2019年8月27日 更新

悪女と呼ばれた比嘉和子のアナタハンの女王事件とは?事件後の様子も

アナタハンの女王事件とは、日本から離れた孤島で究極状態に置かれた大量の日本人男性同士が起こしあった殺人事件です。その中に女性が一人いたことで、この悲劇が起こってしまいました。そして、帰還後にこの女性だけが日本中で注目され人生がガラッと変わってしまいました。

目次

アナタハン島で生き抜いた日本の乗組員達は、和子を巡る殺し合いに参加したり、和子と肉体的に関係してきた男たちでした。生きて日本内地に変えるときには、みんなそれぞれに複雑な思いを抱えていたでしょう。

待ってる人にはどのように伝えればよいのか?まわりきんじょのひとたちには、どのように説明すれば納得してもらえるのか?恐ろしい戦争を体験し、今になってみれば忌まわしい記憶でしかないアナタハン島での出来事を、どこまでどのように説明すればよいものか考えあぐねていました。

「彼らは事故死した」

Teamwork Sailors Cleaning - Free photo on Pixabay (582661)

米軍の船に乗りアナタハン島から日本に帰国した男たちは、警察やマスコミに「アナタハン島で亡くなった男たちは、事故死によるもの」だと語りました。

しかし、あまりにも不審な点や意見の食い違いが多かったため、警察やマスコミは「帰還した男たちが殺し合いしたためによる殺人ではないかと疑い始めました。

そして、遂に「和子を巡っての殺人事件や行方不明者がいた」という証言が出始めたことで、警察やマスコミは「事故ではなく事件であった」ということを大々的に発表しました。

男達の証言は食い違っていた

Teamwork Crew Sailors - Free photo on Pixabay (582663)

何十人もアナタハン島からいなくなったのですから、口裏を合わせるというのは不可能でしかありませんでした。警察やマスコミに「Aはなぜいなくなったのか?」「Bはなぜ死んだのか?」などと質問されると、みんなバラバラの答えしか出てこなくて当然です。

男達の証言は食い違っていたことで、あっという間に「この事件には何かある」と疑われるまでに時間はかかりませんでした。唯一、和子だけが「私を奪い合うために殺された男は2人だけ」と主張し続けました。

和子を巡っての事件発生を証言し始める

Silhouettes People Worker - Free photo on Pixabay (582664)

誰が誰を殺したのか?という真実は一つしかありません。アナタハン島で和子とともに暮らしていた男たちは、和子を巡って事件が発生したことを証言し始めました。

米軍への恐怖、迫りくる飢餓、望郷の念などの極限状態の中で、1匹の女王蜂のために本能をむき出しにした32人の男たちとが死闘を繰り返したのです。

斬首された男もいた忌まわしい事件のことを、誰かがが罪悪感にさいなまれ話し始めると、もう止まることなく堰を切ったように男たちは語り始めました。

アナタハン島での生活

Bled Island Slovenia - Free photo on Pixabay (582665)

世間の注目を浴びつ大きな原因となったものの中には「アナタハン島での生活」があるでしょう。いくら戦争時の話だとしても、集団で本能のままに生と性を貪るように生活していた和子たちは、世間の人から見ると異常なものでしかありませんでした。

全てを襲撃されたアナタハン島で暮らし始めた日本人は、最年少は16歳で多くは20歳前後の若者ばかりの日本兵10名、臨時徴用の船員21名の計31名と、沖縄の農家に生まれた和子と、南洋興産会社の社員だけでした。

もし自分が和子だったら?もし自分が男の一人だったら?と想像しながら読んでみてください。

和子は裸同然の格好をしていた

Naked Women Female - Free photo on Pixabay (582667)

米軍から襲撃を受けた日本軍の乗った船から、日本の男たちがアナタハン島までたどり着いた後の和子は、浅黒い肌で肉付きの良い見るからに健康そうな体をしており、乳房はまる出しで、腰のまわりにシメ飾りのように木の皮で腰ミノをつけていただけでした。

細ヒモで前をおおっているだけであった男たちの目には、どうしても和子の豊満な肉体が目につき、子供か?と間違うほどに無造作な表情と開放的な口元をしていた和子に欲望を刺激されずにはいられませんでした。

アナタハン島は全てを米軍に燃やされてしまったので、着る服が一枚もなかったのです。

食料

Vegetables Broccoli Diet - Free photo on Pixabay (582668)

アナタハン島では、南洋興産によりニワトリ20羽、ブタ40頭を飼われていましたが、わずか3カ月で全員の胃袋におさまってしまいました。夜寝ていると足や体をかまれるほどネズミが多くいましたが、このネズミも大好物な食料に変わりました。

長さ2m、胴回り30cmほどの大トカゲも「皮をはいで焼くと大変珍味だ」ということがわかり、ヤシガニやコウモリも食欲の対象となり追いかけまわしました。

食糧のない小さな島での33人の集団生活は厳しく、毎日食べるための戦争がくり広げられました。島中を焼かれ尽くし全てを失った和子たちは、原住民をまねてタロイモの栽培も始めました。

飲み水

Air Bubbles Diving Underwater - Free photo on Pixabay (582669)

アナタハン島は平和でのどかな島でしたが、日本軍が乗った船が辿り着こうとしたことで、米軍にここぞとばかりに襲撃され、島中ほとんどのものを失ってしまいました。

南国なのでフルーツなどの食べ物は、またすぐに戻りましたが、飲み水を確保し直すことは至難の業でした。島の周りは海に囲まれていますが、海の水は塩分が強すぎて飲むことはできません。

波によって流されてきたアメリカ製のドラム缶に雨水をためて、飲水を確保するしか方法はありませんでした。雨は自然からの恵みによるものなので、一定に溜まることなどなく、暖かい地方では水でも腐らせてしまうので、飲みすぎず溜めすぎず慎重に使わなくてはなりませんでした。

酒を造る

Cheers Beverage Drink Booze Root - Free photo on Pixabay (582670)

アナタハン島の原住民である『カナカ族』は、椰子の樹液から『トバ酒』と呼ばれる強い酒を醸造する方法をあとから来た日本人たちにに教えてくれました。アルコールを摂取することで、飢えや将来への不安を一時的に忘れることができました。

アナタハン島に漂着した男たちの年齢は20歳前後と若く、一番若い者は16歳とまだまだ子供でした。酔っぱらってしまうことで、不安から開放されましたが、同時に抑圧していた若い男の性本能がわき上がってくる事を抑えることはできませんでした。

その後の比嘉和子

Body Dark Feet - Free photo on Pixabay (582791)

和子は戦争下で生き抜こうとする本能のために6年の間に5度夫を変えさせられ、そのうち4人が亡くなりました。一人の女性を何十人もの男性が奪い合う性の紺争と、男同士での嫉妬による野獣的に爆発した猟奇的なアナタハン事件の台風の目になり、米軍に救出されました。

アナタハン島に暮らした者たちにより、世間にアナタバン事件の詳細が明らかにされていくことで、和子はまた天国と地獄の両方を経験させられることになりました。

「悪女」

Girl Tattoo Naked - Free photo on Pixabay (582794)

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