2019年9月30日 更新

宮城事件とは?畑中少佐を含めた事件の首謀者とその真相

第二次世界大戦時、皇居では終戦を告げる「玉音放送」を巡ってのクーデターが勃発していました。首謀者は陸軍将校と近衛師団参謀達で、中心人物は畑中少佐と言われています。今回は、日本人の命運を分ける可能性もあった「宮城事件(きゅうじょうじけん)」の真相を紹介します。

目次

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鈴木貫太郎は元海軍大将で、連合艦隊司令長官まで上り詰めた人物です。その後、昭和天皇と貞明皇太后(大正天皇皇后)に篤く望まれ、宮中の侍従長となりました。彼は侍従長時代にも、二・二六事件(陸軍皇道派の青年将校達によるクーデター未遂事件)が勃発し、襲撃され銃弾に倒れたこともあるのです。

戦局が悪化した1945年(昭和20年)に前内閣が辞職した為、鈴木は次の内閣を決める重役会議に枢密院議長として出席した後、昭和天皇から直々に呼び出されました。そして陛下は、鈴木に内閣総理大臣を引き受けてくれるよう頼んだのです。

この時鈴木は、すでに77歳という高齢の上、軍人は政治に係わるべきでは無いと辞退を申し出たのですが、陛下は「この重大なときにあって、他に人はいない。どうか曲げて頼む」と言われ、鈴木は決死の覚悟で第42代内閣総理大臣という責務を引き受けました。

1945年5月枢軸国ドイツの降伏

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1945年(昭和20年)5月7日(月)日本の同盟国でもあり、第二次世界大戦の引き金を引いたドイツ軍が降伏しました。ドイツの首都であるベルリンをソ連軍に包囲されてしまったヒットラーは、4月30日(月)未明に、妻と地下壕にて自殺したと言われています。

もう1つの同盟国イタリアでは、国内でファシズム政権批判が高まり、ムッソリーニ排除の動きが着々と進んでおり、1943年7月24日(土)首相解任をイタリア国王に告げられたのち、逮捕され監禁されていました。

その後イタリア国王は、連合国と休戦協定を結び、枢軸国から離脱した上、ドイツが降伏した後の1945年(昭和20年)7月15日(日)には、なんと日本に宣戦布告をしています。

日本は自国のみで戦争を続ける

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ドイツが降伏し、イタリアも離脱して敵国となってしまった後、日本は自国のみで戦争を続けることになりました。しかし、同盟を結んでいたとは言っても、ドイツ・イタリアはヨーロッパで戦っていたのであり、アジアや南方で戦っていた日本軍は元々単独での戦いだったのです。

更に、何としてでも戦争を起こし、日本人を弱体化させてアジア進出を止めようとした白人達の無慈悲な経済制裁や、代理戦争の数々、そしてコミンテルン達による執拗なアジア圏の共産化と反日工作などを考えれば、この戦争は避けようが無かったとも言えます。

今だからこそ、もっと早く降伏すればと言えますが、周辺全てが勝手に敵として向かってくるのですから、降伏した後に国民全てが無事だったという保証は全く考えられなかったでしょう。

1945年6月22日昭和天皇が戦争の終結を打診

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共産主義者のコミンテルン達は、権力者や金持ちを滅ぼして自分達が奪い取る革命を起こし、独裁政権を築くという思想で生きています。その為、今現在も昭和天皇を戦犯呼ばわりしたり、戦争責任を声高に叫び続けているのです。

しかし、日本の天皇にはほとんど権限はありません。奈良時代や平安初期であれば、政治に対しての実権を持つ天皇も存在しましたが、摂関政治や武士の台頭により力は無くなり、政治はあくまでも公家や武士、現代では内閣が担っています。

明治から昭和初期に掛けての大日本帝国時代も、天皇は国家元首であり、統治権を総攬(そうらん:全て見る)とされていましたが、基本的に自分の意見を言うということはほとんどありませんでした。そのような中、1945年(昭和20年)6月22日(金)、昭和天皇は最高戦争指導会議の中で、初めて戦争の終結を打診するようにと口を開いたのです。

1945年7月ポツダム宣言

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1945年(昭和20年)7月26日(木)、ドイツのベルリンにてイギリス、アメリカ、中華民国(現台湾)による、ポツダム宣言が出されました。署名は、イギリス首相チャーチル、アメリカ大統領トルーマン、中華民国主席の蒋介石(しょうかいせき)の3人ですが、実はこのポツダム宣言の内容のほとんどを作成したのは、トルーマンです。

蒋介石に至っては、署名の場にも参加していません。実はこのポツダム宣言以前の、1945年(昭和20年)2月4日(日)~2月11日(日)に掛けて、イギリス首相チャーチルと、前アメリカ大統領のルーズベルト、そしてソ連のスターリンは、ヤルタ会議を開き、ソ連が参戦して満州や樺太などの領土を奪うことなどが話し合われていました。

その為、ポツダム宣言も日本が始めは受け入れないだろうというような内容にし、ソ連参戦まで降伏をさせる気など最初から無かったのです。この時、ルーズベルト大統領はソ連に話していませんが、実はすでに原爆投下も心に決めており、彼らは何とかしてでも、日本の降伏を引き延ばそうとしていました。

ポツダム宣言を受け入れるか否かで意見が分かれる

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宮城事件の概要でも述べましたが、このポツダム宣言は短波送信などで日本にも伝えられますが、日ソ中立条約を結んでいたソ連に仲介を頼もうと考えていた政府は、この件についてノーコメントを取りました。

しかし、中味についての感想には触れず、宣言文を公表したところ、各新聞社は「笑止!」などと戦争継続を煽り立て、陸軍でも公式に拒否するよう表明するべきだと、世間は大騒ぎになったのです。

政府の会議でも、ポツダム宣言を受け入れるか否かで意見が割れ、結論は中々すぐには出ませんでした。

1945年8月6日広島に原子爆弾が投下される

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正当な理由も無く、原子爆弾の成果をどうしても試したかったのは、ルーズベルトではなく、側で政権を操っていたコミンテルン達です。その意志は、ルーズベルトが亡くなった後大統領になったトルーマンにも引き継がれ、日本が原爆を回避することは出来なかったでしょう。

アメリカは、戦争継続をしようとする日本軍を止める為、原爆を仕方なく使ったというような正当性を今も伝えていますが、トルーマンはなんと「18発」もの原爆を日本に投下することを承認していたのです。

ポツダム宣言も拒否するであろうことは、トルーマンも確信していると日記に書き残してあり、それを理由として1945年(昭和20年)8月6日(月)午前8時15分、広島市に最初の原爆が投下されました。

1945年8月9日独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連が日本に宣戦布告

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1945年(昭和20年)8月9日(木)未明、仲介を頼み和平交渉を進めようとしていたはずのソ連が突如、宣戦布告をして満州を襲撃し始めました。

日本政府にとっては予期せぬ出来事でしたが、先程述べたようにヤルタ会議ではすでに決定していた侵攻であり、ソ連は予定通りの行動を取ったのです。

ソ連は、満州、樺太、千島列島、北朝鮮などに侵攻し、終戦後の9月5日(水)まで襲撃を止めず、多くの日本人が犠牲となりました。

長崎市に原子爆弾投下

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追い打ちを掛けるように、ソ連が侵攻してきた同日の8月9日(木)午前11時02分、今度は長崎に2発目の原爆が投下されました。広島と長崎は原爆の種類が違いますが、長崎に落とされた「ファットマン」は、広島投下で使用された「リトルボーイ」の1.5倍の威力を持っていたのです。

アメリカはあまり長崎原爆投下について触れませんが、その理由はキリスト教会であった「浦上天主堂」が爆心地の至近距離にあったことです。この日は、聖母被昇天の祝日を控え、多くの信者が教会に訪れておりその場にいた全員が死亡しました。多くのキリスト教信者がいるアメリカでは、この真実を消滅させるべく、被爆した浦上天主堂を取り壊したのです。

日本では戦国から江戸時代、そして明治維新後も、キリスト教は厳しく弾圧されていた中で、長崎では12000人の信者がいました。隠れキリシタンとなっても、キリスト教を純粋に信じていた信者を、キリスト教徒のアメリカ人は焼き殺したのです。

御前会議が開かれる

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長崎に原爆が投下された頃、政府は最高戦争指導会議を開いていました。ソ連参戦、2度の原爆投下、沖縄陥落、執拗な空襲などの報告を受け、鈴木貫太郎を始めとする政府内では、ポツダム宣言受諾以外に方法は無いと考え始めます。

しかし、何度が触れたように、陸軍などは徹底抗戦を訴え、中々意見がまとまりませんでした。そこで、鈴木は苦渋の選択で昭和天皇に意見を伺うことを決めました。

8月10日(金)午前0時、御文庫(おぶんこ)と呼ばれる地下防空壕内にて、昭和天皇が臨席して御前会議が開かれ、鈴木は陛下に最後の御聖断(ごせいだん:天皇の決断)を要請したのです。

ポツダム宣言の受託

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