2019年9月30日 更新

宮城事件とは?畑中少佐を含めた事件の首謀者とその真相

第二次世界大戦時、皇居では終戦を告げる「玉音放送」を巡ってのクーデターが勃発していました。首謀者は陸軍将校と近衛師団参謀達で、中心人物は畑中少佐と言われています。今回は、日本人の命運を分ける可能性もあった「宮城事件(きゅうじょうじけん)」の真相を紹介します。

目次

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降伏を決断した政府側も、戦争継続の為にクーデターを起こした青年将校達も、命懸けで攻防を続けていました。最終的に、青年将校達の願いも虚しく、クーデターは失敗に終わります。

何年も前から計画を立て、念入りに手回しをするような時間があれば、もしかすると政権を倒すことは出来たのかもしれませんが、宮城事件は準備期間もほとんどなく、最初から上手くいくようなものではありませんでした。

しかし、それ以外にも失敗の理由は多々あると言えるでしょう。ここでは、クーデター失敗の理由と真相を追及していきます。

レコードの隠し場所

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玉音録音は無事に完了しましたが、すでに宮城を占拠されている状態の中で、侍従達はレコードを奪われないよう念入りに保管場所や、放送会館への搬送方法などを考えていました。

レコードは、徳川義寛(とくがわよしひろ)侍従長が預かり、皇后に仕える皇后宮職(こうごうぐうしょく)の事務所にある、軽金庫の中に保管した上で、書類の束の中に紛れ込ませていたのです。

彼は1度、青年将校達に取り囲まれ殴られていますが、レコードの在りかは漏らしませんでした。ちなみに、侍従長の名字からも分かるように、彼は尾張(おわり)徳川藩主の息子で、江戸幕府の将軍であった徳川家とも親類関係にあります。

森師団長及び、田中司令官が貫いた意志

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畑中に銃殺されてしまった近衛師団師団長の森赳(もりたけし)と、クーデターを鎮圧した東部軍管区司令官の田中静壱(たなかしずいち)は、陛下の身を護り、御聖断を「承詔必謹」する決意を固めていました。更に、ポツダム宣言受諾後、この国がまだどのようになるかも分からない状況化で、未来ある若者達を仲間同士で無駄に争わせている場合では無いとも考えていたでしょう。

何より、森も田中も近衛師団や陸軍が、宮城を戦場とすることを畏れていました。この国は不思議なもので、天皇に直接弓を向けようとする武士は古来より存在しません。反逆した者は、元々天皇の血を引く親族だけです。天皇に弓を引いたその瞬間から朝敵(ちょうてき)となり、逆賊の汚名を着せられることを、軍人ならば特に畏れるでしょう。

天皇に権力はありませんが、権威はあります。今現在も、首相や大臣などは天皇の任命が無ければ、正式な肩書とは言えないのです。同じように、征夷大将軍となる武士や、軍相なども、天皇に認めて貰えなければ、誰にもその肩書を信用してもらえません。まだ、明治維新の記憶も新しい時代に、皇軍を名乗って維新を起こした新政府側も、突如逆賊の汚名を着せられてしまった元幕軍や東北勢達も、朝敵になることを畏れるのは当然のことと言えます。

クーデターを未然に防ぐ為、阿南陸軍大臣は反対派になった

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阿南陸軍大臣もまた、表向きでは最後まで徹底抗戦を訴えながらも、最後は「承詔必謹」を決意したと言われています。陸軍大臣ですから、もしかすると本気で徹底抗戦を望んでいたのかもしれません。

しかし、クーデター決起の返答を迫る青年将校達をなだめすかし、返答を伸ばしていたことを考えれば、玉音録音や放送までの時間稼ぎや、将校達が過激な行動を取らないようにする為の作戦だったのでしょう。阿南と鈴木首相は、侍従時代を共に過ごして以来、互いに信頼が篤かったこともあり、実は事前に話し合っていたのかもしれません。

阿南がもし、降伏案を素直に賛成をしてしまうと、確実に青年将校達は辞職させる為に動く可能性が高く、何とか平和裏に終結させようとする昭和天皇の御心や、その意志に報いようとする鈴木首相の決意も無駄にしてしまうのです。その為、表向きは降伏反対派を貫いたのでしょう。

日本放送協会報道部、柳沢恭雄は銃を突き付けられるもひるまなかった

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森師団長の命令が偽物だと判明してから、畑中達将校はレコードを見つけることが出来ないまま、近衛師団に宮城を追い出されてしまいます。

外に出ると夜明けは近く、玉音放送開始まで後8時間となっていました。誰の賛同も得られず、クーデターも知られてしまい、畑中は焦っていたのです。彼は最後の手段として放送での決起を考え、日本放送協会へと走り出しました。

日本放送協会にも既に青年将校達の一部が占拠しており、そこには柳沢恭雄(やなぎさわやすお)副部長がいたのです。駆け付けた畑中は放送会館に乗り込み、柳沢に銃口を向けて「放送させよ」と命令しました。しかし、柳沢は動かず、無言のまま畑中の命令を拒否したのです。

宮城事件のその後

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1945年(昭和20年)8月15日(水)正午、ラジオからは君が代が流れ、ついに玉音が放送されました。しかし、6年にも及んだ長い戦いは、この放送で終わった訳ではありません。

沖縄はアメリカに占拠され、満州、樺太、北方領土ではソ連がまだ侵攻しており、中国大陸や南方諸島でも終戦を知らずに戦い続けている兵士や、日本人がまだ多く残されたままなのです。

当然、放送終了後から、この国がどうなってしまうのかは誰にも想像出来ませんでした。宮城事件も失敗に終わり、事件に係わった者達にも、悲しい結末が待っていたのです。ここでは、宮城事件のその後を紹介します。

阿南陸軍大臣は、クーデターを抑えられなかった責任を取り自決

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田中司令官がクーデターを鎮圧した8月15日(水)の午前5時頃、阿南陸軍大臣は陸相官邸にて腹を切り、自決を果たしました。阿南がいつから自分の最期を決めていたのかは分かりませんが、最後の御前会議前後ではすでに決意していたのかもしれません。

阿南はポツダム宣言受諾が決定した御前会議が終了した後、鈴木首相に南方からの珍しい煙草を渡し、「本来助けなければならない総理を、強固な意見でご迷惑をお掛けしました」と詫びて立ち去っています。

自決する前、阿南は道場で剣道を軽く楽しみ、その後官邸に戻ったところに、青年将校の井田正孝と竹下正彦が阿南にもう1度決起を説得するため訪ねてきたのです。しかし、彼はこれから「腹を切るから」と断り、結局井田と竹下はそのまま阿南が果てるまで自決を見届けることになりました。

田中静壱司令官は、敗戦の責任を取り自決

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クーデターを鎮圧した、東部軍管区司令官の田中静壱もまた、敗戦の責任を取ると自決を考えていました。部下に拳銃を持って来いと命令していたのですが、部下は頑なに拳銃を渡しません。

実は宮城事件鎮圧から9日後の8月24日(金)、違う反乱軍が徹底抗戦を訴える為に、埼玉県にある川口放送所を占拠するという事件が起きていました。田中はこの時も鎮圧に出動していたのです。

その日の夜、田中の妻から部下に「哀れだと思って拳銃を渡してあげて欲しい」という電話が有り、部下は断腸の思いで田中に拳銃を渡しました。日付が変わるころに銃声が響き、田中は自決を果たしたのです。

畑中健二を含む、首謀者は失敗により自決

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日本放送協会での決起放送も失敗に終わった畑中は、8月15日(水)午前7時頃、近衛師団指令室に立ち寄り、殺害してしまった近衛師団長の森赳宛に遺書を置いて行きました。

そこには亡き森宛として、「陛下の為に申し訳ない事をした。あの世で必ずお詫びいたします。」と書いてあったのです。

畑中は、その後放送直前まで決起を呼びかけるビラ撒きをしていましたが、玉音放送が始まる前の午前11時頃、宮城内の芝生の上で、椎崎二郎と共に切腹と頭部を拳銃で撃ち抜き自決しました。

井田正孝は自決を覚悟するも失敗

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先程も少し触れていますが、井田正孝は竹下正彦と共に、阿南陸軍大臣を再度説得するべく陸相官邸に赴き、阿南の自決を見守りました。その後、彼もまた自決を考えていましたが、見張りの将校に止められて死ぬことは出来なかったのです。

井田は、30日間の謹慎を終えた後、予備役に編入されたまま在日米軍司令部に勤め、最後は悪名高き電通や電通映画社入社して常務まで登り詰め、91歳でこの世を去りました。

彼は井田家の養子でしたが、終戦から4年後に何故か縁組を解消して、旧姓の岩田に姓を戻しています。やはり、そのままの名前では、何かと生きづらかったのかもしれません。

なぜ終戦を拒んだのか

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