2019年8月29日 更新

八甲田山遭難事故とは?遭難事故の全貌と八甲田山での心霊現象の話も

八甲田山と聞けば、昭和生まれの人達は映画「八甲田山」を思い出す人が多いでしょう。登山史上最悪の死傷者を出した八甲田山遭難事故を元にしたこの映画は、世間に冬山の恐ろしさを知らしめました。今回は、そんな八甲田山遭難事故と八甲田山での心霊現象を紹介します。

目次

Face Silhouette Communication - Free image on Pixabay (588403)

数少ない生存者の証言や、当時の報道などに食い違いがあることから、軍部は批判を避ける為に情報を隠蔽したのではないか?と疑う人は多いのですが、そもそも救出された生存者事態が生死を彷徨っているような状態の中で、正確に行軍中の行動を覚えている者はいませんでした。

日付すらも食い違いがありますし、元々土地勘も無かった八甲田山で、目の前も見えなくなる程の吹雪の中、位置すらもきちんと把握出来ていたか疑わしいものがあります。確かに大きな遭難事故は、情報や知識、そして装備不足などの事前準備が疎かだったことは否定出来ませんが、あくまでも訓練ではなく、研究がメインの目的となる為、軍全体の責任にするのは少し違うような気もします。

何故ならば、やはり戦争に向けての準備であり、戦闘が始まれば敵は時も場所も選んでくれないからです。隠蔽する気であれば、救助活動に述べ1万人も投入することも、救助活動に新聞記者など同行もさせないでしょう。

山口少佐暗殺説が囁かれる

Crime Scene Silhouette Body - Free vector graphic on Pixabay (588496)

先程も少し触れていますが、映画「八甲田山」では、山口少佐(映画では山田少佐:三國連太郎)が、ピストルで自分の胸を撃ち自殺してしまいます。これは完全なるフィクションですが、どうしても軍部を目の敵にしたい人達は、軍部が山口少佐を暗殺したという説を今も信じているのです。

少なくとも、山口少佐は両手足が重度の凍傷に掛かっており、自分で死ぬことは出来ません。まして、彼は事故から2日目には意識を失い、昏睡状態を繰り返しており、軍部が暗殺するほどの情報を持っているとは考えられないのです。

山口少佐の死因は心臓麻痺で、治療の為に使ったクロロホルム(麻酔として使用されていたが劇薬でもある)が原因ではないかという説もありますが、山口少佐は当時45歳で、救出されたのは事故から約11日目と遅かったことから、体力も限界だったのではないでしょうか。

アイヌ人に協力を仰ぎ、遺体発見に努めた

Shiba Inu Dog Canine - Free photo on Pixabay (588580)

本格的な捜索活動が行われたのは、事故から5日目の1902年(明治35年)1月27日(月)からです。しかし、元々研究目的の為に初めて八甲田山雪中行軍を行った青森歩兵第5連隊ですから、遭難してしまった者達以上に知識や情報がありません。

初動ではそんな青森連隊と、多少知識がある弘前連隊、そして仙台第5砲兵隊などの約1万人を導入し、案内人も依頼して捜索を開始したのですが、ヘリコプターやスキーすらも無いような状況や、きちんとした防寒用具も無い中で、山の環境は厳しく捜査は難航していていたのです。あまりの酷い環境に、案内人も倒れたり及び腰になる為か、陸軍は山のプロとも言えるアイヌ人の辨開凧次郎(べんかいたこじろう:アイヌ名はエカシバ)を北海道から呼び寄せ、捜索依頼をしました。

彼が来る前にも、救助犬としてセントバーナードや猟犬を投入したのですが、訓練された犬ではなかった為、全く役に立ちません。しかし、凧次郎が連れてきた北海道犬は大活躍し、凧次郎もまた土地勘も無いのに地名から避難しそうな場所を判断し、その場所を重点的に捜索するという方法で、遺体11体と多数の遺品を発見したのです。

一般人でもあった案内人も凍傷被害を受けた

Ice Iced Waterfall - Free photo on Pixabay (588653)

青森歩兵第5連隊捜索した案内人でも、凍傷被害を受けた人達はいたのでしょうが、情報として出てくるのは弘前第31連隊の雪中行軍に付き合わされていた、案内人達の被害が大きいです。

のちに、この第31連隊の動向は詳しく説明しますが、責められるべきはこの部隊の指揮官であった、福島大尉の方だと言えるでしょう。

案内人達は、案内料の2円のみで、国からの補償なども受けられず、重度の凍傷を負ったまま満足な治療も出来ませんでした。1人は廃人のようになったまま16年後に死亡、1人は頬に穴が開いたままなど、それぞれが不自由な生活を送ったと言います。

事故後も雪中行軍は続いた

Snow Mountains Landscape - Free photo on Pixabay (588694)

八甲田山は積雪が常に3~5m程あるような豪雪地帯です。5月でも残雪が残るような場所での救助活動は困難を極め、救助隊も雪山を歩き続けることになりました。

遭難者が分散していることや、度重なる暴風雪で埋まってしまっていること、そして何より遺体が凍り付いている為、丁寧に扱わないと遺体がバラバラになってしまうので、遺体回収にも時間が掛かったのです。結局1月23日に発生した事故から、最後の遺体回収までに約4ヶ月程掛かり、捜索活動に入った隊員達も雪中行軍を続けることになりました。

それ以降は、青森歩兵第5連隊は1932年(昭和7年)まで雪中行軍を行いませんでしたが、1965年(昭和40年)からは、自衛隊となった第5普通科連隊が冬期雪中戦技演習として、毎年八甲田山への雪中行軍を続けています。

生存者は遭難事故が日露戦争勝利へと繋がったと主張

Flag Of Japan Japanese - Free vector graphic on Pixabay (588777)

先程触れた自衛隊の第5普通科連隊は、八甲田山演習開始の準備の為、前年の1964年(昭和39年)、八甲田山遭難事故での生存者に聞き取り調査を始めました。

この生存者とは小原伍長のことで、当時すでに85歳となっていましたが、両足の足首から下と手は親指以外全て切断されながらも生き延びていた人です。彼の証言から、色々判明したとして本なども出ていますが、事故当時発見される直前に発狂して、川に飛び込もうとしたところを山口少佐に止められていることや、事故から62年も過ぎていることで、どこまで正確に記憶しているのかは分かりません。

そんな彼の証言では、自分達の犠牲が日露戦争勝利へと繋がったと主張していますが、実際ある程度の装備改善などは見られています。しかし、本人は「そうとでも思わなければ、自分達の犠牲の意義が分からなくなる」とも話していることから、辛い記憶にただ意義を付けたかっただけとも言えます。

日露戦争では経験が生かされず凍傷者多数

Doctor Luggage Verbandszeug - Free image on Pixabay (588824)

日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日(月)~1905年(明治38年)9月5日(火)に掛けての約1年ほど続いた、大日本帝国とロシア帝国の戦争です。

日清戦争で勝利し遼東半島(りょうとうはんとう)を手に入れた日本でしたが、歴史を知らない人でも教科書で言葉くらいは聞いたことがあるであろう「三国干渉」により、南下政策をしたいロシアと、領土が欲しいフランス、ドイツが、遼東半島を返還しろと、難癖を付けてきたことから始まりました。ロシアが南下するということは、いつ日本が植民地化されるか分かりません。

当時の政府は、植民地化を防ぐために明治維新を起こした幕末の志士達です。何が何でもロシアを倒すと決意するのは、当然のこととも言えるでしょう。しかし、日本は資源も資金も乏しく、イギリスが協力してくれたものの、装備がきちんと準備出来たとは言えません。八甲田山での教訓が生かされず、やはり30名程の凍傷者を出してしまいますが、それより多かったのは脚気や腸チフスでした。ただ凍死者を出す事は無かった為、八甲田山の犠牲者も全く無駄になったとは言えません。

裁判によって誰一人罰せられることはなかった

Law Justice - Concept Auction - Free image on Pixabay (588855)

この遭難事故は、どうしても犠牲者の多さや壮絶な現場から、誰が加害者かと追及しようとする人が多く存在します。同じように、軍部は悪、戦争は悪という偏った思想の持ち主もまた、軍部を犯人扱いするのです。今の価値観で当時を語ることはおかしいですし、世界の情勢を見ていれば、日本が近代化もせずに開国をしてしまえば、あっという間に白人の餌食になるような時代に、戦争は悪などと言ってる場合ではありません。

それは今も言えることですが、こちらが戦争しようと思わなくても、ミサイルを撃ち込んでくる国がたくさんあるのが現実なのです。八甲田山遭難事故は、資源も資金も無い中で、いかにしてロシアと互角以上に戦えるかという研究調査です。寒さの恐ろしさを日清戦争で体験し、無知だったからこそ次の戦いに備えて計画したものに、責任を求めることは現代的価値観と言えるでしょう。

倉石大尉のように、凍死はしなくても結局兵士は戦で死ぬ可能性が高いのです。山口少佐も、責任を感じて、最後の崖穴に入ろうとせず外に胡坐をかいて死を待っていたそうです。軍の上層部に無能が多かったことは否定しませんが、1番悪いのは他国に侵略し続け、植民地化を続けていた白人達ではないでしょうか?

映画化や小説化

Cinema Hall Film - Free photo on Pixabay (588862)

1968年(昭和43年)に、時事通信の記者でジャーナリストの小笠原孤酒(おがさわらこしゅ)は、八甲田山遭難事故に興味を持ち研究する為に、生存者である小原伍長への聞き取り調査をしています。

小笠原孤酒が調べた資料や話を元にして、作家の新田次郎は、1971年(昭和46年)に「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」という小説を出版しました。この本が話題を呼び、6年後「八甲田山」として映画も作られます。

映画が大ヒットしたことで、翌年にはTBS系列でテレビドラマ化もされ、この遭難事故は昭和になってから世間に周知されることになるのです。

別ルートを辿った弘前歩兵第31連隊

Nature Tree Fog - Free photo on Pixabay (589968)

青森歩兵第5連隊は初めての雪中行軍に体酷い失敗を負い、莫大な被害と犠牲を受けました。しかし、同時期に別ルートから雪中行軍を行っていた、弘前歩兵第31連隊は多少の凍傷者はいたものの、全員が無事に連隊へと戻っています。

何れも、体ロシア戦に備えての研究目的の行軍でしたが、何故弘前歩兵第31連隊は達成出来たのでしょうか?これもある意味で、比較での研究を果たせると言えますが、弘前歩兵第31連隊と青森歩兵第5連隊では、行動計画や経験値に大きな違いがありました。

ここでは、無事に雪中行軍を達成した、弘前歩兵第31連隊の雪中行軍を紹介していきます。

激しい天候に悩まされるも見事生還

6 / 8

関連する記事 こんな記事も人気です♪