 西沢がハイジャックなどに対する警備の死角を発見
- 欠陥を伝える事で航空業界へ就職できるかもしれないと考える
- 羽田空港へ警備の欠陥を確認
- パソコンを使い欠陥に対する文書を作成し送付
- 羽田空港で雇われることはなかった
- 自分の提案が無視されたことに対しハイジャックを決意
- 西沢裕司が発見した「警備の欠陥」とは
- 犯人・西沢裕司の生い立ち
- 1970年東京に生まれる
- 家族構成
- 小学生時代
- 中学生時代
- 高校生時代
- 大学生時代
- 羽田空港でアルバイトをしていた
- 航空業界を志していた
- 1994年JR貨物に就職
- 精神科に通う生活を送っていた
- 犯人・西沢裕司について
- 性格はおとなしかった
- 社交性は0だった
- 友人は少なかった
- 鉄道・飛行機が大好きだった
- フライトシミュレーションゲームにハマっていた
- 自殺未遂を繰り返していた
- 家族が警察に相談し約2ヶ月間、借置入院されていた
- アスペルガー症候群と診断された
- 事件の前に家族が西沢裕司を止めていた
- 22日にハイジャックを決行する予定だった
- 航空チケットを見た家族が「飛行機はやめなさい」と咎める
- 全日空61便ハイジャック事件の真相
- ササオカシンジという偽名を使用していた
- タカハシカツヤという偽名を使用していた
- 犯人を取り押さえなかったら八王子に墜落していた
- 文書は実名で多くの場所に送付していた
- 犯人・西沢裕司の犯行動機・判決
- 羽田空港の対応への不満
- レインボーブリッジをくぐりたかった
- 無期懲役の判決が下された
- 犯人・西沢裕司の現在
- 現在も獄中生活を送る
- 事件から3ヶ月までに反省の色は見られなかった
- 遺族に対して謝罪の気持ちを表した
- 拘禁者支援団体の関係者と交流をしている
- 文通禁止を提訴し勝訴へ
- 犠牲になった機長・長島直之さんについて
- 事故当時51歳のベテラン操縦士だった
- 妻、そして2人の子供と仲良く暮らしていた
- 事件最中も報告を続けていた
- 緊急用に自動速度維持装置をオンにしていた
- 死因はショック死だった
- 右上胸部を3回刺されていた
- 死者を出したハイジャック事件
- シンガポール航空117便ハイジャック事件
- エールフランス8969便ハイジャック事件
- エチオピア航空961便ハイジャック墜落事件
- ハイジャック事件に巻き込まれない為の対処法
- 飛行機に乗らない
- 不審者を発見した時にはすぐに乗務員に知らせる
- 西沢裕司が犯した罪は許されるものではない
高校も、中学と同じ私立武蔵高校を選びました。高校時代になっても、一切不良とつるんだりぐれたりすることなく真面目を貫き、部活動には所属せずひたすら勉強の日々でした。
このころから一橋大学を目指していたのか、高校に入ると大学受験を視野に勉強していたようです。その一方で自分の興味がある鉄道や航空関係の本を読み漁り、その仕組みを独学で学ぶことにもハマっていました。
ここまでエリート街道を突っ走っており、高校時代までの人生で挫折は1度もなく、勉強面では誰にも負けないという自負があったようです。
このころから一橋大学を目指していたのか、高校に入ると大学受験を視野に勉強していたようです。その一方で自分の興味がある鉄道や航空関係の本を読み漁り、その仕組みを独学で学ぶことにもハマっていました。
ここまでエリート街道を突っ走っており、高校時代までの人生で挫折は1度もなく、勉強面では誰にも負けないという自負があったようです。
大学生時代
via pixabay.com
一浪を経て、難関私立校である一橋大学商学部に入学しました。小さいころから鉄道ファンであった西沢裕司は、鉄道研究会に所属します。しかし学園祭での提案が流れたため、興味は次第に航空へと傾き始めました。
好きなものを見つけるととことん勉強したくなる性格の彼は、大学時代にはすでに専門家レベルの知識を付けていたようです。また、一般の大学生のようにアルバイトも始めました。
大学時代は特に波風の立たない生活を送り、1994年3月に大学を卒業しました。
好きなものを見つけるととことん勉強したくなる性格の彼は、大学時代にはすでに専門家レベルの知識を付けていたようです。また、一般の大学生のようにアルバイトも始めました。
大学時代は特に波風の立たない生活を送り、1994年3月に大学を卒業しました。
羽田空港でアルバイトをしていた
via pixabay.com
航空業界に興味を持ったため、羽田空港でアルバイトを始めました。グランドハンドリングと呼ばれる航空貨物の荷役として働き、真面目な勤務態度だったようです。
アルバイトで稼いだお金はほとんどを貯金し、たまに使うことがあっても飛行機の航路や乗り心地を体験するために飛行機に乗っていたくらいのようです。
交友関係がなく、自宅でこもる方が好きだったため、お金を使う場があまりありませんでした。そのため、大学卒業時にはかなりの額を貯金できていたとの噂もあります。
アルバイトで稼いだお金はほとんどを貯金し、たまに使うことがあっても飛行機の航路や乗り心地を体験するために飛行機に乗っていたくらいのようです。
交友関係がなく、自宅でこもる方が好きだったため、お金を使う場があまりありませんでした。そのため、大学卒業時にはかなりの額を貯金できていたとの噂もあります。
航空業界を志していた
via pixabay.com
就職活動では航空と鉄道に絞り、特に航空業界を第一志望としていました。日本航空、全日空、日本エアシステムの大手航空会社の入社試験を受けました。しかし航空会社からは1つも採用はされず、JR貨物の総合職へ内定が決まりました。
仕事をする前から航空業界への憧れやパイロットになりたいという夢を諦められず、鉄道が好きな西沢裕司でしたが、就職活動の結果には決して満足していなかったようです。両親の説得もあり、なんとか就職浪人はせずに鉄道会社で働くことを決めました。
仕事をする前から航空業界への憧れやパイロットになりたいという夢を諦められず、鉄道が好きな西沢裕司でしたが、就職活動の結果には決して満足していなかったようです。両親の説得もあり、なんとか就職浪人はせずに鉄道会社で働くことを決めました。
1994年JR貨物に就職
via pixabay.com
大学卒業後は内定をもらっていたJR貨物で働き始めました。しかし広島や大阪などでの単身赴任生活が続き、大きなストレスとなっていたようです。
また、仕事上でのミスが続いて上司から怒られることに耐えられなくなり、1996年の秋には無断欠勤の末、失踪状態となりました。
同僚で仲の良い人も特にいなかったため、西沢裕司の行方を知っている人はいなかったようです。仕事を辞めた後は東京にある実家に戻って来て、引きこもり生活をスタートさせました。
また、仕事上でのミスが続いて上司から怒られることに耐えられなくなり、1996年の秋には無断欠勤の末、失踪状態となりました。
同僚で仲の良い人も特にいなかったため、西沢裕司の行方を知っている人はいなかったようです。仕事を辞めた後は東京にある実家に戻って来て、引きこもり生活をスタートさせました。
精神科に通う生活を送っていた
via pixabay.com
引きこもり生活が続いていたことや、精神的に安定しないことから家族の勧めもあり、1998年の春ごろから複数の精神クリニックを受診しました。そこでは統合失調症や心因反応と診断され、抗うつ剤をはじめとする大量の薬が処方されました。
カウンセリングなどもありましたが、まずは精神を安定させることを目的に薬物治療が始まったのです。薬に頼る生活が続き、本人に薬が合わなかったのか、副作用も出てきて精神が安定することはありませんでした。
カウンセリングなどもありましたが、まずは精神を安定させることを目的に薬物治療が始まったのです。薬に頼る生活が続き、本人に薬が合わなかったのか、副作用も出てきて精神が安定することはありませんでした。
犯人・西沢裕司について
via pixabay.com
では、犯人の西沢裕司は、どのような人物だったのでしょうか。前々から事件を起こしそうだと周りに思われていた暴力的な人間だったのでしょうか。
ここでは、西沢裕司の性格や趣味を、家族の証言や近所の人のインタビューから紹介します。
ここでは、西沢裕司の性格や趣味を、家族の証言や近所の人のインタビューから紹介します。
性格はおとなしかった
via pixabay.com
勉強好きで性格はとてもおとなしい子だったようです。積極的に人と関わるタイプではなく、休み時間も1人で教室に残り勉強しているタイプであり、大声で笑う姿や声を荒げて怒る姿は見たことがないと当時の同級生はインタビューに答えています。
何に対してもどちらかといえば消極的な態度で、勉強ができること以外はクラスでも目立つ存在ではなかったようです。そのため、元同級生はあんなにおとなしかった西沢裕司がこのような日本全国が注目する大事件を起こしたことに驚きを隠せませんでした。
何に対してもどちらかといえば消極的な態度で、勉強ができること以外はクラスでも目立つ存在ではなかったようです。そのため、元同級生はあんなにおとなしかった西沢裕司がこのような日本全国が注目する大事件を起こしたことに驚きを隠せませんでした。
社交性は0だった
via pixabay.com
勉強に熱心に取り組むあまり、社交性は0であったと言われています。人と関わりたくないというよりは、人との関わり方が分からなかったようで、誰かと一緒にいるくらいであれば1人で勉強していたいタイプの子供でした。
クラスで嫌われているわけではありませんが、自分から人と関わろうとしないため、周りの人たちも距離を取っていたようです。小学生時代以外は進学校に通っていたこともあり、がり勉が浮くわけではないのでいじめはありませんでした。
クラスで嫌われているわけではありませんが、自分から人と関わろうとしないため、周りの人たちも距離を取っていたようです。小学生時代以外は進学校に通っていたこともあり、がり勉が浮くわけではないのでいじめはありませんでした。
友人は少なかった
via pixabay.com
社交性のなさから友人は少なく、両親でさえ友人の名前を彼から聞くことはほとんどなかったようです。また、親友と言えるほどの仲良のいい友人がいたかは明らかになっていません。
刑務所に入ってからも、友人に手紙を書くことはなく、おそらく友人と呼べるほどの親しい人は周りにいなかったのではないかと言われています。しかし、大学時代のサークル活動などで話す程度の知り合いはいたようです。
いずれにしても社会とあまり関わらない人間であったことが分かります。
刑務所に入ってからも、友人に手紙を書くことはなく、おそらく友人と呼べるほどの親しい人は周りにいなかったのではないかと言われています。しかし、大学時代のサークル活動などで話す程度の知り合いはいたようです。
いずれにしても社会とあまり関わらない人間であったことが分かります。
鉄道・飛行機が大好きだった
via pixabay.com
4 / 8