2019年10月18日 更新

西沢裕司の生い立ちと現在!全日空61便ハイジャック事件についても

全日空61便ハイジャック事件は、機長が亡くなるという悲しい結末を迎え、記憶に新しい人も多いのではないでしょうか。今回はそんな全日空61便ハイジャック事件の経緯と犯人に下された判決、犯人の西沢裕司の生い立ちや現在、家族構成などを紹介します。

目次

事件から5年経ち、周りの世界と自分を比べて劣等感を感じることや、薬の服用量を少なくしたことなどのおかげで精神状態が安定してきたようです。徐々に自分の犯した罪の重さを認識し始め、刑が確定する頃には遺族に対して「本当に申し訳ないことをした」と謝罪の言葉を述べたようです。

これが本当に心からの言葉であり、事件当時は精神に疾患があったからといって決して許される犯罪ではありません。乗客の安全を第一に命を犠牲にしても操縦席を守ろうとした機長の命は奪われるべきではありませんでした。

拘禁者支援団体の関係者と交流をしている

Hand Greeting Agreement - Free photo on Pixabay (709866)

刑務所での生活の中で、唯一連絡を取り続けている相手が拘禁者支援団体の関係者です。これは、たとえ罪を犯して刑務所に入った人でも基本的な人権は認められなければいけないが、実際は基本的人権が守られていないケースがあるため、拘禁者を支援して基本的人権を守ろうとする団体です。

また、刑務所の外の人と同じように人権を与えることで、社会の一員としての自覚が芽生え、社会復帰しやすくなると主張しています。過去にも受刑者たちの人権が、これらの団体によって多く認められてきました。

重大な事件を起こしたとあって、拘禁者支援団体の関係者から西沢裕司に近づいたのではないかと見られています。

文通禁止を提訴し勝訴へ

Letter Handwriting Written - Free photo on Pixabay (709869)

2015年4月には、西沢裕司が、千葉刑務所が受刑者の権利でもある外部との文通を禁止しているのは違法であるとして国に処分の取り消しを求めました。これについて千葉地裁の広谷裁判長はこの訴えを認め、西沢裕司受刑者が文通できるようになりました。

しかし、文通の相手は家族ではなく、拘禁者支援団体の関係者のようです。家族は西沢裕司が事件を起こした後に引っ越しているとの噂もあり、現在も西沢裕司と接点を持っているかは明らかになっていません。

犠牲になった機長・長島直之さんについて

Tea Lights Candles Candlelight - Free photo on Pixabay (709871)

この事故で唯一犠牲となった、機長の長島直之さんはベテランの操縦士でした。後輩を指導する力もあり、誰からも信用される人でした。

では、長島機長やその家族について紹介します。

事故当時51歳のベテラン操縦士だった

Cockpit Aircraft C130 - Free photo on Pixabay (709873)

機長の長島さんは、小さいころからパイロットになることを夢見て高校時代にはグライダーの免許を取得しました。立教大学を卒業後、1970年に全日空に入社し、教官の紹介で知り合ったエールフランス航空の客室乗務員であった女性と結婚しました。

1988年からボーイング737、1992年からボーイング747の機長を任され、1万705時間の飛行時間を経験し、1度も事故やトラブルを起こしたことのないベテラン操縦士でした。技術の高さが評価され、指導員として後輩に技術の指導をしていました。

妻、そして2人の子供と仲良く暮らしていた

Woman Desperate Sad - Free photo on Pixabay (709874)

亡くなった機長の長島さんには、愛する妻と2人の子供がいました。家族仲がいいことで知られ、この日も無事にフライトを終えていつも通り家に帰ってくる事を信じて疑っていませんでした。

ハイジャック事件はリアルタイムで緊急速報が流れていたため、奥さんも瞬時に自分の夫がハイジャック事件に巻き込まれたことを知ったでしょう。そして亡くなったことを知らされたときの気持ちを考えると悲痛の思いです。

事件後、遺族は全日空や国を相手に損害賠償を求めていました。和解金の支払いや、ハイジャック再発防止に努めることを条件に和解が成立しました。

事件最中も報告を続けていた

Fantasy Landscape Cave - Free photo on Pixabay (709876)

長島機長は、管制官との交信をきることなく、機内の会話が管制官に聞こえるようにしていました。その上で犯人に気づかれないよう、説得していると見せかけて機内の様子を絶えず管制官に伝えていたのです。

1度交信を切れば次に管制官に繋げる時には犯人に気づかれてしまいます。緊急事態でもこのような行動ができるのはやはりベテランである落ち着きや、乗客乗員を必ず守るという強い使命感の結果でしょう。

長島機長の奮闘で事件は最悪の事態にならなかったと言っても過言ではありません。

緊急用に自動速度維持装置をオンにしていた

Jet Engine Airplane - Free photo on Pixabay (709878)

長島機長は今後どのようなことが起こるか分からない、コックピットに自分と犯人の2人であるため、何かあったら操縦できる人がいなくなると察知し、緊急用に自動速度維持装置を作動させていました。

実際、降下していた機体を再び持ち上げるにはかなりのエンジンパワーを必要とします。しかし、スロットレバーは機長が操縦席で仰向けになっていたため機長Bからは届きませんでした。

機体を持ち上げようにもエンジンパワーが足りず、このままでは落ちると諦めた時、自動速度維持装置のおかげでレバーが全開になったのです。またしても機長が危機を回避したのでした。

死因はショック死だった

Desert Drought Composing - Free photo on Pixabay (709879)

乗客の中にはちょうど医師が乗り合わせていました。副操縦士らが西沢裕司を拘束した後にその医師が機長を診察したところ、出血性ショック死であると確認されました。

ショック死とは、血液循環の不全によって全身の血圧が急速に低下し、意識障害が進行した結果に起こる死のことを指します。刺された時点で意識不明となっており、医師が診察する頃にはすでに心臓の動きが止まっていました。医師であってもなす術はなく、冥福を祈ることしかできませんでした。

右上胸部を3回刺されていた

Knife Stabbing Stab - Free photo on Pixabay (709881)

ハイジャック事件を起こした直後から興奮状態であった西沢裕司は周りの静止の声も耳に届いておらず、更に目の前に操縦席があるのに操縦を代わってくれない機長に対して相当な苛立ちを感じていたようです。

また、興奮状態の西沢裕司とは裏腹に非常に冷静に対応している機長の態度も彼の逆鱗に触れ、怒りは増していく一方でした。その中で殺害を決意したため、ためらいもなく、機長は右上胸部を3回も刺されていたのです。

何1つ間違った行動はしていないのに刺されて亡くなった機長の無念さを思うと心が痛くなります。

死者を出したハイジャック事件

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