2019年8月27日 更新

悪女と呼ばれた比嘉和子のアナタハンの女王事件とは?事件後の様子も

アナタハンの女王事件とは、日本から離れた孤島で究極状態に置かれた大量の日本人男性同士が起こしあった殺人事件です。その中に女性が一人いたことで、この悲劇が起こってしまいました。そして、帰還後にこの女性だけが日本中で注目され人生がガラッと変わってしまいました。

目次

アナタハンの女王事件と比嘉和子

Landscape Mountains Sea - Free photo on Pixabay (582597)

『アナタハンの女王事件』とは、太平洋に浮かぶ孤島『アナタハン島』で戦中から戦後にかけて、一人の日本人女性を巡り男性が次々と殺し合ったという、嘘のような本当にあった事件の話です。

この事件は、終戦後の日本人を大きくざわつかせ、いまだに多くの謎が残った死亡事件で、別名『アナタハン事件』『アナタハン島事件』とも呼ばれています。

一人の女性が、何十人の男性と一緒に暮らさなくてはらなくなると、このような心理状態になるという実験のような生活になり注目されました。

アナタハンの女王事件の概要

Fashion Woman Portrait - Free photo on Pixabay (582599)

太平洋戦争の真っ只中、太平洋の孤島アナタハン島に1人の日本人女性と31人の兵隊が置き去りにされました。彼らは、飢餓と孤独にさいなまれながら、日本の敗戦を知ることもないまま、約6年間もジャングル生活を続けることになってしまいました。

そして、軍に救助されるまでの間、男たちによる女ひとり『嬢王蜂』であった和子を巡り、生と性をかけた命がけで壮絶なまでの戦いが繰り広げられ、12人がが行方不明になり殺害されるなどという謎と猟奇的な事件が巻き起こりました。

アナタハン島

Panama Island Caribbean - Free photo on Pixabay (582600)

アナタハン島は、サイパン島から約100km離れた火山島で、全長約12km、横幅約3.7kmの小さな孤島で、島の中心は、深いジャングルで覆われていました。南東約53kmにファラリョン・デ・メディニラ島、北北東約35kmにサリガン島があります。

島の形は東西に約9km、南北に約3.7kmと東西に長い島で、島の最高点は788mというなだらかな島で、面積は31.21km2と、北部諸島ではパガン島に次いで大きな島です。

第一次世界大戦で日本が戦勝国となったことで、日本はマリアナ諸島一帯を委任統治しており、アナタハン島も日本の委任統治領でした。

発生時期

War End Of The Year Once Upon - Free image on Pixabay (582756)

第二次世界大戦末期に、日本の敗戦が見え始めていた頃、連合国軍がマリアナ諸島一帯にその勢力を広げた結果、日本の植民地であったアナタハン島民は島から脱出し45人の原住民が残りました。

このアナタハン島は、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗戦したことにより、日本が南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として統治することになった島で、日本の資本が次々と進出しましたが、大戦後の恐慌の影響を受けて初期の進出会社は経営に行き詰まっていました。

1920年代に『東洋拓殖株式会社』と実業家である『松江春次』を中心にサイパン島に設立された『南洋興発株式会社』により椰子農園を栽培し経営されていました。

正一(和子の夫)は消息不明に

Man Rain Snow - Free photo on Pixabay (582607)

和子の夫・正一の妹はサイパンに暮らしていました。太平洋戦争は激化し、サイパンでは米軍による日本軍への激闘が盛んになっていました。

1944年のある日、サイパンにいる妹を心配した正一は、いても立ってもいられず「妹を迎えに行く」と言ってでかけたまま行方不明になり帰らぬ人になってしまいました。

和子は、何も知らないこのアナタハンという島で夫に1人取り残されることになってしまい、気がつけば未亡人になってしまっていたのです。

和子の生活

Nature Animal World White Bengal - Free photo on Pixabay (582608)

比嘉和子は、1924年に沖縄の農家に生まれた。1938年2月に、サイパン島に出稼ぎに行っていた兄を頼りにサイパン島に渡り、隣島のバカン島の食堂で働いていました。1940年、バカン島でコプラ栽培の南洋興産会社で働いていた23歳の比嘉正一と結婚しました。

1944年、和子は夫の正一が椰子農園管理の常務監督に栄転したため、サイパンの北に浮かぶアナタハン島に移り住むことになりました。原住民45人に、和子と正一夫婦と正一の上司の、48人の小さな島でしたが、それ故にとてものどかで平和な日々を過ごしていました。

米国からの襲撃を受け始めたアナタハン島で、和子は、正一の上司であり農園主である菊一郎と慰め合うように親密な関係になり共に生活するようになっていたため、一緒に命からがらジャングルへ逃げ込み生活を始めました。

31人の乗り組員が島に辿り着く

Shipwreck Ship Wreckage California - Free photo on Pixabay (582610)

平和なアナタハン島が襲撃され始めたのは、日本人乗り組員を載せた船がこの島に乗り上げようとしていたためでした。家や小舟など、全てが燃やされてしまいまったアナタハン島に、31人の乗組員が泳ぎ辿り着きました。

和子は、男たちを介抱しながら「みんななぜ泳いでこの島に来たの?」と話を聞くと、男たちは「戦闘機の襲撃で乗っていた船が沈没した」と答えました。

先日の空襲で沈められた食料補給船団の生き残りだというのです。一気に食欲旺盛な男たちが島にやってきたことで、小さな孤島は、あっという間に食糧難になってしまいました。

33人での生活が始まる

Island Vacations Caribbean Palm - Free photo on Pixabay (582614)

米軍機からの攻撃で船を壊され、31人の乗り組員が島に辿り着き脱出できなくなり、乗組員たちはアナタハン島で暮らし始めることになりました。

アナタハン島の48人+食事に飢え食欲旺盛な乗組員31人たちは、バナナやパパイヤを食べ畑を耕し始めました

乗組員たちの食欲が満たされ始めると、今度は性欲を満たそうと、この島で唯一の日本人女性である和子は、屈強な軍人たちからもてはやされ次々と関係を持ち始めていました。

日本が敗戦した知らせ

Thunderstorm Sea Clouds - Free photo on Pixabay (582616)

島には、米軍機が時々飛来しては爆撃していました。和子たちは怯え、息を潜めて隠れていました。1945年8月15日に終戦を迎えると、米軍は拡声器で投降を呼びかけました。

本土では「鬼畜米兵に見つかれば殺される」と言われていたので、終戦を信じる日本人は誰ひとりいませんでしたし、遺棄爆弾の音は爆撃音に聞こえ「アメリカ軍による罠」だと考えましたが、日本軍による統制がなくなった島の原住民たちはおとなしく米軍に連れられていきました。

米軍はさらにビラを撒いて投降を呼びかけますが、これに従うも日本人は誰ひとりいませんでした。本土では、撒かれたビラをを拾うことは重罪だったからです。米軍は退去の意志のないものを残し去って行ったために、平穏な日々を取り戻せたと皆で喜びました。

争いを避ける為の結婚をする

Man Woman Couple - Free photo on Pixabay (582617)

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