目次
- ジョンレノン殺害事件の犯人マークチャップマン
- ジョンレノン殺害事件とは
- 1980年12月8日
- アメリカ・ニューヨーク市のダコタ・ハウス入り口
- ビートルズのリーダーであるジョンレノン(当時40歳)が射殺された
- 犯人はマークチャップマン
- ルーズヴェルト病院に搬送されたが到着直後に死亡が確認
- マークチャップマンとは
- マーク・デイヴィッド・チャップマン
- 14歳の頃からドラッグや夜遊びをして警察の世話になっていた
- 16歳で伝道師の説教会をきっかけに真面目になる
- 高校卒業後は婚約者であった恋人と同じ大学に進学するも成績が振るわず
- 別の女性を愛してしまい罪悪感
- この頃から自殺願望が芽生える
- ハワイで何度か自殺を試みるが全て失敗に終わる
- その後結婚し仕事を始めるが、神経過敏を再発しクビになり、夜警になる
- さまざまな衝動的で暴力的な異常行動が続くようになる
- ジョンレノンの伝記を読み、その金満生活に怒り狂い殺害を目論む
- 10月23日に夜警をやめる
- 10月27日に銃を買う
- 10月30日にレノンの住むニューヨークに向けてホノルルを発つ
- マークチャップマンが受けた判決
- 第二級謀殺の罪で告発
- 第二級謀殺の罪において最高刑である「20年から終身まで」の無期刑の判決
- 10度の仮釈放の申請をしているが、いずれも却下
- マークチャップマンが起こしたジョン・レノン殺害事件のその後
- キャピトル・レコード本社ビルの前では毎年12月8日に記念式典が催されている
- 多くのアーティストがジョンレノンへの追悼曲を発表
- セントラル・パーク内に「ストロベリー・フィールズ」を開所
- 2007年12月7日「ジョンレノンを撃った男(The Killing of John Lennon)」が公開
- 2008年3月28日「チャプター27」が公開
- マークチャップマンの妻のその後
- グロリア・ヒロコ・チャップマン
- 今でも服役中の夫に会いに訪れている
- 「これまで以上に彼を愛している」
- 一年に一度44時間、刑務所の敷地内にあるトレーラーハウスの中で一緒に過ごすことが許されている
- マークチャップマンが殺した「ジョン・レノン」とは
- ジョン・レノンの生い立ち
- ジョン・レノンがビートルズになるまで
- ジョン・レノンと日本の関係
- 妻オノ・ヨーコと頻繁に訪日していた
- 二人で歌舞伎隅田川を観劇し感涙
- 1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援
- 軽井沢で夏を過ごした際に宿泊したホテル内の記念館にジョンのサインや、欲しがったといわれるピアノなどが収められている
- 来日時には妻と靖国神社を訪れ参拝していた
- マークチャップマンが起こした事件は多くのファンを傷つけた
ジョンレノン殺害事件の犯人マークチャップマン
via pixabay.com
マーク・デイヴィッド・チャップマンは、アメリカの殺人犯です。あのビートルズで有名なジョン・レノンを殺害した殺害犯として知られている男です。マークチャップマンとは一体どんな人なのでしょうか?性格や生い立ちなどを詳しく見ていきます。
またマークチャップマンが起こしたジョン・レノン殺害事件のその後やマークチャップマンの妻のその後についても真相に迫っていきたいと思います。日本にも衝撃が走ったジョンレノン殺害事件の犯人マークチャップマンについて詳しく解説していきます。
またマークチャップマンが起こしたジョン・レノン殺害事件のその後やマークチャップマンの妻のその後についても真相に迫っていきたいと思います。日本にも衝撃が走ったジョンレノン殺害事件の犯人マークチャップマンについて詳しく解説していきます。
エリサ・ラム事件の真相と考察!エレベーターの動画は逆再生だった? - POUCHS(ポーチス)
エリサ・ラム事件とは、2013年にアメリカで起きた女子大生の怪死事件です。「女性の死は霊の仕業」「女性が映った映像を逆再生すると真相が分かる」などの奇妙な考察もありますが、本当なのでしょうか?今回は、謎めいたエリサ・ラム事件の真相に迫ります。
ジョンレノン殺害事件とは
via pixabay.com
ジョンレノン殺害事件とは、日本でも有名なロックバンド、ビートルズのジョン・レノンが殺害された事件です。犯人は、当時ハワイ州ホノルルに在住していた、マーク・デイヴィッド・チャップマンです。
ジョン・レノンのファンであったという犯人のマーク・デイヴィッド・チャプマンが、ジョン・レノンの自宅前で待ち伏せをし銃を乱射、ジョン・レノンは射殺され、犯人のマーク・デイヴィッド・チャプマンその場で逮捕されたという衝撃的な事件です。
事件の概要を詳しく順を追ってみていきましょう。
ジョン・レノンのファンであったという犯人のマーク・デイヴィッド・チャプマンが、ジョン・レノンの自宅前で待ち伏せをし銃を乱射、ジョン・レノンは射殺され、犯人のマーク・デイヴィッド・チャプマンその場で逮捕されたという衝撃的な事件です。
事件の概要を詳しく順を追ってみていきましょう。
1980年12月8日
via pixabay.com
ジョンレノン殺害事件が起きたのは、1980年12月8日の夜でした。被害者であるジョン・レノンのこの日の動きは、まず写真家のアニー・リーボヴィッツが、雑誌の写真撮影を行うため、ジョン・レノンの自宅を訪れていました。リーボヴィッツの予定では、ジョン・レノンのみの撮影のつもりでしたが、ジョン・レノンは自分と妻のオノ・ヨーコとのツーショットでの撮影を望んだそうです。そして雑誌の表紙でその写真を使うことを約束しました。
写真撮影のあとは、ラジオの音楽番組で放送される予定のインタビューに応じましたが、これが彼の最後のインタビューとなってしまいます。そして17時40分、迎えのリムジンが遅れて到着し、ジョンとヨーコは「Walking on Thin Ice」のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに向かいました。
スタジオへ向う途中、サインを求める人の中の1人にマーク・デイヴィッド・チャップマンがいました。なんと犯人とジョン・レノンは一度あっているのです。ジョン・レノンがサインし終わったアルバムを渡した時、チャップマンは笑顔で受け取っていたそうです。この瞬間は写真家でジョンのファンであるポール・ゴレシュによって、偶然にも写真に収められています。
写真撮影のあとは、ラジオの音楽番組で放送される予定のインタビューに応じましたが、これが彼の最後のインタビューとなってしまいます。そして17時40分、迎えのリムジンが遅れて到着し、ジョンとヨーコは「Walking on Thin Ice」のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに向かいました。
スタジオへ向う途中、サインを求める人の中の1人にマーク・デイヴィッド・チャップマンがいました。なんと犯人とジョン・レノンは一度あっているのです。ジョン・レノンがサインし終わったアルバムを渡した時、チャップマンは笑顔で受け取っていたそうです。この瞬間は写真家でジョンのファンであるポール・ゴレシュによって、偶然にも写真に収められています。
アメリカ・ニューヨーク市のダコタ・ハウス入り口
via pixabay.com
マーク・デイヴィッド・チャップマンは、1980年12月8日の午前中からダコタ・ハウスの外でジョン・レノンを待ち構えていたのです。待ち伏せしている間にもジョン・レノンの息子であるショーンに遭遇しています。チャップマンは思わずショーンに触れたと後の調べでわかりました。
ジョン・レノン夫妻は22時50分ごろダコタ・ハウスに戻るまでの数時間をレコード・プラント・スタジオで過ごしました。ジョンは夕食を外でとる予定でしたが、息子の顔を一目見ようと一旦ダコタ・ハウスに戻ってからレストランに向かうことにしました。
そのダコダ・ハウスの前で、マーク・デイヴィッド・チャップマンが待ち構えているのも知らずに、ジョンは息子に会いに家に戻ったのです。
ジョン・レノン夫妻は22時50分ごろダコタ・ハウスに戻るまでの数時間をレコード・プラント・スタジオで過ごしました。ジョンは夕食を外でとる予定でしたが、息子の顔を一目見ようと一旦ダコタ・ハウスに戻ってからレストランに向かうことにしました。
そのダコダ・ハウスの前で、マーク・デイヴィッド・チャップマンが待ち構えているのも知らずに、ジョンは息子に会いに家に戻ったのです。
ビートルズのリーダーであるジョンレノン(当時40歳)が射殺された
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犯人であるマーク・デイヴィッド・チャップマンはダコダ・ハウスの前の草場の中でジョン・レノン帰りを数時間待っていました。ジョンが帰宅すると背後から呼びかけた直後に拳銃を5発撃ち、内2, 3発が胸に命中したのです。
チャップマンは発砲する前に大声で「レノンさん!!」と呼びかけてから、銃を構えたといいます。ジョンはチャップマンの呼びかけに応じた時、さっき会ったことを思い出していたようです。チャップマンがはなった1発目の銃弾は、ジョンに命中せずに窓に当たりました。続く2発の銃弾はジョンの背中左側に命中してしまい、そのあとの2発がジョンの左肩を貫通しています。
ジョンは打たれた傷口と口から大量に出血し、ダコタ・ハウスの階段をふらふらと5段登ったところで床の上に崩れ落ちています。犯行に使われた拳銃は、ハウスの警備員がすぐに駆けつけ蹴り飛ばされ、犯人であるチャップマンもすぐに捕まっています。
チャップマンは発砲する前に大声で「レノンさん!!」と呼びかけてから、銃を構えたといいます。ジョンはチャップマンの呼びかけに応じた時、さっき会ったことを思い出していたようです。チャップマンがはなった1発目の銃弾は、ジョンに命中せずに窓に当たりました。続く2発の銃弾はジョンの背中左側に命中してしまい、そのあとの2発がジョンの左肩を貫通しています。
ジョンは打たれた傷口と口から大量に出血し、ダコタ・ハウスの階段をふらふらと5段登ったところで床の上に崩れ落ちています。犯行に使われた拳銃は、ハウスの警備員がすぐに駆けつけ蹴り飛ばされ、犯人であるチャップマンもすぐに捕まっています。
犯人はマークチャップマン
via pixabay.com
犯人であるマーク・デイヴィッド・チャップマンは事件後、現場から逃走しようともしなかったのです。それどころかチャップマンは、武器を隠し持っていないことを警察に示すため、わざわざコートと帽子を取って歩道に腰かけていました。
警官が到着するまで現場をうろついたり、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだりして、警察の到着を持っていたというから驚きです。逮捕される時も一切抵抗せずに、手錠をかけられてパトカーの後部座席に乗り込んでいったのです。
警官が到着するまで現場をうろついたり、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだりして、警察の到着を持っていたというから驚きです。逮捕される時も一切抵抗せずに、手錠をかけられてパトカーの後部座席に乗り込んでいったのです。
ルーズヴェルト病院に搬送されたが到着直後に死亡が確認
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銃で撃たれたジョン・レノンの容態は急を要したため、救急車を待っていられませんでした。すぐに駆けつけたパトカーの後部座席に乗せ、すぐに近くのルーズベルト病院まで運んだのです。しかし病院に搬送されました時にはすでに悪い状態で、出血多量による死亡が確認されたのです。
ジョンは到着時にはすでに脈拍がなく呼吸も止まっていました。医師や看護師が、15~20分かけてジョンを蘇生させるための処置を行いましたが蘇生させることはできず、最終手段としてジョンの胸部を切開して、直接手で心臓をマッサージしようとしました。しかしこの時、心臓周辺の血管の損傷が大きすぎることを発見しました。
この時のジョン・レノンはどんなに迅速に医療処置を施したとしても、数分以上生存することは不可能であったといわれています。
ジョンは到着時にはすでに脈拍がなく呼吸も止まっていました。医師や看護師が、15~20分かけてジョンを蘇生させるための処置を行いましたが蘇生させることはできず、最終手段としてジョンの胸部を切開して、直接手で心臓をマッサージしようとしました。しかしこの時、心臓周辺の血管の損傷が大きすぎることを発見しました。
この時のジョン・レノンはどんなに迅速に医療処置を施したとしても、数分以上生存することは不可能であったといわれています。
マークチャップマンとは
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ジョン・レノン殺害事件の犯人であるマーク・デイヴィッド・チャップマンは一体どんな人物なのでしょう。世界中から愛されるビートルズの有名人を殺害した人物、マーク・デイヴィッド・チャップマンの素顔に迫ります。
マーク・デイヴィッド・チャップマン
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マーク・デイヴィッド・チャップマンは、テキサス州フォートワース生まれで、家族構成は元アメリカ空軍の父親、看護婦の母親、7歳下の妹といういたって普通の家庭でした。しかし、父親は妻に暴力をふるう男で、チャップマンに対しても愛情がなかったと本人は語っています。
父親に怯える生活の中でいつしか、「自分は寝室の壁の中に住む小人たちを支配する王である」という意味不明な空想に浸るようになるのです。その空想の中ではチャップマンは小人たちの英雄だったり、イライラすると小人たちを殺したりしていたのです。空想の中なので何をしても怒られなかったと彼は言っています。
運動が苦手な反面、頭のいいチャップマンのiQは121あり、周りから見るとごく普通の子供のように見え、周囲からは幸せな一家と思われていました。
父親に怯える生活の中でいつしか、「自分は寝室の壁の中に住む小人たちを支配する王である」という意味不明な空想に浸るようになるのです。その空想の中ではチャップマンは小人たちの英雄だったり、イライラすると小人たちを殺したりしていたのです。空想の中なので何をしても怒られなかったと彼は言っています。
運動が苦手な反面、頭のいいチャップマンのiQは121あり、周りから見るとごく普通の子供のように見え、周囲からは幸せな一家と思われていました。
14歳の頃からドラッグや夜遊びをして警察の世話になっていた
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