目次
- 終戦間際に起こった内輪揉め宮城事件の真相
- 宮城事件の概要
- 第二次世界大戦後期、日本の敗戦が濃厚となっていた
- ポツダム宣言を受け入れる側と、受けれない側に別れる
- 終戦を受け入れられなかった青年将校達がクーデターを画策
- 青年将校達は主要人物を説得するも叶わず
- 日本の降伏を阻止しようと1枚のレコードを探す
- レコードは見つからず、日本は当初の予定通り降伏表明を行った
- 宮城事件発生時の時代背景
- 第一次世界大戦終戦後、参加国間には対立関係が残っていた
- 世界大恐慌や敗戦に伴う賠償で、各国が疲弊していた
- 第一次世界大戦終戦から21年後、再び世界的な戦争が起こる
- 連合国vs枢軸国
- 1939年~1945年まで戦争が続く
- 1945年3月10日東京大空襲
- 1945年4月沖縄県に「鉄の暴風」
- 昭和天皇直々に、鈴木貫太郎に総理大臣就任を要請
- 1945年5月枢軸国ドイツの降伏
- 日本は自国のみで戦争を続ける
- 1945年6月22日昭和天皇が戦争の終結を打診
- 1945年7月ポツダム宣言
- ポツダム宣言を受け入れるか否かで意見が分かれる
- 1945年8月6日広島に原子爆弾が投下される
- 1945年8月9日独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連が日本に宣戦布告
- 長崎市に原子爆弾投下
- 御前会議が開かれる
- ポツダム宣言の受託
- 終戦派と継続派の対立
- 昭和天皇
- 東郷茂徳外務大臣(終戦派)
- 米内光政海軍大臣(終戦派)
- 平沼枢密院議長(終戦派)
- 阿南惟幾陸軍大臣
- 梅津美治郎参謀総長
- 宮城事件の首謀者
- 井田正孝中佐
- 竹下正彦中佐
- 椎崎二郎中佐
- 畑中健二少佐
- 古賀秀正少佐
- 青年将校の計画
- 近衛師団師団長の説得
- 東部軍管区司令官の説得
- 阿南惟幾陸軍大臣の説得
- 玉音録音の中止
- 宮城事件の詳細
- 1945年8月12日天皇に関する回答が連合国側から届く
- 1945年8月14日2度目の御聖断
- 1945年8月14日午後、玉音録音準備
- 畑中健二を含む、青年将校は主要人物を説得し戦争続行を画策
- 畑中健二は田中静壱(東部軍管区司令官)に面会するも一喝される
- 畑中健二は、森赳(近衛師団師団長)を説得出来ず殺害
- 白石通教中佐は、森師団長を庇い殺害される
- 森師団長の判を奪い、偽の命令を発令
- 玉音盤は見つからなかった
- 田中静壱司令官によって、クーデターが鎮圧される
- クーデター失敗の理由と真相
- レコードの隠し場所
- 森師団長及び、田中司令官が貫いた意志
- クーデターを未然に防ぐ為、阿南陸軍大臣は反対派になった
- 日本放送協会報道部、柳沢恭雄は銃を突き付けられるもひるまなかった
- 宮城事件のその後
- 阿南陸軍大臣は、クーデターを抑えられなかった責任を取り自決
- 田中静壱司令官は、敗戦の責任を取り自決
- 畑中健二を含む、首謀者は失敗により自決
- 井田正孝は自決を覚悟するも失敗
- なぜ終戦を拒んだのか
- ポツダム宣言への懸念
- これまで「勝利」のために死んでいった仲間達のため
- 戦争への教育によって
- 現代の世は、多くの人々の思いによって創られている
via pixabay.com
1945年8月9日(木)~10日(金)の深夜まで続いた会議は、昭和天皇の御聖断によって、ようやくポツダム宣言受託を決定しました。
鈴木が陛下に御聖断を求めたのは、午前2時になってからです。陛下が簡単に意見を言えるような環境であれば、もっと早くに決断が下されたでしょう。
恐る恐る意見を求めた鈴木に対し、陛下は涙ながらに「外務大臣の意見に同意である」と答えたと言われています。しかし、この後も条文の解釈や、条件の文章などで意見が割れ、再び御前会議が開かれることになりました。
鈴木が陛下に御聖断を求めたのは、午前2時になってからです。陛下が簡単に意見を言えるような環境であれば、もっと早くに決断が下されたでしょう。
恐る恐る意見を求めた鈴木に対し、陛下は涙ながらに「外務大臣の意見に同意である」と答えたと言われています。しかし、この後も条文の解釈や、条件の文章などで意見が割れ、再び御前会議が開かれることになりました。
終戦派と継続派の対立
via pixabay.com
すでに何度か触れていますが、ポツダム宣言が伝わってからの政府では、戦争を終結させるのか、継続して徹底抗戦をするという意見の対立がありました。
当初は、ソ連に仲介を頼もうとしていた日本政府でしたが、ソ連参戦の報を聞いてからはポツダム宣言を受ける以外、方法は無いと感じていたのです。
しかし、この先日本がどうなってしまうのかということを考えた時、やはり誰しもが気楽な気持ちで決断は出来ないでしょう。その為、激しい議論は中々まとまりませんでした。ここでは、最高戦争指導会議にて、この国の終結を決めた人物達を紹介します。
当初は、ソ連に仲介を頼もうとしていた日本政府でしたが、ソ連参戦の報を聞いてからはポツダム宣言を受ける以外、方法は無いと感じていたのです。
しかし、この先日本がどうなってしまうのかということを考えた時、やはり誰しもが気楽な気持ちで決断は出来ないでしょう。その為、激しい議論は中々まとまりませんでした。ここでは、最高戦争指導会議にて、この国の終結を決めた人物達を紹介します。
昭和天皇
via pixabay.com
終戦を告げる玉音放送は知っていても、開戦を告げる詔書(しょうしょ)が出されていたことを知っている人は少ないでしょう。真珠湾攻撃は、宣戦布告を行わずの奇襲攻撃だ!と騒ぐ反日の人々は多いですが、実はきちんと宣戦布告をしていたのです。
しかし、冒頭から何度もお伝えしているように、コミンテルン達は日本から戦争を仕掛けるように工作し続けた上、ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃が来ることを知っていて黙殺していました。更に、攻撃前に宣戦布告を伝える予定の外務省の役人は、前日送別会で飲み過ぎ寝坊し、通知時刻に間に合わなかったという失態を犯しています。もしかすると、コミンテルンだったのかもしれません。
話は逸れましたが、昭和天皇は開戦の詔書の中でも「この戦争は本意ではない」と述べており、出来れば避けたかったという御心が見えてきます。また、ポツダム宣言の約1か月前にも、陛下自らが最高戦争指導会議を召集し「命令ではなく、あくまでも懇談だが、何とか速やかに終結出来るよう研究して欲しい」と、早期の終戦を望んでいたのです。
しかし、冒頭から何度もお伝えしているように、コミンテルン達は日本から戦争を仕掛けるように工作し続けた上、ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃が来ることを知っていて黙殺していました。更に、攻撃前に宣戦布告を伝える予定の外務省の役人は、前日送別会で飲み過ぎ寝坊し、通知時刻に間に合わなかったという失態を犯しています。もしかすると、コミンテルンだったのかもしれません。
話は逸れましたが、昭和天皇は開戦の詔書の中でも「この戦争は本意ではない」と述べており、出来れば避けたかったという御心が見えてきます。また、ポツダム宣言の約1か月前にも、陛下自らが最高戦争指導会議を召集し「命令ではなく、あくまでも懇談だが、何とか速やかに終結出来るよう研究して欲しい」と、早期の終戦を望んでいたのです。
東郷茂徳外務大臣(終戦派)
via pixabay.com
東郷茂徳(とうごうしげのり)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に捕虜となり、薩摩藩に連れてこられた朝鮮人の陶工達の集落出身で、本名は朴茂徳という朝鮮人でした。
明治維新後、東郷という士族の家禄を買い取り、東郷茂徳という名前になった帰化人です。しかし、明治後半から終戦までの朝鮮は併合によって、同じ大日本帝国の国民だった為、彼が政府の中にいても問題はありません。
東郷は、最高戦争指導会議や御前会議で、ポツダム宣言受諾の条件として「国体護持(こくたいごじ:天皇の地位保証)」があれば、降伏をするという意見を述べました。
明治維新後、東郷という士族の家禄を買い取り、東郷茂徳という名前になった帰化人です。しかし、明治後半から終戦までの朝鮮は併合によって、同じ大日本帝国の国民だった為、彼が政府の中にいても問題はありません。
東郷は、最高戦争指導会議や御前会議で、ポツダム宣言受諾の条件として「国体護持(こくたいごじ:天皇の地位保証)」があれば、降伏をするという意見を述べました。
米内光政海軍大臣(終戦派)
via pixabay.com
米内光正(よないみつまさ)海軍大臣は、旧盛岡藩士の家に生まれました。元々武士の家系だったせいか、米内は海軍兵学校を卒業し、海軍に入隊しています。
日露戦争にも参戦し、戦艦「扶桑」や「陸奥」の艦長も務めた軍人ですが、米内もまた鈴木貫太郎同様、昭和天皇に請われ第37代内閣総理大臣も務めたことがありました。
最高戦争指導会議や御前会議では、米内海軍大臣も東郷外務大臣の意見に同意し、国体護持のみを条件に降伏を訴えたのです。
日露戦争にも参戦し、戦艦「扶桑」や「陸奥」の艦長も務めた軍人ですが、米内もまた鈴木貫太郎同様、昭和天皇に請われ第37代内閣総理大臣も務めたことがありました。
最高戦争指導会議や御前会議では、米内海軍大臣も東郷外務大臣の意見に同意し、国体護持のみを条件に降伏を訴えたのです。
平沼枢密院議長(終戦派)
via pixabay.com
平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)枢密院議長(すうみついんぎちょう)は、経歴は凄いながらも、少々厄介な存在だったようです。
彼は津山藩士の次男として誕生した武士の家系の子ですが、帝国大学法学部を主席で卒業し司法界に進みました。その後、東京控訴院判事や検事を務め、司法大臣や第35代内閣総理大臣も務めています。
平沼は、最高戦争指導会議や御前会議にて、毎回異なる意見を述べる為、皆からかなり警戒されていました。最終的には終戦派に回りましたが、人を悪く言うことがほとんど無い昭和天皇も、のちに平沼を「二股を掛けた人物」と酷評しています。
彼は津山藩士の次男として誕生した武士の家系の子ですが、帝国大学法学部を主席で卒業し司法界に進みました。その後、東京控訴院判事や検事を務め、司法大臣や第35代内閣総理大臣も務めています。
平沼は、最高戦争指導会議や御前会議にて、毎回異なる意見を述べる為、皆からかなり警戒されていました。最終的には終戦派に回りましたが、人を悪く言うことがほとんど無い昭和天皇も、のちに平沼を「二股を掛けた人物」と酷評しています。
阿南惟幾陸軍大臣
via pixabay.com
阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣は、最後まで降伏せずに徹底抗戦するべきだという継続派でした。彼は、幼い頃から陸軍将校に憧れており、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校で学び、侍従武官(じじゅうぶかん)となりました。
侍従武官とは、天皇に常時奉仕する武官のことですが、この時の侍従長が鈴木貫太郎で、阿南は鈴木に尊敬の念を抱いていたと言われています。
阿南は徹底抗戦を訴えながらも、クーデターを伝えに来た青年将校達を止めていたり、御前会議で陛下の御聖断が下された後には、鈴木貫太郎の元へ訪れ「強固な意見ばかりを言いご迷惑をお掛けしました」と詫びを入れています。これらの彼の行動から、のちの評価で阿南は、陸軍の暴発を止める為にわざと継続を訴えていたのではないか?と言われていますが、今となっては彼の真意は分かりません。
侍従武官とは、天皇に常時奉仕する武官のことですが、この時の侍従長が鈴木貫太郎で、阿南は鈴木に尊敬の念を抱いていたと言われています。
阿南は徹底抗戦を訴えながらも、クーデターを伝えに来た青年将校達を止めていたり、御前会議で陛下の御聖断が下された後には、鈴木貫太郎の元へ訪れ「強固な意見ばかりを言いご迷惑をお掛けしました」と詫びを入れています。これらの彼の行動から、のちの評価で阿南は、陸軍の暴発を止める為にわざと継続を訴えていたのではないか?と言われていますが、今となっては彼の真意は分かりません。
梅津美治郎参謀総長
via pixabay.com
梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長も、最後まで徹底抗戦を訴えていた1人です。彼も阿南陸軍大臣と同様、陸軍幼年学校から陸軍大学まで学び、陸軍大学を主席で卒業して軍人となりました。
最高戦争指導会議や御前会議では、梅津も阿南と共に戦争継続派として意見を述べていましたが、彼もまた不可思議な行動をしています。昭和天皇へ関東軍視察の報告をした際には「兵力や弾薬が少ない」と上奏したり、本土決戦の為の準備は無いというような極秘資料も提出していたのです。
梅津はクーデターも許可しなかったことを考えれば、やはり阿南と同様、陸軍の暴走を止める為にあえて戦争継続を訴えていたのかもしれません。この他に会議に参加していたもう1人の人物、海軍軍令部の豊田副武(とよだそえむ)軍令部長も戦争継続を訴えており、結果3対3に意見が割れてしまった為、最終的に御聖断を仰ぐことになるのです。
最高戦争指導会議や御前会議では、梅津も阿南と共に戦争継続派として意見を述べていましたが、彼もまた不可思議な行動をしています。昭和天皇へ関東軍視察の報告をした際には「兵力や弾薬が少ない」と上奏したり、本土決戦の為の準備は無いというような極秘資料も提出していたのです。
梅津はクーデターも許可しなかったことを考えれば、やはり阿南と同様、陸軍の暴走を止める為にあえて戦争継続を訴えていたのかもしれません。この他に会議に参加していたもう1人の人物、海軍軍令部の豊田副武(とよだそえむ)軍令部長も戦争継続を訴えており、結果3対3に意見が割れてしまった為、最終的に御聖断を仰ぐことになるのです。
宮城事件の首謀者
via pixabay.com
現在の自衛隊からは想像も付きませんが、明治維新後の新政府は、徳川幕府を倒した薩摩藩士と長州藩士が中心となっており、軍隊の将校達もまた維新で活躍した藩出身の武士達でした。
薩摩と長州は、明治維新直前になって手を組みますが、始め薩摩は徳川に付いて長州征伐に参加している為、元々遺恨のある関係だったのです。しかし、2018年(平成30年)放送の大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」でお馴染みの西郷隆盛が、士族達と共に新政府に対して反乱を起こしたことで、薩摩閥の力が少し弱まってしまいます。
このような土台がある為、陸軍では派閥が多く、血気の盛んな者が多かったのです。では、宮城事件を起こした青年将校達とは、一体どのような人物だったのでしょうか?ここでは、宮城事件の首謀者を紹介します。
薩摩と長州は、明治維新直前になって手を組みますが、始め薩摩は徳川に付いて長州征伐に参加している為、元々遺恨のある関係だったのです。しかし、2018年(平成30年)放送の大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」でお馴染みの西郷隆盛が、士族達と共に新政府に対して反乱を起こしたことで、薩摩閥の力が少し弱まってしまいます。
このような土台がある為、陸軍では派閥が多く、血気の盛んな者が多かったのです。では、宮城事件を起こした青年将校達とは、一体どのような人物だったのでしょうか?ここでは、宮城事件の首謀者を紹介します。
井田正孝中佐
via pixabay.com
陸軍には様々な派閥がありますが、その中に皇道派(天皇に自ら政治を行い、その元で国家改造【昭和維新】をする)と、統制派(陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現する)という派閥もありました。
宮城事件の首謀者はこの皇道派が多く、井田正孝(いだまさたか)中佐もその1人です。彼は岐阜県出身で、陸軍大佐岩田冨士太郎の四男として誕生しますが、24歳の時、井田磐楠(いだいわくす)少佐の養子となった為、姓が変わりました。
井田は宮城事件中、近衛師団師団長殺害に係わっていますが、クーデター失敗後自決を止められて生き延びています。戦後は、在日米軍司令部に勤め、その後電通に入社して、電通映画社の常務も勤めました。今や悪の権化という認識が定着してきた電通に所属していたことを考えると、戦後はGHQのコミンテルンと化していたのかもしれません。
宮城事件の首謀者はこの皇道派が多く、井田正孝(いだまさたか)中佐もその1人です。彼は岐阜県出身で、陸軍大佐岩田冨士太郎の四男として誕生しますが、24歳の時、井田磐楠(いだいわくす)少佐の養子となった為、姓が変わりました。
井田は宮城事件中、近衛師団師団長殺害に係わっていますが、クーデター失敗後自決を止められて生き延びています。戦後は、在日米軍司令部に勤め、その後電通に入社して、電通映画社の常務も勤めました。今や悪の権化という認識が定着してきた電通に所属していたことを考えると、戦後はGHQのコミンテルンと化していたのかもしれません。
竹下正彦中佐
4 / 8