目次
- 「ラッキー」と呼ばれたルチアーノの生涯
- 本名サルヴァトーレ・ルカーニア
- アメリカのマフィア
- 貧しい家庭から一大組織を形成し多くの富を手に入れた
- ラッキールチアーノの生い立ち
- シチリア島の貧しい家で生まれる
- 父親は硫黄鉱山で働くも貧しい生活が続く
- 家族そろってアメリカに移住
- まともな教育を受けられず日雇い労働者として家族を養う
- スラム街で少年時代を過ごす
- 万引きし初めて警察沙汰となる
- ラッキールチアーノがマフィアの幹部に上りつめるまで
- アメリカに既に存在していたイタリア系ギャングに加入
- アルカポネと出会う
- マイヤーランスキーと出会う
- 次々と他国系犯罪者と親交を深める
- 様々なビジネスを手がける
- 古いやり方や民族への拘りに憤りを感じていた
- マフィアの生き残りのため他組織と同盟
- カステランマレーゼ戦争
- マッセリアと協定するもマッセリアを暗殺
- マランツァーノと協定するもマランツァーノを暗殺
- シチリアの晩鐘
- 最高幹部となる
- 事業の売り上げは20億ドルとも言われている
- ラッキールチアーノが行った犯罪の数々
- 麻薬ビジネス
- 売春業
- 賭博
- 暗殺指示
- 殺人
- 政治家や警察への賄賂
- 異例だったラッキールチアーノの行動
- マランツァーノ一家の誘いを断る
- マフィアの古いしきたりを撤廃した
- 全米犯罪シンジケートの立ち上げ
- 法律を利用してぼろ儲け
- キューバに目を付ける
- 犯罪組織間の争いを無くし潜在化させ利益に繋げた
- ラッキールチアーノの晩年
- 検事トーマス・デューイ
- アーカンソー州のカジノで遊んでいたところを逮捕
- 高額な費用で弁護士を雇い釈放されるが再逮捕されニューヨークに連行
- 検察側が売春婦を脅しルチアーノへ不利な証言をさせる
- 強制売春を頑なに否定するも有罪判決が下る
- ギャングが恐れるダンネモーラ刑務所に収監される
- 第二次世界大戦勃発
- マフィアとアメリカは手を組む
- ヨーロッパ戦線終結後恩恵を求める嘆願書を提出し許可される
- イタリアへ強制送還
- キューバに渡るなどするもイタリアに再度戻ることとなる
- イタリアでも密輸や麻薬売買などビジネスを続ける
- 心臓発作により死亡
- ラッキールチアーノの優れた部分
- 組織力
- 常識に囚われず常に時代の流れをよんでいた
- 民族や少数などにこだわりを持たなかった
- 優勢者を見抜き常に身軽に行動した
- どのような環境に置かれても自身を活かす行動をとった
- 知られざるラッキールチアーノ情報
- 好物はバニラアイス
- 華奢だったが腕力は非常に強かった
- 55針を縫う大けがを負っても奇跡的に生還した
- 眼鏡にまで拘るお洒落な人物
- 盟友に刺客を送られたことがある
- ルチアーノに会うと裁判官や政治家まで握手を求めた
- ラッキールチアーノから学ぶべきこと
- 常識や習わしに従い続けず常に考え進む
- 自分の利益だけではなく相手に利益をもたらす事で良好な関係が築ける
- 教育が受けられず出生が貧しくとも大きな富を生み出すことができる
- 身なりや仕草を整える重要性
- ラッキールチアーノはずば抜けた思考力と行動力を持っていた
イタリアへ強制送還
via pixabay.com
第二次世界大戦中の『ハスキー作戦』への協力の見返りに当初から密約済だったという説や、裏で後に政治家を目指すデューイに多額の政治資金を送ったという説もありますが、ルチアーノは、アメリカ政府から連合国への協力が認められて釈放されました。
しかし、アメリカ市民権を獲得していなかったことから、船でイタリアに送還されることになってしまい、1946年2月、ニューヨーク港を発った豪華な船上パーティーでルチアーノの送別会が行なわれました。
パーティーには、マイヤー・ランスキー、ベンジャミン・シーゲル、フランク・コステロ、ジョゼフ・ボナンノ、オウニー・マドゥン、カルロ・ガンビーノ、アルバート・アナスタシアらマフィアの大物が多数参加し、ルチアーノは「すぐにアメリカに戻れる」と思っていました。
しかし、アメリカ市民権を獲得していなかったことから、船でイタリアに送還されることになってしまい、1946年2月、ニューヨーク港を発った豪華な船上パーティーでルチアーノの送別会が行なわれました。
パーティーには、マイヤー・ランスキー、ベンジャミン・シーゲル、フランク・コステロ、ジョゼフ・ボナンノ、オウニー・マドゥン、カルロ・ガンビーノ、アルバート・アナスタシアらマフィアの大物が多数参加し、ルチアーノは「すぐにアメリカに戻れる」と思っていました。
キューバに渡るなどするもイタリアに再度戻ることとなる
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イタリアへ強制送還されたルチアーノは、生まれ故郷のレルカラ・フリッディに帰りましが、田舎の環境が気に入らずイタリア南部のナポリで生活し始めました。
その後一度はキューバに落ち着き、1946年キューバで、ベンジャミン・シーゲルの処遇や麻薬取引のことで、マフィアの全国委員会「ハバナ会議」が開かれ議長を務めました。
しかし、キューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタの息子や孫とうまくいかず、キューバを支配していたアメリカ政府がキューバ政府に圧力をかけたため、1年後にはイタリアへ戻ることになりました。
その後一度はキューバに落ち着き、1946年キューバで、ベンジャミン・シーゲルの処遇や麻薬取引のことで、マフィアの全国委員会「ハバナ会議」が開かれ議長を務めました。
しかし、キューバの独裁者フルヘンシオ・バティスタの息子や孫とうまくいかず、キューバを支配していたアメリカ政府がキューバ政府に圧力をかけたため、1年後にはイタリアへ戻ることになりました。
イタリアでも密輸や麻薬売買などビジネスを続ける
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イタリアに戻ったルチアーノは、パレルモに住み、その後ナポリに移り、スカラ座のバレリーナ『イゲア・リッソーニ』を愛人にし、彼女と共に毎日のように競馬場や高級レストランに通い優雅な生活を送り、表では医療器具や家庭電化製品を扱う商人として、裏では麻薬や煙草の密輸をしていました。
アメリカから追放された後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンを、レバノンでモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部やフランスのマルセイユに運び、ジアモルヒネに精製させていました。
アメリカ本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、中継基地のキューバも手中に収め、マフィアの勢力はさらに拡大し、ルチアーノは間違いなく1950年代の麻薬王になり、さらにその巨大資金を、ミラノの弁護士&銀行家ミケーレ・シンドーナにマネーロンダリングさせていました。
アメリカから追放された後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンを、レバノンでモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部やフランスのマルセイユに運び、ジアモルヒネに精製させていました。
アメリカ本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、中継基地のキューバも手中に収め、マフィアの勢力はさらに拡大し、ルチアーノは間違いなく1950年代の麻薬王になり、さらにその巨大資金を、ミラノの弁護士&銀行家ミケーレ・シンドーナにマネーロンダリングさせていました。
心臓発作により死亡
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ルチアーノはその後も、シシリー・マフィアとカモッラとの仲をとりもったりするなど、常にイタリアとアメリカの犯罪組織に大きな影響を与え続けていましたが、再び生きてアメリカの土を踏むことはありませんでした。
そして、1962年1月16日、自伝映画製作者を出迎えるためナポリ空港に出向いたとき、空港で心臓発作を起こし死亡しました。
アメリカのマフィアは映画製作に反対していたことから、ルチアーノの死は暗殺の疑いもありましたが、ルチアーノの遺体はニューヨークのセント・ジョーンズ墓地に埋葬されました。
そして、1962年1月16日、自伝映画製作者を出迎えるためナポリ空港に出向いたとき、空港で心臓発作を起こし死亡しました。
アメリカのマフィアは映画製作に反対していたことから、ルチアーノの死は暗殺の疑いもありましたが、ルチアーノの遺体はニューヨークのセント・ジョーンズ墓地に埋葬されました。
ラッキールチアーノの優れた部分
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イタリアの貧しい移民だった少年が、一代で巨万の富を築き上げ、成功しても奢らず満足せず進み続けることで成功者であり続けたラッキールチアーノには、優れた部分がたくさんありました。
ラッキー・ルチアーノがどんなことで優れていたかを知ることで、ハッとさせられることがあります。無意識にすることでは、なかなか自分の間違いに築くことは難しいですが、圧倒的な成功者がどんなことに気をつけて成功したのかを知ることで、私たちは自分の生き方について考えさせられる機会を与えられます。
ラッキー・ルチアーノがどんなことで優れていたかを知ることで、ハッとさせられることがあります。無意識にすることでは、なかなか自分の間違いに築くことは難しいですが、圧倒的な成功者がどんなことに気をつけて成功したのかを知ることで、私たちは自分の生き方について考えさせられる機会を与えられます。
組織力
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権力者の多くは、自己顕示力をアピールするために大きくなろうとしますが、ルチアーノの上に『マーノ・ネーラ』の二大ボスが派閥争いしていた頃に「それでは本末転倒だ」ということをラッキー・ルチアーノは嫌というほど思い知らされていました。
偉いと言われたいから成功したいのではなく、安心して豊かに生活したいから成功するのだと。組織同士が成功することで、ますます相合利益を生み出せ、ますます潤った生活ができるということを実践していきました。
偉いと言われたいから成功したいのではなく、安心して豊かに生活したいから成功するのだと。組織同士が成功することで、ますます相合利益を生み出せ、ますます潤った生活ができるということを実践していきました。
常識に囚われず常に時代の流れをよんでいた
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富める人というのは「ここが最終地点」というところを決めないと言います。なので、一つ成功しても満足することなく、次へ次へとますます成功をつなげて加速させ、その成功は雪だるま式に巨大になっていきます。
自分だけの考え方に固執しすぎると、結局自分の首を絞める事になると、『マーノ・ネーラ』の二大ボスから強烈な反面教師の影響を受けていたために、常に偏らない新鮮な情報を取り入れることを心がけ、常識に囚われずに時代の流れを読んでいました。
自分だけの考え方に固執しすぎると、結局自分の首を絞める事になると、『マーノ・ネーラ』の二大ボスから強烈な反面教師の影響を受けていたために、常に偏らない新鮮な情報を取り入れることを心がけ、常識に囚われずに時代の流れを読んでいました。
民族や少数などにこだわりを持たなかった
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ブランド物に固執する人は、自分の見る目に自身がない人だと言われます。自分が良いから選ぶのではなく「他の人が良いと言うから」「評判が良いから」と選ぶのは、結局利用されることに繋がります。
ルチアーノは「良いものは良い」と、民族や少数などにこだわりを持ちませんでした。要するに、シチリアだから良いという考えに共感できず、自分が良いと思うものを信じ、信じる相手を信じて任せ、任せることでますます人望を得ていったのです。
ルチアーノは「良いものは良い」と、民族や少数などにこだわりを持ちませんでした。要するに、シチリアだから良いという考えに共感できず、自分が良いと思うものを信じ、信じる相手を信じて任せ、任せることでますます人望を得ていったのです。
優勢者を見抜き常に身軽に行動した
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ルチアーノは「自分がどうしたい」という考えではなく「自分がどうするほうが良いか」を優先し続け、常に偏らない新鮮な情報を取り入れるように動くことで優勢者を見抜き、常に身軽に行動しました。
自分のエゴで動く人は「信じるべき方」ではなく「信じたい方」に向いて進んでしまうので、結局自分に都合よく偏った情報でしか動けなくなってしまいます。
物事全体を客観的に見ることはなかなか難しくてできませんが、ルチアーノはそれを実践して生きました。
自分のエゴで動く人は「信じるべき方」ではなく「信じたい方」に向いて進んでしまうので、結局自分に都合よく偏った情報でしか動けなくなってしまいます。
物事全体を客観的に見ることはなかなか難しくてできませんが、ルチアーノはそれを実践して生きました。
どのような環境に置かれても自身を活かす行動をとった
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ルチアーノは、子供の頃から家族でアメリカに移住することから始まり、好む好まざるに関わらず様々な場所で暮らすことになりましたが、どのような環境に置かれても自身を活かす行動をとりました。
私たち日本人は「仕事をするために仕事をする」と、なんのために生きているのかわからなくなることが多いと言われますが、ルチアーノは楽しみながら生きる術を知っていました。
もちろん楽しく生きるために仕事で成功しなければなりませんが、生きるために嫌々仕事をするなどまっぴらごめんだと思っていたのでしょう。
私たち日本人は「仕事をするために仕事をする」と、なんのために生きているのかわからなくなることが多いと言われますが、ルチアーノは楽しみながら生きる術を知っていました。
もちろん楽しく生きるために仕事で成功しなければなりませんが、生きるために嫌々仕事をするなどまっぴらごめんだと思っていたのでしょう。
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