目次
- 八甲田山とは
- 青森県青森市に存在する複数の山脈地帯
- ロープウェイが設置されており、登山やハイキングが楽しめる
- 秋口から冬場にかけて激しい気候となる
- 軍の訓練場所として使用されていた
- 全国有数の心霊スポットとしても知られている
- 八甲田山で体験した心霊現象
- 大勢の兵士が歩いている
- テレビ番組で設置したカメラに映った複数人の人影
- テントの外から「隊列右」という掛け声が聞こえてくる
- 八甲田山の通り道「城ヶ倉大橋」は自殺の名所
- 青森県駒込深沢にある別荘から消防への通報
- 八甲田山雪中行軍遭難事故
- 日露戦争のため経験を積む必要があった
- 1902年日本陸軍は八甲田山で雪中行軍を開始する
- 地元村民は行軍の危険性を訴えた
- 青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊
- 参加者は210名
- 天候が激しく悪化するも体裁を考慮し続行
- 隊の分裂
- 気温が低く眠ると凍傷になる恐れがあった
- 2日目に引き返すことが決定するも吹雪により遭難
- 水野忠宜中尉の凍死
- 隊員が次々に凍死または落伍
- 不眠不休及び、絶食でさまよい続ける
- 世界的にも最大級の山岳遭難事故となった
- 「ここで部隊を解散する」
- 兵士達はタガが外れ、矛盾脱衣を始める
- 発狂者が表れる
- 幻覚を見て川に飛び込む
- ようやく救護隊の派遣が決定する
- 遭難者発見の様子
- 後藤伍長が直立していた
- 救援隊に気が付き大声で叫んでいた
- 気が緩みその場で倒れた
- 目を開けたまま仮死状態で助けを待っていた
- 皮膚まで凍り、針が折れた
- 八甲田山雪中行軍遭難事故の生存者
- 生還者は11名
- 6名は救出後死亡
- 救出者のほとんどが凍傷により手足を切断
- 生還したにも係わらず、日露戦争で命を落とした人物もいた
- 八甲田山遭難の原因
- 気象
- 情報不足
- 装備不十分
- 指揮系統の混乱
- 八甲田山雪中行軍遭難事故のその後
- 軍部への批判を避けるため情報が隠蔽された
- 山口少佐暗殺説が囁かれる
- アイヌ人に協力を仰ぎ、遺体発見に努めた
- 一般人でもあった案内人も凍傷被害を受けた
- 事故後も雪中行軍は続いた
- 生存者は遭難事故が日露戦争勝利へと繋がったと主張
- 日露戦争では経験が生かされず凍傷者多数
- 裁判によって誰一人罰せられることはなかった
- 映画化や小説化
- 別ルートを辿った弘前歩兵第31連隊
- 激しい天候に悩まされるも見事生還
- 案内人を立てていた
- 天候によって瞬時に対応した
- 指揮官が非常に優れていた
- 隊員が少数であり乱れなかった
- 隊員に青森県出身者が多かった
- 案内人を置き去りにした
- 八甲田山雪中行軍遭難事件が有名になった理由
- 遭難事故による死者数の多さ
- 政府や軍の嘘が露見
- 銅像や石碑の建立
- 映画「八甲田山」の上映
- 人間は失敗から多くの事を学びとらなければならない
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八甲田山遭難事故以来、陸軍が再び八甲田山雪中行軍を敢行したのは1932年(昭和7年)1月です。この時は雪中行軍は成功し、全員が無事に戻ることが出来ました。記録的に、戦前行っている雪中行軍はこの時以来不明なので、噂になっている心霊現象を体験したのはこの日なのかもしれません。
その心霊現象とは、行軍中の露営(外でのキャンプ)をしている時に、テントの外をやはり大勢が歩く音が聞こえ、「隊列右!」という掛け声が聞こえたというものです。テントを見つけ、ホッとしたのでしょうか、それとも仲間の登場に歓喜し集まってきたのかもしれません。
実は日本陸軍第8師団には、もう1つの怖い話があります。事故が起きてから暫くして、夜間門の前で見張り番をする兵達が、八甲田山の方から第5連隊が隊列を組み帰営してくると騒ぎ始めました。毎日続くその霊達の帰営に、ある日連隊長は門前で待ち構え「全員回れ~右!」と号令を掛けると霊達は山へ戻り、それ以来その騒ぎは収まったという話もあるのです。今も各駐屯地では、かつての旧日本兵達の心霊話が多いのですが、やはり亡くなった時の命令を解いて上げなければ、いつまでも任務を果たそうとするのかもしれません。
その心霊現象とは、行軍中の露営(外でのキャンプ)をしている時に、テントの外をやはり大勢が歩く音が聞こえ、「隊列右!」という掛け声が聞こえたというものです。テントを見つけ、ホッとしたのでしょうか、それとも仲間の登場に歓喜し集まってきたのかもしれません。
実は日本陸軍第8師団には、もう1つの怖い話があります。事故が起きてから暫くして、夜間門の前で見張り番をする兵達が、八甲田山の方から第5連隊が隊列を組み帰営してくると騒ぎ始めました。毎日続くその霊達の帰営に、ある日連隊長は門前で待ち構え「全員回れ~右!」と号令を掛けると霊達は山へ戻り、それ以来その騒ぎは収まったという話もあるのです。今も各駐屯地では、かつての旧日本兵達の心霊話が多いのですが、やはり亡くなった時の命令を解いて上げなければ、いつまでも任務を果たそうとするのかもしれません。
八甲田山の通り道「城ヶ倉大橋」は自殺の名所
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城ヶ倉大橋(じょうがくらおおはし)は、1995年(平成7年)10月に開通した津軽と南部を結ぶ大橋で、城ヶ倉渓流の上に掛けられています。
秋には八甲田山系の紅葉を楽しむことが出来る観光スポットですが、谷底までの高さが122mもある為、悲しいことに自殺も多いところなのです。
そのせいか、この場所で夜中に谷底をのぞき込むと、自殺者の霊がこちらを見ていたり、引っ張り込まれるという噂があります。行くのであれば、昼間の素晴らしい景色を堪能するだけにした方が身のためでしょう。
秋には八甲田山系の紅葉を楽しむことが出来る観光スポットですが、谷底までの高さが122mもある為、悲しいことに自殺も多いところなのです。
そのせいか、この場所で夜中に谷底をのぞき込むと、自殺者の霊がこちらを見ていたり、引っ張り込まれるという噂があります。行くのであれば、昼間の素晴らしい景色を堪能するだけにした方が身のためでしょう。
青森県駒込深沢にある別荘から消防への通報
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八甲田山にまつわる心霊として、最近世間を騒がせた現象もあります。2014年(平成26年)5月17日(土)の深夜、青森県の消防通信指令室に1本の119番通報が入りました。
しかし、電話の向こうからは声は無く「ザー」というノイズだけが響いていた為、消防では通報者がその場で倒れているかもしれないと判断して現場に急行したのです。場所は八甲田山の麓で、後藤伍長銅像のある銅像茶屋から車で約5分程奥に進んだ、青森市駒込深沢という場所にある別荘でした。
家は真っ暗で、戸締りもされていた為、救急隊員達はやむを得ず窓を割って中に入ったところ、そこには誰もおらず黒電話があったのです。しかし、指令室では電話を切らず信号音を出し続けていたのにも係わらず、その受話器はしっかりと電話機に置かれた状態で通話不可能でした。この場所でも、軍隊の霊を見たという心霊現象の噂もあり、もしかすると遭難した者達が救助を求めてきたのではないか?と今も噂されています。
しかし、電話の向こうからは声は無く「ザー」というノイズだけが響いていた為、消防では通報者がその場で倒れているかもしれないと判断して現場に急行したのです。場所は八甲田山の麓で、後藤伍長銅像のある銅像茶屋から車で約5分程奥に進んだ、青森市駒込深沢という場所にある別荘でした。
家は真っ暗で、戸締りもされていた為、救急隊員達はやむを得ず窓を割って中に入ったところ、そこには誰もおらず黒電話があったのです。しかし、指令室では電話を切らず信号音を出し続けていたのにも係わらず、その受話器はしっかりと電話機に置かれた状態で通話不可能でした。この場所でも、軍隊の霊を見たという心霊現象の噂もあり、もしかすると遭難した者達が救助を求めてきたのではないか?と今も噂されています。
八甲田山雪中行軍遭難事故
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今なお、心霊現象の噂が絶えない八甲田山。それは、明治に起きた青森歩兵第5連隊が199名も遭難死してしまった、悲惨な事故があったからです。
世界から見ても、登山史上でこれほど一度に大量の人が亡くなったことはありません。では、何故第5連隊は危険な冬山で雪中行軍をする必要があったのでしょうか?
それは、日本を取り囲む世界の情勢が変化しつつあったからです。ここでは、そんな八甲田山雪中行軍遭難事故について詳しく説明していきます。
世界から見ても、登山史上でこれほど一度に大量の人が亡くなったことはありません。では、何故第5連隊は危険な冬山で雪中行軍をする必要があったのでしょうか?
それは、日本を取り囲む世界の情勢が変化しつつあったからです。ここでは、そんな八甲田山雪中行軍遭難事故について詳しく説明していきます。
昭和天皇にまつわる24のエピソード!昭和天皇が残して下さった名言も - POUCHS(ポーチス)
世界恐慌、手痛い敗戦などを経て、焼け野原から世界が驚くほどの復興と、経済的成長をも果たした昭和時代の日本。そんな激動の時代を国民と共に歩み、常に見守って下さったのが昭和天皇です。今回は、歴代天皇の中でも長く在位した、昭和天皇のエピソードや名言を紹介します。
日露戦争のため経験を積む必要があった
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戦後GHQが仕掛けた洗脳教育のせいで、未だに自虐史観から抜け切れていない人は多いのですが、日本は最初から好きで戦争を開始した訳ではありません。世界では15世紀頃から、白人達がアフリカやアジアなどの後進国を次々と植民地にしており、明治維新の頃には中国大陸の清国(しんこく)が、イギリスにアヘンで骨抜き寸前にまで追い込まれていました。
次は日本だという緊張状態の中、日本ではついに明治維新が起こりました。新政府がすぐさま開国したのは、西洋の知識を学び、国力を上げて植民地にならないようにと富国強兵を目指していたのです。今も我々日本人が、日本語を使い独自の文化を保ち続けていられるのは、たった3~4代前のご先祖様達が命懸けで戦ってくれたおかげです。
このような中で、八甲田山雪中行軍は日露戦争が近付いている状況に備え、寒さ対策や雪道での補給路確保、移動手段などを研究する為、冬の八甲田山を選んだのです。実は事故の8年前である1894年(明治27年)に勃発した日清戦争では、防寒具や寒さに対する知識が乏しかった為に、陸軍では多くの凍傷者を出していました。その経験から、冬期での戦闘時に必要な防寒具などの研究として、雪中行軍が始まることになるのです。
次は日本だという緊張状態の中、日本ではついに明治維新が起こりました。新政府がすぐさま開国したのは、西洋の知識を学び、国力を上げて植民地にならないようにと富国強兵を目指していたのです。今も我々日本人が、日本語を使い独自の文化を保ち続けていられるのは、たった3~4代前のご先祖様達が命懸けで戦ってくれたおかげです。
このような中で、八甲田山雪中行軍は日露戦争が近付いている状況に備え、寒さ対策や雪道での補給路確保、移動手段などを研究する為、冬の八甲田山を選んだのです。実は事故の8年前である1894年(明治27年)に勃発した日清戦争では、防寒具や寒さに対する知識が乏しかった為に、陸軍では多くの凍傷者を出していました。その経験から、冬期での戦闘時に必要な防寒具などの研究として、雪中行軍が始まることになるのです。
1902年日本陸軍は八甲田山で雪中行軍を開始する
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冬の青森の沿岸沿いにロシア軍が侵略してしまった場合、沿岸沿いにある汽車が使えなくなることを仮定して、ソリや人力による物資運搬や移動が可能かという研究目的の為、1902年(明治35年)1月23日(木)、午前6時青森歩兵第5連隊の雪中行軍隊210名が集合しました。
午前6時半、または55分という説がありますが、編成を終えた一行は、山口少佐の「進め~」という号令で、軍歌を歌いながら意気揚々と八甲田山へ向けて出発したのです。当日は、比較的穏やかな天気で小雪が舞う程度だったと言われています。
基本的には1泊2日の短い研究日数で計画していた為、出発当時はまだ、全体に気楽な気持ちがあったのかもしれません。
午前6時半、または55分という説がありますが、編成を終えた一行は、山口少佐の「進め~」という号令で、軍歌を歌いながら意気揚々と八甲田山へ向けて出発したのです。当日は、比較的穏やかな天気で小雪が舞う程度だったと言われています。
基本的には1泊2日の短い研究日数で計画していた為、出発当時はまだ、全体に気楽な気持ちがあったのかもしれません。
地元村民は行軍の危険性を訴えた
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一行は最初の目的地、田茂木野(たもぎの)という村で休憩を取りました。ここは、冬でも人の住んでいる村で、この時村人達は雪山の危険性を訴え、案内を申し出たものの断られたという話があります。
この話の出所は、萬朝報(よろずちょうほう)という当時の新聞記事です。その記事には、第5連隊の一部隊が、案内を申し出た農夫に「銭が欲しいのか」と案内を断ったと書いてありました。その為、この説を今も信じている人が多いのでしょう。
しかし、この萬朝報は権力者に対するスキャンダルをしつこく追及する、反体制派の新聞で、今で言えば朝日新聞のようなものの為、あまり信憑性は無いかもしれません。
この話の出所は、萬朝報(よろずちょうほう)という当時の新聞記事です。その記事には、第5連隊の一部隊が、案内を申し出た農夫に「銭が欲しいのか」と案内を断ったと書いてありました。その為、この説を今も信じている人が多いのでしょう。
しかし、この萬朝報は権力者に対するスキャンダルをしつこく追及する、反体制派の新聞で、今で言えば朝日新聞のようなものの為、あまり信憑性は無いかもしれません。
青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊
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八甲田山雪中行軍は、同時期二つの連隊が別ルートからの踏破を目指して行われていました。それが青森歩兵第5連隊と、弘前歩兵第31連隊の二隊です。
映画「八甲田山」では、この部隊が踏破成功を競い合っていたということや、山中でのすれ違いを計画していたとされていましたが、これは事実とは違います。弘前歩兵第31連隊は、1900年(明治33年)と1901年(明治34年)に、雪中行軍研究と称した模擬戦闘訓練を2度も行っており、この時は最終段階として、青森歩兵第5連隊の計画を知らぬまま別の計画を立てていたのです。
対して第5連隊は、遭難事故を起こす5日前の1月18日(土)に、140人程度の中隊で神成大尉が予行練習をしていただけでした。この日は距離も短く、天気も良かった為、無事雪中行軍は成功に終わったのですが、もしかすると、この成功体験が第5連隊の油断を誘ったのかもしれません。
映画「八甲田山」では、この部隊が踏破成功を競い合っていたということや、山中でのすれ違いを計画していたとされていましたが、これは事実とは違います。弘前歩兵第31連隊は、1900年(明治33年)と1901年(明治34年)に、雪中行軍研究と称した模擬戦闘訓練を2度も行っており、この時は最終段階として、青森歩兵第5連隊の計画を知らぬまま別の計画を立てていたのです。
対して第5連隊は、遭難事故を起こす5日前の1月18日(土)に、140人程度の中隊で神成大尉が予行練習をしていただけでした。この日は距離も短く、天気も良かった為、無事雪中行軍は成功に終わったのですが、もしかすると、この成功体験が第5連隊の油断を誘ったのかもしれません。
参加者は210名
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映画「八甲田山」では、当初雪中行軍を計画した神成(かんなり)大尉が、小隊や中隊編成という少人数での行軍を考えていたところに、予行練習での成功を知った大隊長の山口少佐(映画では山田少佐)が、急遽見習い仕官なども引き連れて人数を増やしたという設定でした。
しかし史実を見るに、山口少佐が急遽人数を増やしたかどうかはいまいち分かっていません。史実として事故当日参加した者は、神成大尉率い入る40名の踏雪隊(内20名がかんじきを着用)を先頭に、下士官達を連れた中野中尉率いる特別小隊と、見習い仕官を引き連れた山口少佐、ソリで物資を運ぶ行李輸送隊など合わせて210名です。
しかし史実を見るに、山口少佐が急遽人数を増やしたかどうかはいまいち分かっていません。史実として事故当日参加した者は、神成大尉率い入る40名の踏雪隊(内20名がかんじきを着用)を先頭に、下士官達を連れた中野中尉率いる特別小隊と、見習い仕官を引き連れた山口少佐、ソリで物資を運ぶ行李輸送隊など合わせて210名です。
天候が激しく悪化するも体裁を考慮し続行
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夏でも冬でも、山の天気は変わりやすく、山に登る人達は十分な計画と準備をしていなければ、現代でも命を落とすことになります。青森歩兵第5連隊が出発した当初は、比較的穏やかな天気だったのものの、八甲田山に近づくに連れ積雪は多くなり、ソリを引く輸送隊が徐々に遅れ出しました。
1泊分の荷物とは言っても、210名分の食糧や燃料などを運ぶソリは約1.2トンの重さがあり、新雪の上では上手く引くことが出来ません。冒頭でも触れましたが、八甲田山は湿った雪では無く、ふわふわのパウダースノーなので、雪が積もっていても重さで沈んでしまうのです。
何とか小峠というところまで行軍してきた第5連隊は、一度昼食がてら食事を取ることにしました。しかし、用意してきたおにぎりはすでに凍っており、ほとんどの人達が食べることが出来なかったのです。この時、突如として暴風が起こり、天気が激しく悪化して、隊では帰隊するか目的地の田代温泉へ進むか議論しましたが、すでに戻るのも厳しい場所にいた為、結局行軍を続行しました。
1泊分の荷物とは言っても、210名分の食糧や燃料などを運ぶソリは約1.2トンの重さがあり、新雪の上では上手く引くことが出来ません。冒頭でも触れましたが、八甲田山は湿った雪では無く、ふわふわのパウダースノーなので、雪が積もっていても重さで沈んでしまうのです。
何とか小峠というところまで行軍してきた第5連隊は、一度昼食がてら食事を取ることにしました。しかし、用意してきたおにぎりはすでに凍っており、ほとんどの人達が食べることが出来なかったのです。この時、突如として暴風が起こり、天気が激しく悪化して、隊では帰隊するか目的地の田代温泉へ進むか議論しましたが、すでに戻るのも厳しい場所にいた為、結局行軍を続行しました。
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