2019年8月24日 更新

ラッキールチアーノの生い立ちや行った犯罪の数々!学べることは?

アメリカの禁酒法時代に、たくさんのギャングスターが生まれましたが、その中でも特にみんなから「ボスの中のボス」と慕われ憧れられた一人の人物がおりました。その名も『ラッキー・ルチアーノ』は、決して前に出すぎることを好まずに圧倒的な社会的成功者になりました。

目次

「ラッキー」と呼ばれたルチアーノの生涯

Organized Crime Gangster Mafia - Free vector graphic on Pixabay (568618)

ラッキー・ルチアーノとは『血筋』を重んじ、血で血を洗い続けることに重きをおいてきたマフィアとは違い、人種にこだわらずにアメリカにあるような合理性を追求し「敵を作らずにビジネスで成功するマフィア」の先駆けとされた人です。

マフィアは、禁酒法などで非合法ビジネスを行うことが当たり前でしたが、ラッキー・ルチアーノは「恨みを晴らすために生きることがマフィアの仕事ではない」と、マフィアが合法的なビジネスで儲ける方法で成功していけることを示した一人でした。

もちろん「ラッキー・ルチアーノ」は後からつけられた通称です。このような名前で呼ばれるようになったのでしょうか?

本名サルヴァトーレ・ルカーニア

Cig Mafia - Free image on Pixabay (568619)

ラッキー・ルチアーノの本名は『サルヴァトーレ・ルカーニア(イタリア語: Salvatore Lucania)』で、別名『チャールズ・ルチアーノ(Charles Luciano)』で、二人のボスの縄張り争いに巻き込まれ、九死に一生を得た時から『ラッキー”チャールズ・ルチアーノ(Charles "Lucky" Luciano)』と呼ばれるようになりました。

シチリア出身だが、こそ泥からわずか10年で無数の外様ギャングと結びつき「マフィアのボスの中のボス」と呼ばれ、ラッキー・ルチアーノが設立することになるニューヨーク・マフィアの五大ファミリーの1つ『ジェノヴェーゼ一家』の母体を作った『ジョー・マッセリア』が一人目のボス。

シチリアマフィアが世界を支配するために生き、6か国語を操れたインテリマフィアで、マッセリアの次にマフィアの中で「ボスの中のボス」になった『サルヴァトーレ・マランツァーノ(Salvatore Maranzano)』がもう一人のボスです。

アメリカのマフィア

Gun Firearms Automatic Machine - Free photo on Pixabay (568620)

まず「マフィアのボスの中のボス」と呼ばれた『ジョー・マッセリア』と、次の世代に自らを「マフィアのボスの中のボス」と呼んだ『サルヴァトーレ・マランツァーノ』を、血縁地縁を重視する伝統主義時代の『旧世代』マフィアとされました。

これに対し、ルチアーノは、アメリカナイズされたビジネス主義の『新世代』の「マフィアのボスの中のボス」と呼ばれました。『新世代』の五大ファミリーのボスは、密輸で獲得した巨大な資金を元にアメリカ資本主義に適合した事業多角化を進めつつ、兄弟や親族で側近を固め『血縁』による絆を維持しました。

『旧世代』に生きたジョー・マッセリアは、シチリア系のマイナーな出身者であったため『新世代』より多様なギャングと積極的に同盟し続け急速に拡大しましたが、血縁を顧みない組織拡大だったために内部崩壊も早かったのです。

貧しい家庭から一大組織を形成し多くの富を手に入れた

Money Dollars Gun - Free photo on Pixabay (568621)

アメリカのニューヨークは、移民でしか成り立たない都市だったので、アメリカの中でも特に「人種のるつぼ」と呼ばれる都市です。ほとんどの移民は、今では難民とされるような者がほとんどでした。

ラッキー・ルチアーノも、貧しい移民家庭からマフィアの一大組織を形成し、多くの富を手に入れた社会の成功者です。その手腕は、貧しい子供時代、英語が下手で学校に行かなくなり、愚連隊に加わることから始まり、シチリアの子供ギャングを形成した時に手に入れたものが発端になりました。

ラッキールチアーノの生い立ち

Gangster Mobster Criminal - Free vector graphic on Pixabay (568622)

ルチアーノの生い立ちは、私たちには想像できないほど貧しく、貧しかったせいで幼少期に違う国へ移住するという、自分の意志でなくガラッと人生を変えられることも経験しました。

幼い頃に、引っ越しを繰り返すと、もれなく自己というものを自分で見つめるきっかけが与えられ、環境が変わることに抵抗が少なくなり、むしろじっとしていることが苦手になりがちです。

しかし、必要以上になにかに飢えるという感覚を持たないほど、飄々として生きていた少年だったようです。

シチリア島の貧しい家で生まれる

Alley Road Sicily - Free photo on Pixabay (568623)

1897年11月24日、イタリアのシチリア島北西部に位置する、シチリア島最大の都市でシチリア州の州都でもあり、パレルモ県の県都でもある『パレルモ』から南南東へ46kmのところにあるコムーネ(伊: comune)『レルカラ・フリッディ(伊: Lercara Friddi)』の貧しい家庭に、4人の兄妹の次男として生まれました。

コムーネとは、イタリア語で「共同体」を指す言葉で、イタリアの自治体の最小単位である『基礎自治体』で、日本では『市』『村』とされます。

父親は硫黄鉱山で働くも貧しい生活が続く

Sicily Italy Texture - Free photo on Pixabay (568624)

父は硫黄鉱山で働く労働者『アントニオ』で、母『ロザリア』は主婦で、食べていくのが精一杯の貧しい家庭だったため、サルヴァトーレ・ルカーニア少年は、まともな教育を受けることも満足に食べることもなく成長しました。

18世紀イタリアで最も過酷な仕事の一つが鉱山での労働でした。シチリア島には硫黄鉱山がたくさんありましたが、労働条件は非常に厳しいものでした。鉱石を取るために、地下トンネルを掘る必要があり、ピックとシャベルの手作業で行われました。

硫黄鉱山内は温度が50度以上もあり、ピックで岩を破壊した地下数100mにつき25~30ポンドの袋を運び、1日10~12時間の労働時間で、大人は1日3~3.5リラ、子供は1日0.5〜2リラの収入でした。月曜日~土曜日まで家に帰らず、家からパンを持参し、たまにスープと一緒に食べ、大部屋でみんな一緒に眠りました。

家族そろってアメリカに移住

New York Skyline City - Free photo on Pixabay (568625)

1906年11月、両親と4人の兄妹のサルヴァトーレ一家は、アメリカ合衆国ニューヨーク市にに移住することになり、マンハッタン区イーストサイド・マンハッタンの南側「ロウアーイーストサイド(Lower East Side)」に暮らし始めました。

西端には、マンハッタン南部にある地域や通り『バワリー』があり、北端には、マンハッタン島の最南端に位置する地区で『ロウアー・マンハッタン』とも呼ばれる『ダウンタウン』の主要な東西に走る大通り『イースト・ハウストン・ストリート』がありました。

東端には『フランクリン・D・ルーズベルト・イースト・リバー・ドライブ』と呼ばれるマンハッタンを走る高速道路『FDRドライブ』があり、南端には、西のニュージャージー州へのホランド・トンネル~東のブルックリンへのマンハッタン橋を繋ぐ、東西に走る幹線道路の1つ『キャナル・ストリート』に囲まれた街です。

まともな教育を受けられず日雇い労働者として家族を養う

Craftsmen Site Workers - Free photo on Pixabay (568626)

サルヴァトーレ一家は「アメリカに移民して仕事すると、1日でシチリアの年収分が稼げる」と聞いていましたが、実際には父アントニオはまともな仕事にありつくことさえもできず、日雇いの労働者となり家族を養っていかねばなりませんでした。

サルヴァトーレ一家が描いたアメリカンドリームは、一瞬にして崩れさり、父がシチリアで硫黄鉱山の労働者として働いていたときと変わらず、一家は極めて貧しい生活を送ることになってしまいました。

スラム街で少年時代を過ごす

Street Scene Slum - Free photo on Pixabay (568628)

1 / 8

関連する記事 こんな記事も人気です♪