2019年8月29日 更新

八甲田山遭難事故とは?遭難事故の全貌と八甲田山での心霊現象の話も

八甲田山と聞けば、昭和生まれの人達は映画「八甲田山」を思い出す人が多いでしょう。登山史上最悪の死傷者を出した八甲田山遭難事故を元にしたこの映画は、世間に冬山の恐ろしさを知らしめました。今回は、そんな八甲田山遭難事故と八甲田山での心霊現象を紹介します。

目次

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最終的に、救出されてから回復して生還出来たのは11名でした。その内2人は、11日目に救出された人達です。72時間の壁を越えても生きていられる者は、運が良いというよりも、やはり持って生まれた寿命なのかもしれません。

生還者達は、神成大尉の「解散」という言葉でバラバラに動いていた訳では無く、それぞれが数名~数十名で小隊を作り、帰路を探してる中ではぐれていたのです。

助かったのは、神成大尉の最後の意志を継ぎ、田茂木野方面で直立で発見された後藤房之助伍長を始め、事故発生3日目から帰路を探す為に行方不明となり、11日目にしてようやく発見された、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒。この2人は、雪原から滑落して際に偶然炭小屋を見つけ退避していました。そして、山口少佐を抱え沢沿いの崖穴に避難していた倉石一大尉や、炭小屋などで発見された伊藤中尉、小原伍長、及川平助伍長、村松伍長、阿部卯吉一等卒、後藤惣助一等卒、山本一等卒の11名です。

6名は救出後死亡

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生還者と共に発見されたのにも係わらず、救出後に6人が死亡してしまいました。

亡くなってしまったのは、何度も昏睡状態となっていた山口少佐、炭小屋にて阿部卯吉と共に発見された三浦伍長、倉石大尉と共にいた高橋伍長と紺野二等卒、そして長谷川特務曹長と共にいた、佐々木二等卒と小野寺二等卒の6人です。

映画「八甲田山」では、山口少佐(山田少佐:三國連太郎)が、ピストルで自殺を図り死亡していますが、これは完全にフィクションです。ほとんどの者が凍傷で手を動かすことが出来ず、山口少佐も自分で引き金を引くことは出来ません。実際の山口少佐の死因は、心臓麻痺と言われてます。

救出者のほとんどが凍傷により手足を切断

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0℃以下の環境の中に居続けると、体温が低下してしまいます。その為、身体が何とか心臓や脳などの中枢を守ろうと血管が収縮して、中枢に血液を集め始めるのです。このことで血行が悪くなり、末端部の血が行き渡らない部位が凍ってしまい、体組織が損傷してしまうことを凍傷と言います。

軽度であれば治療することは可能ですが、重症であれば壊死した部分の再生は難しく、腐敗して感染症の畏れも出てくるので、命を守る為には切断する必要が出てくるのです。

装備の問題だったのか、体力の違いだったのかは不明ですが、無事生還出来た11名のうち8名は、手足の切断が必要な重度の凍傷を負っていました。冒頭でも紹介している銅像のモデルの後藤伍長も、両手足を切断されていますが、元気になってからは乗馬を楽しんでいたと言われています。

生還したにも係わらず、日露戦争で命を落とした人物もいた

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生還した11名の内、手足の切断も無く、元気に回復した人達はたったの3名でした。その3名とは、倉石一大尉、伊藤格明中尉、長谷川特務曹長です。

せっかく助かり、五体満足な身体になっても、悲しいことに彼らは軍人なのです。この八甲田山雪中行軍の目的は、迫る日露戦争に向けての寒冷地研究の為でしたが、予想通り遭難事故から2年後の1904年(明治37年)2月8日(月)、ついに日露戦争が開戦してしまいました。

兵隊は怪我や病気になっても、回復してしまえば再び戦地に立つことが彼らの任務です。元気に回復した倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3人も、国の命運を掛けた日露戦争へと参戦することになりました。結果、1905年(明治38年)1月27日(金)、満州で勃発した黒溝台合戦(こっこうだいかっせん)にてロシア軍と戦い、倉石大尉は日本から離れた地で戦死してしまったのです。伊藤中尉と、長谷川特務曹長は死なずに済みましたが、この時は重軽傷を負っています。

八甲田山遭難の原因

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戦後の自虐史観から抜け切れていない人や、共産主義思想に洗脳されている人などは、未だに軍を憎み、敵意をむき出しにしてしまうものです。

確かに旧日本軍は、兵隊は一流、将官・参謀無能、下士官二流と海外では評価されるように、現代でも軍だけではなく、企業や組織のトップが無能だらけで、部下達が辟易しているという会社は多いと言えます。しかし、巷の共産主義者が騒ぐように、日本は好きで戦争を始めた訳ではありません。残虐で卑劣だったのは、植民地化を狙っていた白人や、共産主義工作員のコミンテルン達です。

そのような中で起きてしまった八甲田山遭難事故は、迫るロシア軍との戦いに向けての研究目的でした。研究ということは、知識を得る為のものなので、数々の失敗は仕方が無いとも言えるのです。実際、犠牲は大きかったものの、この経験を生かせたおかげで日露戦争では凍傷も少なく済み、凍死者を出すことはありませんでした。しかし、未だに原因を追究し、どうしても軍部のせいにしたいという人がいるのも事実です。ここでは、それらを踏まえながら八甲田山遭難の原因を探っていきます。

気象

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何度も言いますが、八甲田山雪中行軍は、日清戦争中凍傷になる者が続出したことにより、寒い場所での戦闘時にはどのような装備や、行動がいいのかということを研究する為に行われていました。明治維新後、迫る欧米列強の中で、日本は国を守る為積極的に西洋文化を取り入れていきます。

幕末にも薩摩や長州、徳川などはイギリスやフランス軍から手ほどきを受け、軍の体制を作っていきますが、少し前まで戦う人達は、チョンマゲで刀を振り回す武士達でした。八甲田山遭難の原因として気象条件が悪かったことが上げられますが、まだ気象衛星も無い明治時代では天気予報という概念がありません。御雇外国人の知識を持ってようやく気象観測所を設け、天気図が全国配布されるようになったのが1882年(明治16年)で、天気予報が発表されるようになったのはその翌年でした。

八甲田山遭難事故は1902年(明治35年)なので、天気予報が登場してからまだ20年程しか経っていません。現代でも予報が外れることは多々ある中で、当時の予報が正確だったのかは不明です。事故当日、日本は未曽有のシベリア寒気団に覆われ、全国的にも気温が低くなっていましたが、山の天気は突然変わるものです。当然、寒気団の影響もあったのでしょうが、戦地では敵がいつ何時襲撃してくるかは分かりません。結局、様々な対策を練る為の行軍なので、原因と言えば原因ですが、防ぐ為にはあらゆる状況化を研究する必要があったとも言えます。

情報不足

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雪中行軍は寒冷地での研究だった為、知識不足だったことはある程度仕方ありません。しかし、青森歩兵第5連隊の場合、初めての雪中行軍だったにも係わらず、事前に集める情報が少なすぎたことが、事故原因の1つになったと言えます。戦争は待ってくれる訳ではありませんから、突如研究行軍が決定したことを責めることは出来ません。

実際この2年後に、日露戦争は開戦しているのですから、研究に使える冬は事故が起きた年の1度しか無いのです。ただ、研究のきっかけとなる日清戦争が7年前だったことを考えれば、もう少し早く情報を集めても良かったと言えるでしょう。更に追い打ちを掛けたのは、雪中行軍の計画や先頭を行軍する際の指揮官が、当初神成大尉では無かったということです。

この担当者は急遽妻の出産立ち合いの為に任務を解かれた為、約3週間前になってから神成大尉が指揮を任されたのです。引継ぎはされたものの、神成大尉は、ほとんど知識も無いまま雪中行軍に参加することになりました。このような状況化の中で、神成大尉始め多くの者達が雪山に対する知識や、八甲田山の地理も知らず、宿泊予定地とした田代温泉にも誰1人行ったことが無いという状態だったのです。もし当日何とか田代温泉にたどり着いたとしても、そこは小屋が建っている程度の小さな温泉で、210名もが羽を伸ばす場所でもありませんでした。

装備不十分

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遭難よりも凍死した原因として上げられるのは、装備が不十分だったことです。知識不足だったことも関係はありますが、この国の資源が少ないということも原因でしょう。先程も述べましたが、事故が起きたのは、明治維新後からまだ35年程のことです。軍では洋装化が進んでいましたが、この国で毛糸の為に羊の飼育が本格化したのは、1875年(明治8年)のことでした。

しかし、ウールの品質があまり良く無く、食肉としても人気が出なかった為、政府は羊飼育推奨政策を1888年(明治21年)に取りやめ、以後大正時代までは輸入に頼っていたのです。その為、仕官達は高価なウール生地のフード付きコートや、軍服を支給されていますが、下士官達はコートは同じでも中は木綿の軍服が支給されています。

ちなみに、ウールは汗をかいても保温性に優れているのですが、木綿は通気性が良いせいで熱も一緒に奪ってしまうのです。また、参加者は雪や凍傷の知識が無い者が多く、行程も1泊2日の約20kmという短さだったせいか、兵士達を気楽な気持ちにさせてしまったことも一因となるでしょう。彼らは着替えの靴下や軍手を持つことも無く、軍靴の上か靴下のまま直接藁の靴を履いていた者もいたことから、明らかな装備不足を感じさせます。

指揮系統の混乱

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指揮系統の混乱は、映画「八甲田山」でも取り上げられていますが、巷で言われるほどの混乱は起きていないと言えます。山口少佐は映画の影響から、神成大尉に断りも無く独断で指揮を取っていたように思われやすいのです。しかし、山口少佐が突然雪中行軍に参加したという話も見当たらず、当初から参加予定だったのであれば、行軍の責任者は山口少佐となるので問題はありません。

軍隊では、上官の命令は絶対というイメージを持ちやすいのですが、戦場での冷静な判断を取る為に、部下が意見を述べることも出来るのです。遭難した後は、山口少佐、神成大尉、佐藤特務曹長、倉石大尉など話し合って、進退の決定を下しているのが責任者である山口少佐だったというだけです。

独断で判断したというのは、佐藤特務曹長が田代温泉への道を知っているという進言をした時のみです。佐藤特務曹長も、ノンキャリから出世した当時42歳のベテランで、階級は神成大尉より下になりますが、立場としては上だったと言われています。そのことからも、元々若手エリートではあるものの、当時32歳の神成大尉には、そこまでの権限はなかったのかもしれません。その後、それぞれがはぐれてしまった時は、各自が指令を出しているので、混乱したのは指揮系統ではなく、体験したことのない雪山に混乱したと言えるでしょう。

八甲田山雪中行軍遭難事故のその後

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八甲田山雪中行軍遭難事故から、2019年(令和元年)の時点で117年の月日が流れました。しかし、今も尚、山岳史上でこの事故を超える大惨事が無い為、事故の教訓から軍の陰謀論まで、ネットでも様々な人達が検証や追及を続けています。

大河ドラマなどでもそうですが、歴史の事実を調べようとしない人は、映画などのフィクションでも、ドキュメンタリー風に制作されるたものは真実と信じやすく、史実から逸脱していきやすいものです。元々、ラジオや新聞、テレビに舞台、映画などのメディアは、洗脳や扇動ツールに使われるものなので仕方がありませんが、疑問を持ち自ら調べ、広い世界観で考えていかなければ、真実に辿り着くことは出来ません。

特に戦後は、GHQの仕掛けた日本人弱体化計画の為、多くの共産主義思想(コミンテルン)が教育、マスコミ、司法などに入り込んでいるので、今も自虐史観を用いるのです。そのような状況の中では、どうしても旧日本軍を悪者にしようとするので、残された話にも偏りがあります。ここでは、それらを踏まえ、八甲田山雪中行軍遭難事故のその後に語られていることを検証していきます。

軍部への批判を避けるため情報が隠蔽された

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