2019年8月20日 更新

血のバレンタイン事件とは?オンライン版の血のバレンタイン事件も!

『血のバレンタイン事件』という言葉を耳にされたことがありますか?バレンタインデーは恋人たちや好きな人達のための素敵な日なのに、ハッピーな匂いが全くしないこの事件とは?驚くことに、血のバレンタイン事件は一つではないんです!

目次

血のバレンタイン事件はどんな事件?

Blood Heart Broken - Free photo on Pixabay (565354)

聖バレンタインデーの虐殺(St. Valentine's Day Massacre)は、1929年2月14日に、アメリカ合衆国中西部に位置し、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ人口を持つイリノイ州最大の都市『シカゴ(Chicago)』で起きた『ノースサイド・ギャング』と『サウスサイド・ギャング』との間で起きた抗争事件です。

ノースサイド・ギャング(The North Side Gang)とは、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに存在した禁酒法時代のギャングです。

サウスサイド・ギャング(The South Side Gang)は、後の『シカゴ・アウトフィット(The Chicago Outfit)』と呼ばれるアメリカ合衆国イリノイ州シカゴに本拠を置くマフィア組織で、その歴史は古く1920年代の禁酒法時代以前にまで遡り、シカゴを単独で支配している唯一のマフィア・ファミリーです。

血のバレンタイン事件の概要

Hand Blood Smeared - Free image on Pixabay (565223)

ジョージ・クラレンス・"バグズ"・モラン(George Clarence "Bugs" Moran)率いる『ノースサイド・ギャング』と、アル・カポネ(Al Capone)率いる『サウスサイド・ギャング』が、血で血を洗う抗争を繰り返していました。

バッグズ・モランは頻繁にカポネの命を狙っており、危機を感じていたアル・カポネはバッグズ・モランを抹殺するために、アル・カポネと部下の『ジャック・"マシンガン"・マクガーン(Jack "Machine gun" McGurn)』とある計画をしました。

バッグズ・モランに「密造酒の偽取引」を持ち掛け、サウスサイド・ギャングと協力関係にあったデトロイトに本拠を構える『パープル・ギャング』の協力を得て殺害が実行されました。

別名「聖バレンタインの虐殺」

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1929年、バレンタインデー( St. Valentine's Day)の2月14日に『サウスサイド・ギャング』のボスであるアル・カポネが指揮していたと言われる事件で、抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン率いる『ノースサイド・ギャング』の構成員4人と一般人3人の計7人が殺害されました。

大きな協力者がいました。一人目は、1945~1992年までシカゴ・アウトフィットの大ボスで『ビッグ・ツナ(Big Tuna)』と呼ばれた、『トニー・アッカルド』こと『アンソニー・"ジョー・バッターズ"・アッカルド(Anthony "Joe Batters" Accardo)』。

二人目は、アル・カポネの部下で、1957~1966年にシカゴ・アウトフィットのボスになる『サム・ジアンカーナ』こと『サルヴァトーレ・"サム"・ジアンカーナ(Salvatore "Sam" Giancana』でした。

1929年アメリカで起きた事件

Burglary Glass Blood - Free photo on Pixabay (565225)

1928年、『ノースサイド・ギャング』のモランが、ピーター&フランクの『グーゼンバーグ兄弟』を使い、アル・カポネの部下の『ジャック・“マシンガン”・マクガーン』の暗殺を図りましたが失敗し、『サウスサイド・ギャング』のアル・カポネの暗殺も2度ほど企て失敗していました。

1926年、『ノースサイド・ギャング』のボスのハイミー・ワイスがアル・カポネの刺客に殺害され、跡を継いだヴィンセント・ドルッチも1927年に警察に射殺され、バッグズ・モランが跡を継ぎました。

商売敵であるアル・カポネはバッグズ・モランの抹殺を企てました。1929年2月14日、まずグーゼンバーグ兄弟らが殺害され、数分遅れてSMC運送会社の倉庫に着いたバッグズ・モランは、倉庫の前に偽物のパトカーが止まっているのを見て素通りして難を逃れました。

シカゴ暗黒街のカポネが部下のモラン一家暗殺に同意

Mysterious Mafia Gangster - Free photo on Pixabay (565226)

1925年、『サウスサイド・ギャング』のボス『ジョニー・トーリオ』こと『ジョン・"パパ・ジョニー"・トーリオ(John "Papa Johnny" Torrio』が襲われて引退し、アル・カポネは26歳にして縄張りを譲られ組織のトップに立ちました。

酒の密売でのし上がっていく過程で次々と敵を抹殺していく中、部下のジャック・マクガーンが「バッグズ・モランを抹殺すべきだ」と言い、アル・カポネにとってもバッグズ・モランは商売敵で自分の命を脅かす存在だったため同意し、ジャック・マクガーンに1万ドルと暗殺にかかる諸経費を支払う約束をしました。

モラン一家の構成員6人と通行人1人死亡

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1929年2月14日の午前10時半頃、「密造酒の偽取引」を持ち掛けられていた『ノースサイド・ギャング』のボスのバッグズ・モランと関係者たちは『パープルギャング』が強奪したウィスキーを、シカゴ北部のSMC運送会社の倉庫にあるモランの本部に配送することになっていました。

『ノースサイド・ギャング』の関係者6人が倉庫に入り、たまたまそこを通りかかった眼鏡屋のラインハルト・シュヴィマーと話をしていると、5人の警察官が倉庫にやってきて全員に壁に並ぶよう命じ、7人は素直に指示に従いました。

カポネ側は警察官に扮していた

Squad Car Police Lights - Free photo on Pixabay (566544)

実はこの5人の警察官は、アル・カポネ側のヒットマンが扮装した偽警察官であり、アメリカ合衆国で開発され禁酒法時代の警察とギャングの双方に用いられたことで有名な短機関銃『トンプソン・サブマシンガン』とショットガンを取り出して一斉に発砲し彼らを蜂の巣にしました。

時間はわずか8分ほどで素早く行われ、本物の警察官が現場に駆け付けた時には『グーゼンバーグ兄弟』のフランク・グーゼンバーグのみ生存しており、病院に搬送されましたが3時間後に死亡しました。

バッグズ・モランは、倉庫に到着するのが数分遅れたため倉庫の前に偽物のパトカーが止まっているのを見て警察の手入れを恐れて、連れのマークスとニューベリーの2人とその場を逃げ出したので殺されずに済みました。

カポネや部下はアリバイを主張

Gangster Crooks Mafia - Free image on Pixabay (565230)

アル・カポネの部下のジャック・“マシンガン”・マクガーンと、『恐怖のジェンナ』と恐れられたギャングスター『ジェンナ兄弟(Genna Brothers)』に雇われていた『双子の殺し屋(murder twins)』のアルバート・アンセルミ(Albert Anselmi)&ジョン・スカリーゼ(John Scalise)はアリバイを主張して無罪となりました。

アル・カポネは事件当時、フロリダで事情聴取を受けており、結局、この虐殺の罪では一人も逮捕されませんでした。事件後、ノースサイド・ギャングはカポネに対して最早重要な脅威ではなくなり、モランは1957年まで生き永らえました。

この凄惨な事件がマスコミによって大々的に取り上げられると、これまで大衆の人気者だったアル・カポネは一転憎悪の的となり、警察は総力を挙げてアル・カポネ起訴に乗り出すことになりました。

カポネは自作自演で逮捕

Handcuffs Black Criminal - Free photo on Pixabay (565231)

1929年5月、アメリカ合衆国ニュージャージー州アトランティック郡に位置し、アメリカ東海岸最大規模のカジノがある観光都市であるアトランティック・シティ(Atlantic City)で行なわれた暗黒街の会議の後、アル・カポネは「拳銃の不法所持」で自作自演で逮捕されました。

逮捕理由は、聖バレンタインデーの虐殺でアル・カポネの行動が目立ちすぎているので、世間の非難の目をそらすという意味で、このことも会議の議題の一つになっていました。

刑務所に10ヶ月入る

Human Rights Prison Jail - Free photo on Pixabay (565232)

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