目次
- 帝銀事件は冤罪事件なのか
- 帝銀事件の概要と真相
- 太平洋戦争後の混乱期に発生した事件
- 1948年1月閉店直後の帝国銀行に中年男性が訪れる
- 「等銀行に大腸感染症者が来たため予防薬を飲む必要がある」と発言
- 感染症予防を偽り行員・用務員計16人に青酸化合物を飲ませる
- 飲用直後11名が死亡
- 搬送先の病院で1名が死亡
- 生存者は4名
- 中年男性は現金16万円と小切手を奪い逃走
- 女性1人が銀行外へ出たことから事件が発覚
- 生存者の証言による似顔絵と小切手を手掛かりに捜査が進められる
- 薬物知識を持った薬学・理科学科の知識があるものを捜査対象にする
- 1948年8月テンペラ画家の平沢貞通を逮捕
- 事件直後真犯人を取り逃がした原因
- 集団中毒と誤解され初動捜査に混乱が生じた
- 現場保存ができなかった
- 現金化された小切手が盗まれたものだと発覚したのが遅かった
- 生存者が明かした巧妙な犯行手口
- 全員に不信感なく飲ませるために遅効性の薬品を使用
- 最初に自身が飲んで見せた
- 確実に飲ませるため飲み方をレクチャーした
- 第一薬・第二薬と薬を分けた
- 伝染病が蔓延していた時代の恐怖心を利用した
- 平沢貞通が逮捕された理由
- 悪用された名刺を交換していた
- 犯行時刻のアリバイがなかった
- 過去の犯罪歴
- 被害額とほぼ同額を預金していた
- 平沢貞通が逮捕され死刑囚となるまで
- 一貫して無罪を主張
- 拷問に近い取り調べを受ける
- 1955年最高裁で上告が棄却され死刑確定
- コルサコフ症候群の後遺症としての精神病を発症
- 支援者により再審請求が提出される
- 恩赦願が提出される
- 獄中で3度の自殺を図る
- 支援者から画材の差し入れを受け絵を描き始める
- 松本清張や小宮山重四郎が釈放運動を行う
- 1985年死刑の時効を理由に人身保護請求を起こす
- 1987年肺炎を患い95歳で病死
- 平沢貞通が真犯人ではないと言われる理由
- 生存者に面通しを行ったが誰一人犯人だと断言しなかった
- 決め手となった名刺について紛失届を出していた
- 証拠は自白調書3通
- 自白書の捏造疑惑
- 獄中環境を悪化させ自然死を狙っていたという報道
- 毒物に関する知識がなかった
- 1954年等事件と類似した事件が発生した
- 等事件に使用されたと思われる毒物を陸軍が開発していた
- 犯行時に使用された器具が同研究所で使用されていたものと一致
- GHQから突如捜査中止が命じられる
- 帝銀事件と類似している未遂事件について
- 安田銀行荏原支店
- 三菱銀行中井支店
- 真犯人として挙がっている人物
- S中佐
- 歯科医
- GHQ関係者
- 米軍の人体実験
- 犯行跡地の現在
- マンションとなっている
- 周辺では物騒な事件が発生しているという噂
- 治安が悪い
- 平沢貞通の死後
- 平沢貞通の養子や支援者らによって再審請求が続けられる
- 2013年10月養子が死亡
- 請求人死亡を理由に再審請求心理手続きが終了される
- 2015年11月平沢貞通の遺族が第20回再審請求を申し立てる
- 名誉回復のため遺族は現在も戦っている
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平沢を支援する人々は、名の知れた人ばかりでした。1909年12月21日に生まれ、1953年に「或る「小倉日記」伝」で芥川賞を受賞し、1958年には「点と線」「眼の壁」などを発表し、社会派推理小説ブームをもたらし、その後も「ゼロの焦点」「砂の器」などのベストセラーを生み出した松本 清張。
1927年9月15日に生まれ、1958年に佐藤栄作の秘書となり政界入りを果たし、1959年には女優である桂典子さんと結婚。後に参議院議員となった小宮山重四郎。この2人も平沢の無実を信じており、平沢の釈放を真に願い「釈放運動」を行っていたのです。
これほどまでに有名な著名人たちも平沢の無実を信じていました。平沢の人望はとても素晴らしいものだったのでしょう。
1927年9月15日に生まれ、1958年に佐藤栄作の秘書となり政界入りを果たし、1959年には女優である桂典子さんと結婚。後に参議院議員となった小宮山重四郎。この2人も平沢の無実を信じており、平沢の釈放を真に願い「釈放運動」を行っていたのです。
これほどまでに有名な著名人たちも平沢の無実を信じていました。平沢の人望はとても素晴らしいものだったのでしょう。
1985年死刑の時効を理由に人身保護請求を起こす
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帝銀銀行事件の判決確定から30年の月日が経過した1985年に、平沢の無罪を主張していた支援グループは、刑法31条に定められた刑の時効の規定を根拠として、平沢の死刑が時効である事の確認を求める「人身保護請求」を起こしました。
刑の時好の規定とは、刑が確定した後一定期間刑の執行を受けない場合、時効が成立するという内容になります。
ですが支援グループの行動虚しく、裁判所側は「拘置されている状態は逃亡とは異なる。執行を受けられない状態でないのだ」として、請求を退けたのです。
刑の時好の規定とは、刑が確定した後一定期間刑の執行を受けない場合、時効が成立するという内容になります。
ですが支援グループの行動虚しく、裁判所側は「拘置されている状態は逃亡とは異なる。執行を受けられない状態でないのだ」として、請求を退けたのです。
1987年肺炎を患い95歳で病死
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1948年の8月にに逮捕をされた平沢。獄中で約39年もの月日を過ごしました。そして、1987年の5月10日午前8時45分に平沢は肺炎を患ってしまい、八王子医療刑務所にて死去しました。
平沢は95歳でした。平沢は死去するまでの約39年間、一度は自白をしたもののそれ以降は「無罪」を主張してきました。帝銀銀行事件の真相が平沢の口から語られることなく、歴代法務大臣たちは死刑執行命令に署名をしないまま、獄中にて息を引き取ったのです。
平沢は95歳でした。平沢は死去するまでの約39年間、一度は自白をしたもののそれ以降は「無罪」を主張してきました。帝銀銀行事件の真相が平沢の口から語られることなく、歴代法務大臣たちは死刑執行命令に署名をしないまま、獄中にて息を引き取ったのです。
平沢貞通が真犯人ではないと言われる理由
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謎に包まれた帝銀銀行事件が発生してしまった後、平沢はこの事件の犯人として逮捕をされ死刑確定となりました。そして獄中にて、死を迎えることとなったのです。ですが平沢は兼ねてより「真犯人ではないのではないか」と囁かれていたのです。
「犯人が捕まって安心した」と声も多かった一方、どうしてそのような疑問が生まれてきたのでしょうか。実は帝銀銀行事件の犯人が平沢貞通というのは、少々こじ付けのような面もあり、矛盾をしている部分が多く存在しているのです。
では、平沢貞通が真犯人ではないと言われる理由について紹介をして参ります。
「犯人が捕まって安心した」と声も多かった一方、どうしてそのような疑問が生まれてきたのでしょうか。実は帝銀銀行事件の犯人が平沢貞通というのは、少々こじ付けのような面もあり、矛盾をしている部分が多く存在しているのです。
では、平沢貞通が真犯人ではないと言われる理由について紹介をして参ります。
生存者に面通しを行ったが誰一人犯人だと断言しなかった
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帝銀銀行事件で幸福にも生き残った生存者たちは、犯人の風貌について「50歳前後・5尺3,4寸・中肉・色蒼白・油けなくきめ細かき方・鼻筋が通っている・丸刈り・前髪やや長い・白髪交じり・上品な好男子・左頬に薄いしみが2個ある」と語っていました。
この証言を元にモンタージュ写真が作られました。それを元に被疑者として上がった人数は5000人以上に登ったといいます。その中の1人に平沢貞通の名も入っていました。そして平沢が逮捕された後、被害者への面通しが行われました。平沢の姿を見た被害者たちは「似ている」「似ていない」「違う」という意見が上がり、誰一人として「この男が犯人である」と断言しませんでした。
被害者たちは平沢以外にも多くの人の面通しを行っていたようです。面通しの回数を重ねていくごとに被害者たちの記憶はどんどん薄れてしまい、あやふやな回答となってしまったのでしょうか。
この証言を元にモンタージュ写真が作られました。それを元に被疑者として上がった人数は5000人以上に登ったといいます。その中の1人に平沢貞通の名も入っていました。そして平沢が逮捕された後、被害者への面通しが行われました。平沢の姿を見た被害者たちは「似ている」「似ていない」「違う」という意見が上がり、誰一人として「この男が犯人である」と断言しませんでした。
被害者たちは平沢以外にも多くの人の面通しを行っていたようです。面通しの回数を重ねていくごとに被害者たちの記憶はどんどん薄れてしまい、あやふやな回答となってしまったのでしょうか。
決め手となった名刺について紛失届を出していた
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帝銀銀行事件の犯人逮捕の大きなきっかけとなった「名刺」もしも平沢が松井蔚と名刺交換をしていなければ、犯人として名が挙がることはなかったでしょう。平沢は1947年に青函連絡船の中で松井と名刺交換を行っています。
名刺交換を行ったにもかかわらず、松井の名刺を持っていなかったということが逮捕の要因となりました。ですが平沢には「持っていない理由」があったのです。帝銀銀行事件前に、平沢は松井の名刺が入った財布を三河島駅で盗まれてしまったということを証言しています。ですが、その証言は無念にも警察・裁判官に通ることはなかったのです。
名刺交換を行ったにもかかわらず、松井の名刺を持っていなかったということが逮捕の要因となりました。ですが平沢には「持っていない理由」があったのです。帝銀銀行事件前に、平沢は松井の名刺が入った財布を三河島駅で盗まれてしまったということを証言しています。ですが、その証言は無念にも警察・裁判官に通ることはなかったのです。
証拠は自白調書3通
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平沢が犯人となり、死刑が確定の決め手となったもののなかに「3通の自白調書」があります。「自白をしたならば真犯人だ」と思うのが一般的な意見ですが、実はこの調書は捏造されたものだったのです。
大村徳三博士の鑑定によると「取調べに関与をしていない出射義夫検事が平沢に白紙を渡し、指紋を捺させたものである」という結果だったのです。そして調書のなかには平沢本人のものではないサインもあったといいます。
大村徳三博士の鑑定によると「取調べに関与をしていない出射義夫検事が平沢に白紙を渡し、指紋を捺させたものである」という結果だったのです。そして調書のなかには平沢本人のものではないサインもあったといいます。
自白書の捏造疑惑
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平沢は一度は自白をしたもののそれ以降は無実を証言しています。そして作成された自白書も存在しており、こちらも逮捕・死刑確定の大きな要因となってくるのですが「自白書は捏造なのではないか」とも囁かれていました。
というのも、自白書の中で強い価値を持つ「聴取書」は第60回・61回・62回の3つのものでありましたが、この3つの聴取書は平沢が警視庁から移監されたその日にとられているのです。
当時の平沢はほとんど放心状態で面会することは不可能な状態であり、監獄医の診療治療を受けていたという証拠もある為、本当に聴取書をとられたのかはあやふやなままだったのです。
というのも、自白書の中で強い価値を持つ「聴取書」は第60回・61回・62回の3つのものでありましたが、この3つの聴取書は平沢が警視庁から移監されたその日にとられているのです。
当時の平沢はほとんど放心状態で面会することは不可能な状態であり、監獄医の診療治療を受けていたという証拠もある為、本当に聴取書をとられたのかはあやふやなままだったのです。
獄中環境を悪化させ自然死を狙っていたという報道
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平沢は逮捕後の1962年、宮城刑務所に移送をされることになりました。巷では「仙台送り」と呼ばれて居たようです。当時のタイム誌では「東北に移送することで獄中環境を悪化させて平沢の自然死を狙っているのではないか」という報道がなされました。
当時はお世辞にも「良い環境」といえるような環境ではなかった宮城刑務所。1945年から1963年の間は東京には死刑執行場がなく、死刑執行の為に死刑囚を宮城刑務所に移送していました。
「死刑を執行する為に宮城刑務所へ移送する」という圧力を平沢にかけ、精神的に追い込むつもりもあったのでしょうか。
当時はお世辞にも「良い環境」といえるような環境ではなかった宮城刑務所。1945年から1963年の間は東京には死刑執行場がなく、死刑執行の為に死刑囚を宮城刑務所に移送していました。
「死刑を執行する為に宮城刑務所へ移送する」という圧力を平沢にかけ、精神的に追い込むつもりもあったのでしょうか。
毒物に関する知識がなかった
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平沢の人生は「画家道」といっても過言ではありませんでした。青春時代を絵に捧げて生きてきた人物です。平沢は画に関してなどに多くの知識を持っていましたが、今回帝銀事件で使用された毒物関係に関して知識を何もモテ射ませんでした。
捜査に携わっていた成智英雄は手記で「平沢のように毒物に関する知識を全く持っていない人物にが帝銀事件のような犯行を行うことは不可能である」ということを述べています。
毒物の服用の仕方を周囲にレクチャーするということは、毒物に関して様々な知識を持っていないとできないことでもあります。何も知識のない毒物を凶器として犯行を行うのは、平沢にはとてもではありませんができないような反抗なのです。
捜査に携わっていた成智英雄は手記で「平沢のように毒物に関する知識を全く持っていない人物にが帝銀事件のような犯行を行うことは不可能である」ということを述べています。
毒物の服用の仕方を周囲にレクチャーするということは、毒物に関して様々な知識を持っていないとできないことでもあります。何も知識のない毒物を凶器として犯行を行うのは、平沢にはとてもではありませんができないような反抗なのです。
1954年等事件と類似した事件が発生した
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