2019年9月30日 更新

宮城事件とは?畑中少佐を含めた事件の首謀者とその真相

第二次世界大戦時、皇居では終戦を告げる「玉音放送」を巡ってのクーデターが勃発していました。首謀者は陸軍将校と近衛師団参謀達で、中心人物は畑中少佐と言われています。今回は、日本人の命運を分ける可能性もあった「宮城事件(きゅうじょうじけん)」の真相を紹介します。

目次

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最高戦争指導会議で意見が分かれた原因は、2000年以上も続く同一王朝である天皇陛下を中心とした、日本国を存続できるのか否かという「国体護持(こくたいごじ)」の一点だけでした。

世界の歴史を見れば解りますが、植民地にされてしまうと、まずその国の王や皇帝が殺され、言葉や文化、歴史や宗教に至るまで変えられてしまいます。一番分かりやすいのは言葉ですが、英語や中国語、スペイン語、フランス語、ヒンドゥー語が多く使われているのは、侵略された植民地が多いからなのです。

当初発表されたポツダム宣言では、天皇や政府の権限について触れていませんでした。そこで、日本側が国体護持について質問したところ、先程も述べたように1945年(昭和20年)8月12日(日)午前0時頃に、連合国側から回答が来たのです。そこには「subject to(サブジェクト トゥ)」という単語があり、この訳し方で再び意見が割れてしまいます。「制限下」か「隷属」か、連合国側の真意が分からない以上、簡単に答えを出すことが出来ませんでした。

1945年8月14日2度目の御聖断

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会議は紛糾し、中々結論を出すことが出来ません。そこで鈴木貫太郎首相は、再び陛下に御聖断を仰ぐことにしました。

すでに青年将校達が不穏な動きをしていることは鈴木も把握しており、1945年(昭和20年)8月14日(火)午前、彼は陛下を護る為、そして陸軍の妨害を避ける為に御前会議を開きます。そこで昭和天皇に御聖断を仰ぐと、陛下は「自分の身はどうなっても良いから、国民の命を助けたい」と降伏を希望したのです。

意見が割れていた理由は、ある意味で昭和天皇の身を案じてのことです。しかし、陛下自らが自分の命より、国民の命と答えたことで、これ以上反論する余地はありませんでした。

1945年8月14日午後、玉音録音準備

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昭和天皇は御前会議の中で、「必要であれば自分が直接国民に声を伝える」とも答えます。鈴木は陛下の気持ちを予想していたのか、会議が始まった頃には日本放送協会の会長が呼び出され、終戦の詔書を放送出来るよう準備の指示を受けていました。

指示を受けた会長はすぐさま録音準備を手配し、1945年(昭和20年)8月14日(火)午後3時に、録音班8名で宮城へ向かいます。録音準備は1時間程で完了しましたが、詔書の最終稿の修正に時間が掛かりしばし待ちぼうけ状態となっていました。

大幅に予定がずれ込み、同日午後11時半頃より陛下自らがマイクの前に立ち、終戦の詔書の朗読録音が始まったのです。この時点で国民には、15日(水)正午に大切な放送があるとすでに放送していた為、放送協会にとっても失敗出来ない任務でした。

畑中健二を含む、青年将校は主要人物を説得し戦争続行を画策

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青年将校達の計画のところでも述べていますが、政府側が何とか必死に降伏準備をしている間、青年将校達はまず主要人物の説得に動いています。

しかし、すでに御聖断で降伏が決定した以上、誰しもが「承詔必謹(しょうしょうひっきん:天皇の御言葉を護るべし)」という決意をしていた為、青年将校達の説得は通じませんでした。

その為、青年将校達は、陛下に直接「降伏撤回」をしてもらわねばいけない状況に追い込まれ、彼らの行動はこの後いよいよ暴走していくのです。

畑中健二は田中静壱(東部軍管区司令官)に面会するも一喝される

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クーデターを決行する為に、どうしても大勢の軍人を動かす必要のあった畑中健二少佐は、関東一円を守備する東部軍管区の司令官、田中静壱の説得に向かいました。

しかし、先程も述べたように、田中は畑中を一喝し帰還を命令して追い返しています。畑中もその迫力に怯え、早々に退却してしまいました。

この時点で、関東最大の軍隊を動かす可能性は消え、畑中は最後の望みとしてすでに仲間が説得に当たっている、近衛師団師団長の元へ走るのです。

畑中健二は、森赳(近衛師団師団長)を説得出来ず殺害

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先に井田と椎崎が説得に当たっていた、近衛師団師団長の森赳(もりたけし)は「明治神宮に参拝してから」とその場を治めていましたが、入れ替わるように畑中健二が入室してきました。

畑中は始め、森を説得していたのか、しばらくしてから部屋を出ています。しかし、その後畑中は、別件で来ていた航空士官学校の上原大尉と、陸軍通信学校の窪田少佐と共に、再び師団長室に入ってきたのです。

畑中はそのまま無言で、森師団長に拳銃の銃口を向けて発砲し、師団長を殺害してしまいました。

白石通教中佐は、森師団長を庇い殺害される

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森師団長の元に井田と椎崎が面会に来た時から、師団長室には会談中であった森の義弟、白石通教(しらいしみちのり)中佐がその場にいました。

畑中が入って来た時にも、白石中佐はまだ滞在しており、畑中が森に銃口を向けた際に庇っています。しかし、同行してきた上原大尉と窪田少佐に軍刀で切り付けられ、白石もまた抵抗虚しく殺されてしまったのです。

この上原と窪田が何故突如クーデターに参加したのかの経緯は不明ですが、当初別件で近衛師団を訪れていたということから、畑中の説得に応じたのか、それとも拳銃で脅されていたのか、今となっては彼らの真意は解りません。

森師団長の判を奪い、偽の命令を発令

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実は森師団長も、早々に青年将校達の不穏な動きを予想していました。森は8月12日(日)の午前9時頃から、近衛歩兵第二連隊第一大隊や第三機関銃中隊などに武装させ、宮城警備の強化を始めていたのです。

しかし、森が畑中に射殺されたことで、司令を出す人は消えましたが、近衛兵達はすでに宮城内外に待機しているという状況が出来上がりました。

畑中は師団長室を漁り、森の印鑑を奪うと、偽の命令を発令し出したのです。例えその指令書を誰かが持ってきたとしても、森の判が付いている以上、近衛師団はその命令を疑うことはありません。結果、よく分からないまま近衛師団はクーデターに協力する羽目になりました。

玉音盤は見つからなかった

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何かおかしいと思いつつも、近衛師団達は森の命令だと信じたまま、畑中の命令に従っていました。何度か触れていますが、玉音録音を終えて帰宅しようとしていた放送協会の職員を拘束したり、レコードを必死に捜索したりして、クーデターに参加していたのです。しかし、宮城内をいくら探しても見つけることが出来ず、時間だけが刻々と過ぎて行きました。

同じ頃、東部軍管区司令官である田中と、高嶋参謀長はこの時点でクーデター鎮圧を決定しており、何とか巻き込まれている近衛師団に連絡を取ろうとしていました。しかし、宮城内の電話線は切られており、繋がる電話を探すのに時間が掛かっていました。

午前4時頃になって、ようやく近衛第二連隊長と連絡を取ることが出来た高嶋参謀長は、その命令は偽物だということを伝えたのです。この時電話を受けたのは芳賀近衛第二連隊長で、彼はすぐさまその場にいた青年将校達に退去を命じ、その場から追い出すことに成功します。

田中静壱司令官によって、クーデターが鎮圧される

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芳賀近衛第二連隊長が畑中を始めとする青年将校達を追い出す頃には、すでに夜が明けかけていました。

1945年(昭和20年)8月15日(水)午前5時頃、いよいよクーデターを鎮圧する為に、東部軍管区司令官の田中は武装もせず、数名の部下だけを連れて宮城へと向かったのです。

乾門(いぬいもん)にたどり着いた田中は、誰も入れるなと偽の命令を信じていた近衛兵を一喝して中へ入り、近づいてきた青年将校の数人を捕縛しました。近衛兵達も騙されていたことに気が付き、ここでようやくクーデターは鎮圧されたのです。

クーデター失敗の理由と真相

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