2019年8月24日 更新

ラッキールチアーノの生い立ちや行った犯罪の数々!学べることは?

アメリカの禁酒法時代に、たくさんのギャングスターが生まれましたが、その中でも特にみんなから「ボスの中のボス」と慕われ憧れられた一人の人物がおりました。その名も『ラッキー・ルチアーノ』は、決して前に出すぎることを好まずに圧倒的な社会的成功者になりました。

目次

ラッキールチアーノの晩年

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アル・カポネが脱税で挙げられ、1933年12月5日に禁酒法が撤廃されると、収益自体はハバナへの投資や、賭博事業を強化することで確保できましたが、遂にマフィアに冬の時代が到来しました。

禁酒法の反省もあり、禁酒法以前の汚職のない健全な国づくりのために以前にもまして取り締りが厳しくなり、特別検察官のトマス・E・デューイも幾人かの親分を脱税で挙げ、ルチアーノ配下でブルックリンの密造酒事業を一手に引き受け、賄賂で脱税を免れていた『ダッチ・シュルツ』を殺人の容疑で追いつめました。

こうして、ルチアーノは徐々に追い詰められていきました。

検事トーマス・デューイ

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1902年、ミシガン州で生まれ育ち、1923年にミシガン大学を卒業し、1925年にニューヨークのコロンビア大学のロー・スクールから法学位を受け取り、1930年代にニューヨーク市の検察官を務め、1935年にニューヨーク州知事から特別検察官に任命され、1936年に「ラッキー・ルチアーノ裁判」有罪宣告を支援しました。

後に、アメリカの政治家、ニューヨーク州知事、20世紀初の共和党大統領候補になる、野心家のトーマス・デューイは、ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と名指ししていました。

ルチアーノは、当時引退したギャングが集まる街『アーカンソー州ホットスプリングスに』身を隠し、古くからの友人『オウニー・マドゥン』に生活の面倒を見てもらっていました。

アーカンソー州のカジノで遊んでいたところを逮捕

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ルチアーノが身を隠した先は、英国リーズ出身でアメリカのアイルランド系のガンファイト武闘派ギャングスターで、禁酒法時代にニューヨークで有名なナイトクラブ『コットンクラブ』を経営していた『オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン(Owney "The Killer" Madden』のいるアーカンソー州ホットスプリングスでした。

この古くからの友人『オウニー・マドゥン』に生活の面倒を見てもらっていましたが、4月1日にカジノで遊んでいたところ逮捕されました。

高額な費用で弁護士を雇い釈放されるが再逮捕されニューヨークに連行

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ルチアーノは、オウニー・マドゥンが用意した優秀な弁護士を雇い、5000ドル支払いすぐに釈放されましたが、マフィアを一掃しようとニューヨーク州知事ハーバート・レーマンに指名され、特別検察官に就任し捜査に乗り出していたトーマス・デューイがは、すぐにルチアーノを再逮捕しニューヨークに連行しました。

殺人に関してはもちろんですが、賭博にしても恐喝にしても脱税にしても、すべてにおいてワン・クッション置いていたため、ルチアーノのアリバイは完璧で立件することは不可能と思われていましたが、売春に関してはルチアーノは手下に委ねていたために穴が多かったのです。

そして、ルチアーノ側はアーカンソー州司法長官のカール・E・ベイリー(Carl Edward Bailey)長官に5万ドルの賄賂で釈放を求めましたが断られてしまったのです。

検察側が売春婦を脅しルチアーノへ不利な証言をさせる

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逮捕された当初は、ルチアーノも「俺を売る売女などいないだろう」と高を括っていました。ところが、1936年1月、警察は大規模な手入れを行い「逮捕するぞ」と脅すことでやむを得ず協力させ、80か所の売春宿で68人の売春婦たちを検挙しました。

彼女たちの証言をもとにし、ルチアーノを売春行為を行う組織のトップとして逮捕することに成功しましたが、当時まだ38歳の若さだったルチアーノは「売春だけなら刑は軽いだろう」と考えあっさりと逮捕されることにしたのです。

ところが『コーザ・ノストラ』撲滅のため用意周到な検察側は、ルチアーノに関する数多くの罪状を積み上げていました。デューイはそれほどまでにルチアーノの投獄に執念を燃やしていたのです。

強制売春を頑なに否定するも有罪判決が下る

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裁判では、なんとしてもルチアーノを投獄させたかったデューイ検察側は「当局の指示に従わないと逮捕する」と脅迫を受けた68人の売春婦たちを証人として出頭させ、ルチアーノに対して不利な証言をするようにと強制していました。

ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与したが強制売春だけはやっていない」と無実を主張しましたが、1936年6月6日強制売春の容疑で有罪となり、売春事件としては異例の禁固30~50年の刑を宣告されました。

ギャングが恐れるダンネモーラ刑務所に収監される

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その後、ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていたダンネモーラ刑務所(Clinton Correctional Facility, Dannemora)に送られ、10年近くも刑務所で暮らすことになりました。

ルチアーノが刑務所から当分出られないことを覚悟したルチアーノの腹心ランスキーは、監獄のルチアーノからシャバに指示を得ることでシンジケートを操って行くことにし、ルチアーノは服役後もコーザ・ノストラ『取締役会長』であり続けました。

ルチアーノは投獄されるが、刑務所の中でも大きな権威を持ちラジオを置き、新聞を取り、うまいもの食べ放題やりたい放題で、労働はせずに快適に暮らしていました。

第二次世界大戦勃発

War Soldiers Warrior - Free photo on Pixabay (569103)

ルチアーノが服役中に、第二次世界大戦が勃発し、ニューヨーク東海岸一帯の特に港は、ドイツによるUボートの攻撃や諸々の破壊活動を受けていました。

当時、フルトンフィッシュマーケット(Fulton Fish Market)のようなニューヨークの港は「余所者が紛れ込むのに都合のいい場所」と見られており、ルチアーノのマフィア組織の支配下にもなっていたので、警察や軍の関係者が行くと身構えられてしまっていました。

そのため、アメリカ海軍は埠頭や繁華街で外国の軍事・政治・経済に関する情報を収集し、スパイ活動で秘密・非合法的手段による情報収集すうる活動のために、マフィア組織との協力が必要になり、ルチアーノに転機が訪れました。

マフィアとアメリカは手を組む

Statue Of Liberty New York Ny - Free photo on Pixabay (569104)

ルチアーノは「ドイツの陰謀を利用して市民の不安をあおれば刑務所から出られる」と考え、腹心のランスキーらを刑務所に呼び、波止場における自分たちの支配力を行使するよう命じ、アメリカ海軍に協力し、波止場でのスパイ監視活動やシチリア上陸作戦の情報提供を指示しました。

1941年に、海軍情報部のため活動していたニューヨーク地方検事のフランク・ホーガンから協力を頼まれたルチアーノは取引をし、まずダンネモーラ刑務所からニューヨークに近いグリーンヘヴン刑務所へ移してもらい、1942年に、グレート・メドウブ刑務所に移送してもらいました。

ヨーロッパ戦線終結後恩恵を求める嘆願書を提出し許可される

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1943年に、アメリカ軍を含む連合軍が、その後「ハスキー作戦」と呼ばれることになる「シチリア上陸」を計画した際、ルチアーノは、チャールズ・ハッフェンデン海軍少佐がに協力を要請され「刑期を短縮させる努力をする」という交換条件で承諾しました。

幼いときにアメリカに渡ってきたルチアーノは、シチリアへのコンタクトが難しく、シチリア島のマフィアにコンタクトできるヴィンセント・マンガーノ、ジョセフ・プロファチ、ジョゼフ・ボナンノらにも協力を得て、シシリー・マフィアの大ボス、カロジェロ・ヴィッツィーニの協力を得たのです。

ルチアーノは、連合軍のシチリア上陸を援護するようにパルチザンに指令を出したことの見返りに、ドイツが降伏しヨーロッパ戦線が終結した直後の1945年5月7日に、恩赦を求める嘆願書を、ニューヨーク州知事となったかつての宿敵デューイ元検事に提出し橋渡しさせ、政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可しました。

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