目次
- アナタハンの女王事件と比嘉和子
- アナタハンの女王事件の概要
- アナタハン島
- 発生時期
- 正一(和子の夫)は消息不明に
- 和子の生活
- 31人の乗り組員が島に辿り着く
- 33人での生活が始まる
- 日本が敗戦した知らせ
- 争いを避ける為の結婚をする
- B29の残骸を発見と拳銃
- 西尾・柳沼に脅されながらの生活
- 木から落ちて男性が死亡
- 和子を巡って喧嘩が発生
- 柳沼が死亡
- 銃を持っている男優位という流れ
- 菊一郎を射殺され和子と吉里が夫婦に
- 平和に向けての3つの提案
- 5年後には男性の数が19人
- 比嘉和子処刑案
- 比嘉和子の逃亡生活
- アメリカ船を発見
- 終結を信じない男たち
- 1人の男性が投降
- 和子の投降から約1年後全ての男たちが投降
- 奇跡の帰還は「混乱へ」
- 全員戦死したと思われていた
- 既に家庭を再構築している人もいた
- 和子の本来の夫は生存し、再婚していた
- 乗組員達の証言
- 「彼らは事故死した」
- 男達の証言は食い違っていた
- 和子を巡っての事件発生を証言し始める
- アナタハン島での生活
- 和子は裸同然の格好をしていた
- 食料
- 飲み水
- 酒を造る
- その後の比嘉和子
- 「悪女」
- 芝居「アナタハン島」の巡業へ
- 映画「アナタハン島の眞相はこれだ」に主演
- 沖縄から本土へ引越し、ストリッパーへ
- 再婚
- 店を出し平穏な日々を送る
- 49歳で死去
- 事件の背景
- 1945年は激戦の真っ只中
- 旧日本軍によるアナタハン開拓
- 南洋興発株式会社について
- アナタハンの女王事件が題材となった映画
- アナタハン島の眞相はこれだ!!
- アナタハン
- 東京島
- グラマ島の誘惑
- 女王と呼ばれた女
- アナタハンの女王事件が題材となった書籍
- アナタハンの告白
- 絶海密室
- 戦後未解決事件史
- QUEEN BEE
- 和子が漏らした「内地は島より怖い」
- アナタハンの女王事件がもたらした影響
- 和子のブロマイドが飛ぶように売れる
- 挨拶代わりに「アナタハン」
- 戦争が生み出した比嘉和子の壮絶な人生
やっとの思いで日本に戻ると、和子は世間から「アナタハンの女王」と呼ばれ揶揄されていました。そして、和子は「男を手玉に取り殺し合いをさせた悪女」という逸話ができあがっていました。
和子を好奇の目で見るテレビの取材では「何人の男と関係を持ちましたか?」などと質問され戸惑いながら「すみません、それは答えられません」と答えるしかありませんでした。
和子は「男ばかりの中で嬢王蜂のような存在になった女が、性欲や支配力を握らせるように権力を握らせ殺し合いをさせた『毒婦』だ」とも言われました。
和子を好奇の目で見るテレビの取材では「何人の男と関係を持ちましたか?」などと質問され戸惑いながら「すみません、それは答えられません」と答えるしかありませんでした。
和子は「男ばかりの中で嬢王蜂のような存在になった女が、性欲や支配力を握らせるように権力を握らせ殺し合いをさせた『毒婦』だ」とも言われました。
芝居「アナタハン島」の巡業へ
via pixabay.com
世間は「アナタハンの女王」のことを口々に噂するようになり、和子は台風の目の中にいるようでした。抜け目のない興行主はさっそく、焦点の女である和子を引っぱり出して、東京銀座や浅草の劇場などで芝居「アナタハン島」を上演し大当たりをとりました。
この頃が和子の人気の絶頂で、東京興行では1日2万円、地方興行では5000~7000円のギャラをもらっていましたが、人気は線香花火のようにはかなく消え去り、興行主に利用するだけ利用され捨てられました。
この頃が和子の人気の絶頂で、東京興行では1日2万円、地方興行では5000~7000円のギャラをもらっていましたが、人気は線香花火のようにはかなく消え去り、興行主に利用するだけ利用され捨てられました。
映画「アナタハン島の眞相はこれだ」に主演
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この映画は、展開に特に工夫もなく、思慮の浅い男達が一人しかいない女を奪い合う姿がそのまま描かれ、特定のキャラの人物像や心理描写が深まっていくということもなく、邦画における女性監督作品第一号としての評価を受けることがない『エログロ映画』『カルト映画』として認知されました。
和子は「アナタバンの女王」「女王蜂」「本能という名の島アナタバン」とレッテルを貼られることで有名になりましたが、昭和27年11月に、「私は女王蜂ではない。アナタバンの真相を知ってほしい」とわざわざ沖縄から上京してまでつくられたものなのに散々な評価でした。
和子は「アナタバンの女王」「女王蜂」「本能という名の島アナタバン」とレッテルを貼られることで有名になりましたが、昭和27年11月に、「私は女王蜂ではない。アナタバンの真相を知ってほしい」とわざわざ沖縄から上京してまでつくられたものなのに散々な評価でした。
沖縄から本土へ引越し、ストリッパーへ
via pixabay.com
どんな事件やニュースでも、昔から「人の噂も七十五日」という言葉があるほど、一生噂が高騰し続けることはありません。和子を日本の有名人にした事件『アナタハンブーム』もバブル絶頂期がありましたが、他に話題ができると線香花火のように突然落ち着きを見せ始めました。
和子は「男を惑わせる毒婦」「嬢王蜂のように君臨し男たち同士殺し合いをさせた悪女」と、人々の好奇の目に晒され、罵詈雑言を浴びながらも、世間の人々から興味が失われると仕事を失い、場末のストリップ劇場に出演するしか生きる道は残されていませんでした。
和子は「男を惑わせる毒婦」「嬢王蜂のように君臨し男たち同士殺し合いをさせた悪女」と、人々の好奇の目に晒され、罵詈雑言を浴びながらも、世間の人々から興味が失われると仕事を失い、場末のストリップ劇場に出演するしか生きる道は残されていませんでした。
再婚
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沖縄に戻って数年が経った1958年、和子は34歳になっており、この頃に2人の子供を連れた男性と知り合い再婚しています。
和子は、アナタハン島で何人もの男性と結婚したり性的関係を持っていましたが、子供は生まれていなかったため「子供ができない体」だと言われていました。
しかし、再婚した男性には2人の子供がいたことで、和子はようやく『母親』になることができ、平穏な幸せを手に入れることができました。2019年には、和子の子供たちも60歳前後になっているという計算になります。
和子は、アナタハン島で何人もの男性と結婚したり性的関係を持っていましたが、子供は生まれていなかったため「子供ができない体」だと言われていました。
しかし、再婚した男性には2人の子供がいたことで、和子はようやく『母親』になることができ、平穏な幸せを手に入れることができました。2019年には、和子の子供たちも60歳前後になっているという計算になります。
店を出し平穏な日々を送る
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1952年8月13日の沖縄タイムス朝刊に、真和志村(現那覇市)で『アナタハン』という名前のレストランの開店を急いでいるという和子の記事が写真付きで掲載されました。
和子の実兄ら親族と話し合い「どうせ世間に売った名前だ。この名でレストランのマダムとして成功させよう」ということになったということでした。
沖縄に帰った和子は、一番目の夫・正一が既に別の女性と結婚し子どももいることを知り、傷心のまま自らの生計を立てるために複数の料亭で働いたところ評判を呼び、連日彼女目当ての客が押し寄せたそうで「それなら自分で店を開こう」と思ったのは自然な流れでしょう。
和子の実兄ら親族と話し合い「どうせ世間に売った名前だ。この名でレストランのマダムとして成功させよう」ということになったということでした。
沖縄に帰った和子は、一番目の夫・正一が既に別の女性と結婚し子どももいることを知り、傷心のまま自らの生計を立てるために複数の料亭で働いたところ評判を呼び、連日彼女目当ての客が押し寄せたそうで「それなら自分で店を開こう」と思ったのは自然な流れでしょう。
49歳で死去
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ようやく本当の幸せを手に入れられた和子は、なんと1974年に『脳腫瘍』が原因で49歳で他界しています。望む望まずに関わらず、本当に波乱万丈の人生を送ることになり、寿命が短かったのでしょう。
アナタハン事件の時住んでいたアナタハン島でも、戦時中だったこともあり、そこに住んでいた者たちがどんな病気や怪我をしていたのか、今になっては知る術もありません。
和子は、幼い時から継母に反発して弟や友人と一緒にワンパクでした。9歳の時にハブに頭をかまれた時には、自分でカミソリでその部分を切りとり、タバコの葉をぬりつけて治したこともあり、裸のままヤシの木のてっぺんまで登ったというたくましく母性本能の強い女性でした。
アナタハン事件の時住んでいたアナタハン島でも、戦時中だったこともあり、そこに住んでいた者たちがどんな病気や怪我をしていたのか、今になっては知る術もありません。
和子は、幼い時から継母に反発して弟や友人と一緒にワンパクでした。9歳の時にハブに頭をかまれた時には、自分でカミソリでその部分を切りとり、タバコの葉をぬりつけて治したこともあり、裸のままヤシの木のてっぺんまで登ったというたくましく母性本能の強い女性でした。
事件の背景
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アナタハンの女王事件が起きた太平洋戦争中の1944年、6月15日にアメリカ軍と日本軍でマリアナ諸島サイパン島を巡る戦闘が起こり7月9日に陥落、岸信介国務大臣兼軍需次官が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と東條英機首相にと進言しました。
これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫りましたが、岸信介は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず辞職要求を拒否し続け、閣内不一致で『東條幕府』とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職せざるを得なくなりました。
これに対し、東條英機は岸信介に「ならば辞職せよ」と辞職を迫りましたが、岸信介は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず辞職要求を拒否し続け、閣内不一致で『東條幕府』とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職せざるを得なくなりました。
1945年は激戦の真っ只中
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1945年2月、後陽成天皇の12世孫でアジア主義の盟主『近衛文麿』元首相を中心としたグループは「戦争がこれ以上長期化すれば、ソビエト連邦軍による占領される」という危険性を訴え、昭和天皇に戦争の終結を求める献言をしました。
ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、第二次世界大戦末期の日本で活動しており、後に首相になる吉田茂を中心とする戦争終結工作グループ『ヨハンセングループ』が逮捕され、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を更に継続させていました。
ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、第二次世界大戦末期の日本で活動しており、後に首相になる吉田茂を中心とする戦争終結工作グループ『ヨハンセングループ』が逮捕され、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を更に継続させていました。
旧日本軍によるアナタハン開拓
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第一次世界大戦でドイツ帝国が敗戦しました。この出来事により、ドイツ帝国が植民地にしていた南洋の島々を、日本が国際連盟・委任統治領として統治することになりました。
日本内地の資本が、南洋の島々に次々と進出しましたが、1920年に南洋殖産、1921年には西村拓殖が倒産し、約1,000人の従業員が移民として取り残され、原住民の主要な食糧である『椰子』がカイガラムシによる虫害を受け、飢餓に苦しんでいました。
日本内地と台湾で製糖業に携わっていた『松江春次』が、移民の救済と南洋での製糖業の将来性を主張し『南洋興発』が設立され、旧日本軍によりアナタハン島が開拓されました。
日本内地の資本が、南洋の島々に次々と進出しましたが、1920年に南洋殖産、1921年には西村拓殖が倒産し、約1,000人の従業員が移民として取り残され、原住民の主要な食糧である『椰子』がカイガラムシによる虫害を受け、飢餓に苦しんでいました。
日本内地と台湾で製糖業に携わっていた『松江春次』が、移民の救済と南洋での製糖業の将来性を主張し『南洋興発』が設立され、旧日本軍によりアナタハン島が開拓されました。
南洋興発株式会社について
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