2019年9月30日 更新

宮城事件とは?畑中少佐を含めた事件の首謀者とその真相

第二次世界大戦時、皇居では終戦を告げる「玉音放送」を巡ってのクーデターが勃発していました。首謀者は陸軍将校と近衛師団参謀達で、中心人物は畑中少佐と言われています。今回は、日本人の命運を分ける可能性もあった「宮城事件(きゅうじょうじけん)」の真相を紹介します。

目次

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竹下正彦(たけしたまさひこ)中佐も、当初は徹底抗戦を訴え、阿南陸軍大臣に対して辞任と内閣総辞職を訴える程の激昂を見せていました。

クーデターの計画書とも言える「兵力使用計画」と「兵力使用第二案」を起案したのも竹下でしたが、昭和天皇の御聖断後に、阿南が「陸軍としては承詔必謹(陛下の御言葉を必ず守る)」と告げた為、竹下は戦争継続を諦めたのです。

しかし、8月15日(水)未明、畑中健二に参加することを説得されるも、クーデターは失敗に終わってしまいます。竹下は戦後、陸上自衛隊に入隊し最終的に陸上自衛隊幹部学校長を勤めました。ちなみに、彼が執筆していた宮城事件中の日記「大本営機密日誌」を元に、小説や映画で宮城事件を描いた「日本のいちばん長い日」が生み出されたのです。

椎崎二郎中佐

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首謀者の1人とされている椎崎二郎(しいざきじろう)中佐の人物像や、宮城事件中の動向はハッキリ分かっていません。椎崎は和歌山県出身で、陸軍士官学校を卒業後、歩兵少尉や南支那方面参謀などを勤め、クーデターを起こす2ケ月前に中佐となっています。

椎崎の行動がハッキリしているのは、阿南陸軍大臣にクーデターの計画を持ち込んだ時に同行していたことと、クーデター失敗後に自決したということだけです。

偽りなき誠実な心は、必ず天に通じるという意味の孟子の言葉「至誠通神(しせいつうしん)」という一言の遺書を残していたことから、彼は彼なりの信念を持ってクーデターに参加したのでしょう。しかし、彼の願いも虚しく日本は終戦を迎えることになるのです。

畑中健二少佐

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宮城事件を描いた映画「日本のいちばん長い日」は、1967年(昭和42年)と2015年(平成27年)の2度上映され、畑中健二の役を、黒沢年雄と松坂桃李がそれぞれ演じています。映画の中では、相当な激昂型でかなり危ない人物に描かれているのですが、実際の畑中は純朴で大人しい人物だった言われています。

畑中は京都府京丹波町の地主の息子で、陸軍大学校を卒業後、大東亜戦争にも第3軍参謀として出征しますが、1942年(昭和17年)4月に戦傷を受けて帰国していました。

宮城事件では実行班として動き、阿南陸軍大臣を始め上層部への説得や、近衛師団師団長の銃殺、偽の命令を発令、宮城占拠など精力的に行動します。宮城から撤退した後も徹底抗戦のビラをバラ撒き、最後まで決起を叫んでいましたが、玉音放送直前に自決してこの世を去りました。

古賀秀正少佐

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首謀者達のほとんどが30代の中で、古賀秀正(こがひでまさ)少佐はまだ26歳でした。彼もまた、どのような経緯でクーデターに参加したのかの詳細は不明です。

古賀は佐賀県出身で、陸軍大学校卒業後に近衛第一師団参謀となりました。近衛師団(このえしだん)とは、天皇や宮城を守る最精鋭の部隊のことで、クーデターを起こすことは絶対許される部隊ではありません。彼は更に、首相であった東条英機の娘と結婚していることからも、硬い決意を持ってクーデターに参加したというよりも、成り行きで巻き込まれてしまった可能性があるのです。

畑中が近衛師団師団長を殺害した後、古賀は畑中の指示に従い、玉音放送のレコードを探したり、放送会館へ近衛歩兵第二連隊第一中隊を派遣するなどの協力をしています。しかし、クーデター失敗後、彼は殺害された近衛師団師団長の遺体の前で自決してこの世を去りました。

青年将校の計画

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何としてでも降伏を阻止して戦争を継続する為に、青年将校達はクーデターを計画しますが、自分達だけでは軍を動かすことは出来ません。

彼らはまず、御前会議でも徹底抗戦を訴えていた陸軍大臣、そして関東全域を受け持つ陸軍を持つ東部軍管区司令官、更に宮城を占拠し昭和天皇に降伏撤回を求める為、近衛師団師団長を説得して軍を動かそうとしていました。

青年将校達が本格的に動き出したのは、最後の御前会議が行われた8月14日(火)の15時過ぎからで、すでに翌日の降伏が決定した後でしたが、ここではまず、青年将校達の計画を解説します。

近衛師団師団長の説得

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青年将校達は、二手に分かれ近衛師団師団長と東部軍管区司令官の説得に動きました。1945年(昭和20年)8月15日(水)深夜、井田正孝中佐と椎崎二郎中佐は、近衛師団師団長である森赳(もりたけし)に面会を求めます。

その時森赳は、義弟の白石通教(しらいしみちのり)中佐と会談中でしたが、将校の面会に応じたのです。井田と椎崎は、徹底抗戦を訴え、決起に力を貸して欲しいと参加を求めますが、森は「明治神宮を参拝してから決断する」と答え、ひとまずその場を治めました。

井田と椎崎は、その言葉を聞いて安心したのか、すぐに師団長室を出て行ったのです。

東部軍管区司令官の説得

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東部軍管区は関東一円を護る陸軍で、兵力100万人を持つ最大の軍隊でした。御前会議で降伏が決定した8月14日(火)午後3時頃、畑中健二少佐は東部軍管区司令官である田中静壱(たなかしずいち)に面会を求めます。

田中は彼が何をしに来たのかすでに理解していましたが、面会を許可しました。しかし、畑中が部屋へ入ろうとした瞬間、田中は「馬鹿者!貴様らのすることは分かっている帰れ!」と怒鳴りつけたのです。

畑中はその勢いに恐れをなし、説得する間も無く部屋から転がり出るように去って行きました。

阿南惟幾陸軍大臣の説得

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阿南惟幾陸軍大臣は、血気に逸る青年将校達を幾度か止めています。始めは、8月10日(金)の御前会議後、陛下の御聖断によって降伏が決定したと報告する陸軍省の会議で、激昂して内閣総辞職などを叫んだ将校達に「不服があるならば、まずは自分(阿南)を斬れ!」と怒鳴り、その場を治めました。

8月12日(日)ポツダム宣言受諾に対する、国体護持の条件について質問へ、連合国側から回答が届きますが、ここでも最高戦争指導会議はまた意見が割れてしまいます。回答には「天皇及び、日本政府の国家統治権は、連合国最高司令部にsubject toする」とありましたが、問題となったのは「subject to」という訳し方でした。

外務省側では「制限の下に置かれる」と訳しましたが、陸軍では「隷属(れいぞく:服従)される」と訳したことで、青年将校達はやはり徹底抗戦あるのみ!と決意を新たにしてしまい、会議を終えて陸相官邸に戻ってきた阿南に、クーデター決行を訴えたのです。阿南はここでもまた、「梅津参謀長と相談して決断する」と答え、時間を引き延ばしています。

玉音録音の中止

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3人の上官達を説得出来なかった青年将校達は、最終的に宮城を占拠し、玉音レコードの録音を阻止しようと計画していました。

しかし、のちに詳しく説明しますが、彼らが近衛師団長室でゴタゴタしている間に、玉音はすでに録音されていたことが判明して、計画はまたしても崩れてしまうのです。

そこで青年将校達は、8月15日(水)深夜、近衛師団に偽の命令を発令し、録音を終えて帰宅しようとしていた放送協会の職員などを拘束したり、録音されたレコードの捜索することになりました。

宮城事件の詳細

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歴史に「もし(if)」はありません。戦後からすでに74年の時を経た今「あの時もし…」という話は、過去を知っているからこそ簡単に出来るのです。しかし、根本的原因や世界の動き、そして正しい歴史を知ることで、これから先の未来に向けて失敗を少なくすることは出来るでしょう。

歴史を変えることはできませんが、過去も今現在も、ユダヤや共産主義者のコミンテルンは存在し、日本や世界を混乱させようと動いています。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言いますが、すっかり平和ボケに染まり牙を抜かれてしまった日本人は、今も尚破壊を続けられていることを忘れてはいけません。

何故なら彼らの最終目的は、2000年以上続く日本の皇室解体だからです。クーデターは許されることではありませんが、少なくとも国体護持を必死に訴えていた青年将校達は、この国の長く続く歴史や文化、そして日本人を護ろうする信念がありました。もちろん、降伏を受け入れようとしていた昭和天皇や、政府側もこの国の未来を護る為、苦渋の決断をしていたのです。ここでは、日本の命運を掛けた宮城事件の詳細を解説します。

1945年8月12日天皇に関する回答が連合国側から届く

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