2019年9月30日 更新

宮城事件とは?畑中少佐を含めた事件の首謀者とその真相

第二次世界大戦時、皇居では終戦を告げる「玉音放送」を巡ってのクーデターが勃発していました。首謀者は陸軍将校と近衛師団参謀達で、中心人物は畑中少佐と言われています。今回は、日本人の命運を分ける可能性もあった「宮城事件(きゅうじょうじけん)」の真相を紹介します。

目次

終戦間際に起こった内輪揉め宮城事件の真相

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歴史は常に勝者が作り出していくものです。負けてしまった国は植民地化され、実に多くの民族達が独自の言葉や文化、宗教、そして人間の尊厳すらも奪われ続けていきました。

日本は幸い、言葉や文化などを奪われずには済みましたが、GHQの日本人弱体化計画であるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)によって、未だに自虐史観を植え付けられ、大東亜戦争という名称すらも太平洋戦争という名に置き換えられてしまったのです。

世界での戦争史を振り返ってみれば、大抵は白人達とキリスト教徒が仕掛けてくる侵略戦争が原因であり、アフリカの黒人達や、黄色人種であるアジア人達は手先になるか、奴隷となるかの二択しかありませんでした。
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そのような世界情勢の中で、唯一白人に立ち向かっていったアジア人は日本人のみです。今まで反撃されたことも、負けを経験したことも無い白人達は、得体の知れない恐怖心から無差別空襲や、原爆投下という民間人大量虐殺を行い、本気で日本人を滅ぼそうとしていました。

このままでは日本人が滅ぼされると危惧した昭和天皇や、政府の一部は、何とか戦争を終わらせるよう動きますが、敗戦後の植民地化を恐れつつも、まだ血気盛んな青年将校達は本土決戦を訴えていたのです。

そもそも、フランシス・コザビエルが日本にやってきた頃から、この国は白人達に領土や資源を狙われており、戦争する気が無くとも何れ戦わねば、植民地化されてしまうことは避けられませんでした。そのような国の命運を掛けた最大の戦いが、大東亜戦争だったのです。今回は、そんな大東亜戦争の終結を巡って起きた、軍事クーデター「宮城事件(きゅうじょうじけん)」についての真相を紹介していきます。

宮城事件の概要

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歴史は一部分だけを見ても理解することは出来ません。大東亜戦争の原因を探るには、明治維新に至るまでの日本の歴史や、世界の動きを知らなければ真実を知ることは出来ないと言えるでしょう。

日本は海に囲まれた国ですが、実は常に夷敵(いてき:外国人の侵略者)に狙われ続けてきた国です。鎌倉時代の元寇から始まり、室町時代からは、キリスト教宣教師を装ったポルトガル人やスペイン人、鎖国時代のオランダ人、そして黒船来航時代にはイギリス、フランス、アメリカという白人達が極東の島国を狙って次々とやってきたのです。

武士が台頭してきた鎌倉時代からの日本人は、相当な戦闘民族であり、武士から農民に至るまで血気盛んな民族だった為、1度は白人達も侵略を諦めたかに見えました。しかし、徳川が天下統一を果たして以来、264年もの長い間戦の無い世になったおかげで、次第に武士達も平和ボケをしていったのです。
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そのような状況の中で、突如開国を迫って表れたペリー提督率いる黒船襲来は、日本人を震撼させ、開国か?それとも戦うのかという国を二分する争いが始まりました。それが明治維新です。

当初、頑なに尊皇攘夷(そんのうじょうい:天皇に主権を渡して外国人と戦う)を唱えていた長州藩士や、薩摩藩士でしたが、実際イギリスやフランスなど列強四国との戦いで惨敗した後から、開国したのち西洋文化を学び、富国強兵で欧米列強に立ち向かおうと主旨替えしたのです。

この思想や明治維新の背景を知らなければ、日本が何故世界に進出していき、否応なしに世界の動乱に巻き込まれいったのかの過程を理解することは出来ません。更に世界中で起こる革命や戦争、そして日本の明治維新に至るまで、常に背後で戦を煽るのは、共産主義思想の生みの親であり、金融を牛耳っていた偽ユダヤ人(白人)の暗躍があるのです。では、終戦を巡る宮城事件は、一体何故起きてしまったのでしょうか?ここでは、宮城事件の概要を紹介していきます。

第二次世界大戦後期、日本の敗戦が濃厚となっていた

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本来のユダヤ人とは、有色人種であり中東系の人種ですが、現在のユダヤ人は何故か白人であり、母親がユダヤ教徒であればユダヤ人という屁理屈を捏ねています。何れにせよ、彼らは常に迫害され、国を追放されている為に自分達の国というものがありません。

しかし、古代エジプト時代に羊皮紙(ようひし:パピルス)に書き残されたエジプト文書では、このユダヤ人達を「河の向こうからやってきた人殺し賊」と呼んでいたことが判明しています。彼らの歴史は人種差別などではなく、至る所に入り込んでは権力者の弱みを握り、操ることでその国や宗教、文化を破壊していく為に、それが彼らの仕業だとバレた瞬間に追放されているだけのことなのです。

その為、追放されたユダヤ人達は、世界中に至る所に点在することになるのですが、彼らの最終計画は、資本主義同士を争わせ壁壁させた上で、世界同時共産主義革命を起こし、ユダヤ教の聖地であるイスラエルの地を手に入れることでした。
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実はこのユダヤ人の壮大な茶番劇の為に、第一次・第二次世界大戦は引き起こされ、世界中の国々や民族は巻き込まれてしまったのです。

1995年(平成7年)7月に発表されたヴェノナ文書は、1943年(昭和18年)~1980年(昭和55年)までの37年間に亘る、アメリカ内部に存在したソ連スパイとの暗号文を解析しまとめたものですが、これにより第二次世界大戦中も、多くの共産主義思想のコミンテルン(スパイ)が暗躍していたことが判明しました。日本にも相当数のコミンテルンが入り込んでおり、今現在も暗躍し続けています。

彼らが戦後、教育界やマスコミにバラまかれたことで、日本軍が暴走して侵略戦争を仕掛けたなどとのたまいますが、真実としては巻き込まれていただけに過ぎません。しかし、日本は開国してからまだ100年にも満たない小国であり、植民地化を防ぐ為に富国強兵したものの軍備や資金、そして資源や人口なども大国には勝てず、戦況が長引くに連れて敗戦が濃厚となっていくのです。

ポツダム宣言を受け入れる側と、受けれない側に別れる

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ポツダム宣言とは、イギリス首相チャーチルと、アメリカ大統領トルーマン、中華民国主席(現台湾)蔣介石(しょうかいせき)の署名からなる、日本への最終降伏要求を告げる文書です。

1945年(昭和20年)7月26日(木)に出されたポツダム宣言は、すぐに日本政府にも通告されましたが、当初日本政府は日ソ中立条約を結んでいたソ連に仲介役を頼み、和平交渉を進めようと画策していました。その為、もう少し交渉の余地があると無反応を決め込みます。

しかし、ソ連やアメリカで暗躍していたコミンテルン達もまた、日本を徹底的に叩きのめすべく、降伏をすぐに受け入れてしまわないよう工作をしていました。終戦について日本政府が模索中、アメリカは広島、長崎に原爆を投下し、日本が頼みの綱としていたソ連は、中立条約を一方的に破棄した上で、満州、樺太など日本領への攻撃を開始したのです。これを受け、日本政府や昭和天皇は、無条件降伏を受け入れるしか無いと終結を急ぐことになるのですが、「全日本軍の無条件降伏」という項目を受け入れられない軍部は、ポツダム宣言受け入れを拒否し徹底抗戦を訴えました。

終戦を受け入れられなかった青年将校達がクーデターを画策

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当初、開かれていた最高戦争指導会議では、ポツダム宣言受け入れの条件などで意見が分かれてしまった為、当時の首相鈴木貫太郎は、やむを得ず昭和天皇の意見を仰ぐことにしました。

1945年(昭和20年)8月10日(金)、昭和天皇も臨席した御前会議が開かれ、ようやくポツダム宣言受諾が決定したのです。これを受け、陸軍省では一部の青年将校達が降伏に猛反発し、終戦を阻止する為のクーデターを画策します。

外地では、陸海空の日本兵が多く戦死していますが、内地(本州)には本土決戦用に控えていた、陸軍の230万人がこの時まだ残されていました。兵力が無いならともかく、これだけの兵を温存していながら、戦わずして日本を明け渡すということは、軍人として到底納得出来るものでは無いでしょう。

青年将校達は主要人物を説得するも叶わず

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ポツダム宣言受諾が決定したとは言っても、御前会議に参加していた陸軍大臣である阿南惟幾(あなみこれちか)は、最後まで徹底抗戦を訴えていた為、青年将校達は上層部を説得し、終戦阻止に動き始めました。

青年将校達はまず、阿南にクーデターの計画を訴え、共に戦いましょうと賛同を求めますが、阿南はその時、同じく御前会議で受諾拒否を訴えていた梅津参謀総長にも相談すると、うまくその場を宥め返答を伸ばしています。

阿南や梅津は最終的にクーデター反対派となり、焦った青年将校達は味方を増やそうと、各部署に説得に回りますが上手く行きませんでした。

日本の降伏を阻止しようと1枚のレコードを探す

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青年将校達の当初の予定では、鈴木貫太郎首相を始めとする政府の要人を捉え、国体護持(天皇陛下を中心とした日本国の秩序)の確約が取れるまで、徹底抗戦を続けることが目的でした。

しかし、主要人物の説得に当たっている間に、終戦を告げる「玉音放送」のレコードが完成してしまった為、青年将校達の目的はこのレコードを奪うことに変更されるのです。

青年将校達は、近衛師団と共に宮城(きゅうじょう:皇居)を占拠し、レコードを必死で探し始めました。

レコードは見つからず、日本は当初の予定通り降伏表明を行った

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