2019年8月24日 更新

ラッキールチアーノの生い立ちや行った犯罪の数々!学べることは?

アメリカの禁酒法時代に、たくさんのギャングスターが生まれましたが、その中でも特にみんなから「ボスの中のボス」と慕われ憧れられた一人の人物がおりました。その名も『ラッキー・ルチアーノ』は、決して前に出すぎることを好まずに圧倒的な社会的成功者になりました。

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イースト川に突き出たこの『ロワー・イースト・サイド』というエリアは、1816年には、性別を問わない街娼により悪名高い地域になり、1821年の週刊誌『Christian Herald』では「夜には娼婦と盗人のたまり場となるエリア」と記述され、19世紀には、性別を問わない街娼らは『フッカーズ (hookers)』 と呼ばれたエリアです。

アイルランド、イタリア、スペインなどから来た多くの貧しい移民の人々が暮らした場所でもあり、のちに有名になるマフィアたちも、この街で暮らしていました。ルチアーノ少年は、悪夢のようなスラム街で少年時代を過ごすことになり、このときのことを「人生最悪の経験」と語っています。

万引きし初めて警察沙汰となる

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英語が下手で学校に馴染めなかったルチアーノ少年は愚連隊に加わり、裕福なユダヤ人の子供相手に「アイルランド野郎から守ってやるから金払いな」とカツアゲする毎日を送っていました。子供たちはしぶしぶと1セントを支払いました。

ルチアーノ少年は学校では無断欠席の常習犯だったため、ワルばかりのブルックリンの補導学校に4ケ月入れられ、泥棒とスリのノウハウだけ学び、1907年に初めて万引きで警察に検挙されました。

ラッキールチアーノがマフィアの幹部に上りつめるまで

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食べるにも事欠くほど貧しいルチアーノ少年がマフィア最高幹部に上りつめるまでには、ワルだらけではありますが、まるで映画のようなドラマティックな出逢いからの物語がありました。

幼い時から移民として暮らし始めたニューヨークには、自分と同じような環境で過ごすワルたちが、互いに認め合いワルさを磨いていく環境が揃っていました。ローワー・イーストサイドには、子供ギャング団がいくつも存在し、やがて10人のシチリア人ギャング団を結成したルチアーノは盗みとゆすりを繰り返しました。

人との出会いの大切さや儚さや距離のとり方など、身を持って知り始めることになり、やがて組織を引っ張り始めるようになるまでに時間はかかりませんでした。

アメリカに既に存在していたイタリア系ギャングに加入

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ルチアーノ少年は、1890~1900年代にかけてニューヨークのロウアー・イースト・サイド界隈で、賭博・売春・組織的スリ・略奪、政治闘争の下請けを行っていた、イタリア系のストリートギャング『ファイブ・ポインツ・ギャング(Five Points Gang)』に身を投じました。

『ファイブ・ポインツ・ギャング』は、1900年代初頭にはバワリーを拠点に最大1500人にも増え、ユダヤ系ギャング『イーストマンズ』と抗争していました。

アルカポネと出会う

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イタリア系のストリートギャング『ファイブ・ポインツ・ギャング』に身を置いていた頃、のちにシカゴのマフィアのボスになる『アル・カポネ』とも出逢いました。カポネがシカゴへ行くときには2万ドルの餞別も渡しているほどです。

さらにその後『ジョー・アドニス』『ヴィト・ジェノヴェーゼ』『フランク・コステロ』らイタリア系の移民犯罪者や『ベンジャミン・シーゲル』『ダッチ・シュルツ』『ルイス・バカルター』ら他国系の移民犯罪者とも親交を持ちました。

マイヤーランスキーと出会う

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後にルチアーノの生涯の友になり、財政顧問としてはユダヤ系ロシア人のギャングになる、本名『マイェル・スホフラニスキ(Majer Suchowlański)』である『マイヤー・ランスキー(Meyer Lansky)』と出逢います。

2人のことを良く知り『バグジー』と呼ばれ、両親はウクライナ出身のユダヤ系移民で、後に賭博の街ラスベガスの成立に関わる、『ベンジャミン・シーゲル』は「ルチアーノとランスキーには恋人のような強い絆があった」と語っています。

小遣い稼ぎでユダヤ人の用心棒をやっていたルチアーノは、ランスキーに「アイルランド人から守ってやるから金を払いな」と言うと、頭一つ分小さいランスキーは睨みながら「用心棒?くそくらえだ!」と言い返し、驚いたルチアーノは「お互いに片時も忘れたことのない大切な瞬間だった」と語るほど大切にした友人です。

次々と他国系犯罪者と親交を深める

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さらにその後、イタリア語で「我らのもの」を意味する、新世代イタリア系犯罪組織マフィア『コーサ・ノストラ(La Cosa Nostra)』の幹部になる『ジョー・アドニス』。残忍で狡猾で権力欲が旺盛で、コーサ・ノストラのボスになる『ヴィト・ジェノヴェーゼ』。

冷静沈着で、暴力でなく政治力を駆使し「暗黒街の首相」と呼ばれ、マフィア最高幹部会コミッションの議長でコーサ・ノストラのボス『フランク・コステロ』らイタリア系の移民犯罪者。

賭博の街ラスベガスの成立に関わったバグジーこと『ベンジャミン・シーゲル』。気が短く暴力的で、流血沙汰を多く起こしたマフィア『ダッチ・シュルツ』。ユダヤ系ギャングスター『ルイス・バカルター』ら他国系の移民犯罪者とも親交を持ちました。

様々なビジネスを手がける

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1916年、19歳のルチアーノは麻薬の密売に手を染めるほどのワルに成長しており、ハンプトン刑務所に半年間ぶち込まれ、物事を慎重に進めることを覚えました。シャバに出たルチアーノは自らを『チャーリー・ルチアーノ』と名乗り、15歳になり腕っ節が強く度胸もあり、頭が良いランスキーを一味に加えました。

ランスキーは「バグジー=キチガイ」と呼ばれ大柄で暴れだすと止まらない11歳のユダヤ人少年を連れて来ました。後に「ラスベガスを作った男」として有名になる『ベンジャミン・シーゲル』でした。さらに、銃器不法所持の罪で服役していた『フランク・コステロ』が仲間に加わり最強のチームが結成されました。
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刑務所に懲りたルチアーノは、賄賂をバラ蒔くことで先手を打つため「バイマネー・バンク(Buy-Money Bank)」基金という「賄賂銀行」も設立しました。運用を任されたのは人当たりの良いコステロでした。

ルチアーノが指揮を取り、参謀のランスキーが策を練り、コステロが実行に移し、トラブルが起こればシーゲルの出番と、ルチアーノ一味は極めて合理的に事を運びました。やがて禁酒法が施行されると、ルチアーノ一味は膨れ上がり手下も増えました。

ルチアーノは、さらにギャンブルや売春業や密造酒事業などでも儲け始め、洒落た格好をし、常に美女軍団を引き連れ、ナイトクラブで大盤振る舞いをするニューヨークのプレイボーイとしても有名になり、世界屈指の一流ホテル『ウォルドルフ=アストリア』の豪華なスイートルームに住み始めました。

古いやり方や民族への拘りに憤りを感じていた

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10代の頃より商才を発揮し、イタリア人同士の対立にはできる限り関与せず、友人達と中立の立場にいましたが、1920年後半、ジョー・マッセリアvsサルヴァトーレ・マランツァーノ『カステランマレーゼ戦争』が本格化すると、どちらかに付かざるを得ない状況になってきました。

しかし「武力で相手を押さえつけるマッセリアのやり方には何のメリットもない」「シチリア人だけにこだわるマランツァーノの組織は時代遅れだ」と思っていたルチアーノは、旧時代のマフィア体制『マーノ・ネーラ』のボスたちの時代を終わらせようと考えていました。

マフィアの生き残りのため他組織と同盟

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ルチアーノの若手ギャング団は、民族にこだわらず10年でこそ泥から「ボスの中のボス」と皆に呼ばれていたニューヨークマフィアのボス『マッセリア』に認められ、その配下に入り、マンハッタン地区を任せられるナンバー2へ上り詰めていました。

1928年頃「シチリア島出身だけで固める体制はもう古い。各地の組織と協力しないと今後は生き残っていけない」と提案し承諾を得て、カラブリア州出身の『アルバート・アナスタシア』や、カンパーニャ州出身の『ジョー・アドニス』『ヴィト・ジェノヴェーゼ』など、後の大物になるマフィアになるを仲間に入れました。

シカゴを引退していた『ジョニー・トーリオ』たちと「ザ・セヴン・グループ」という、穏やかな同盟関係も構成し、1929年、ニュージャージー州で全国から集まった若手ギャングスターと会議を開き「ファミリー間の地位は大きさに関係なく同等にする」というコミッション制にすることを提案しました。

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