2019年9月2日 更新

綾瀬コンクリート事件の全貌!犯人達の生い立ちや現在の様子も

未成年が犯人だった事件として知られる、綾瀬コンクリート殺人事件。この事件は、少年法で守られた少年のほとんどが再犯となり再び捕まります。この記事では、綾瀬コンクリート殺人事件の詳細と再犯や現在の様子、また噂されている飯島愛の真相についてもご紹介していきましょう。

目次

「火のない所に煙は立たぬ」という思い込みから、噂になっただけで何かしらの事実が存在すると結論付ける人は、今も昔も多数存在しています。この噂がたった背景には、少年法が関係していました。

綾瀬コンクリート事件では、加害者が少年だったことから、実名報道や関連情報は限りなく制限され報道されていたのです。そのため、報道された少ない情報から、一般人は憶測を飛躍させていきます。

地区や学校を特定したり、憶測という不確かな事柄から、さらに憶測を広げ、それらを本当かのように風潮したのが、ことの発端です。綾瀬コンクリート事件には、監禁場所の母親以外、女性の関係は確認されていません。
Break Business People - Free photo on Pixabay (600061)

仮に、以前交際していた相手が犯罪を犯したとしても、それは飯島愛本人に直接関係のないことです。「そういった人物と付き合っていたことが悪い」「素行不良だったことが悪い」と批判する人々もいますが、この事件とそれらは全く関係なく、論点のすり替えと言えるでしょう。

現代でも、行き過ぎた正義感によって、傷つけられる人が存在しています。この噂も、それぞれの好奇心を正義に置き換え、行動してしまった結果と言えるのです。一般人という無力を装い、間違った情報を広めてしまう行為が、どれほど愚かで、狂気的な行いなのか一人一人考える必要があるでしょう。

宮野裕史(横山裕史)の生い立ちと現在

Father And Son Walking Love - Free photo on Pixabay (589890)

綾瀬コンクリート事件の裁判に限らず、裁判ではたびたび加害者の生い立ちについて、語られる場面があります。犯罪行為に養育環境、生い立ちが深く関係していると考えられているからです。

綾瀬コンクリート事件でも、弁護側はしきりに加害者少年の生い立ちを紹介し、情状酌量の必要があると訴えました。綾瀬コンクリート事件の加害者少年のそれぞれの生い立ちは、犯罪行為への罰則を配慮するほど悲惨なものだったのでしょうか。

ここからは、加害者少年それぞれの生い立ちについて、ご紹介していきます。

両親と当時11歳の妹の4人暮らし

Girl Forest Road Little - Free photo on Pixabay (589888)

綾瀬コンクリート事件の主犯格と言われた宮野裕史は、1970年4月30日、東京都葛飾区に誕生しました。宮野裕史の両親は共働きをしており、忙しさのあまり宮野裕史を頻繁に構うことができなかったようです。

そのため、宮野裕史は孤独感を抱いていました。また、父親に代わり母親が生計を立てていた部分があり、しつけに関しても非常に厳しい面があったようです。宮野裕史の暴力的要素は、親の厳しすぎるしつけにも関係していると言われました。

妹にのみ愛情を注ぐ両親に嫌気がさしていた

Girl Father Portrait - Free photo on Pixabay (589892)

宮野裕史に大きな孤独感を与えたもう一つの理由は、妹の存在だったといいます。宮野裕史には、妹が1人いました。両親は、仕事の忙しさによって、宮野裕史をそれほどかまわなかったにも関わらず、妹には大きな愛情を注いだということです。

これは、宮野裕史の主観であったため、本当に妹のみに大きな愛情を注いでいたのか不明ですが、宮野裕史本人は自身は両親に「愛されていない」と感じていました。この愛情不足を埋めるように、小学生時代から宮野裕史の問題行動が目立つようになります。

中学時代は柔道で活躍

Runners Silhouettes Athletes - Free photo on Pixabay (589896)

宮野裕史は、中学校に進学すると、周囲の勧めから柔道部に入部しました。中学に通っていた3年間は、非常に熱心に柔道に打ち込んでいたようです。中学3年間の努力が評価され、高校に推薦で入学します。

しかし、高校の柔道部では、先輩や顧問から度重なる体罰を受けることになりました。体罰は非常に激しく、宮野裕史の父親が裁判所へ訴えるほどだったと言われています。こういった体罰に耐えられなくなっていった宮野裕史は、柔道への熱も冷め、次第に街中で喧嘩に明け暮れるようになっていきました。

男子高校生を中退

Classroom School Education - Free photo on Pixabay (589903)

部活に通うことも少なくなり、街中で喧嘩をするようになった頃から、家庭でも暴力行為が見られるようになります。母親にたいして暴力をふるい、骨折させるほどの大けがを負わせることもありました。また、自宅内の物を破壊するなど、暴力行為は日に日に増していきます。

しかし、宮野裕史は高校を中退し、中学から付き合いのあった女性と同棲生活を始めました。この女性は、綾瀬コンクリート事件の加害者である渡邊泰史の姉です。

暴力団員と知り合う

Gangster Man Mafia - Free photo on Pixabay (589905)

当時交際していた女性と暮らし続けるため、タイル工として働き始めます。この時のタイル工という仕事を悪用し、犯行に使用した砂利やセメントを調達しました。

タイル工として懸命に働き、1年ほどたったころ、暴力団関係者と知り合います。暴力団関係者との交際は続き、関係者が経営する店を手伝うなど、さらに関係を深めていきました。

この暴力団との関係によって、暴力行為が当たり前という認識を持つようになり、力によって他者を支配する考え方が定着していったとも言われています。

綾瀬コンクリート事件の主犯格

Penitentiary Jail Police - Free photo on Pixabay (589911)

暴力団関係者と交流を続けるものの、宮野裕史は同棲中の女性との結婚も、真剣に考えていました。しかし、その矢先綾瀬コンクリート事件を引き起こしてしまうのです。

宮野裕史は、綾瀬コンクリート事件の前にも、同様の手口で女性を強姦していました。殺害や監禁はしなかったものの、暴力団の名前を使って脅したり、暴力行為で脅すなどし、自身の欲望を満たしています。

襲った女性にたいし、口外を禁じていたことから、善悪の判断はできていたものの、バレなければ何をしても許されると考えていたといえるでしょう。

両親ともに仕事を辞職

People Man Guy - Free photo on Pixabay (589914)

綾瀬コンクリート事件の発覚により、宮野裕史の両親はどちらも仕事を辞職します。犯行当時父親は、証券外務員をし、母親はピアノ教室の講師をしていました。

当時、加害者少年の実名報道は控えられていましたが、近隣では特定されていたものと考えられます。また、宮野裕史の両親は自宅を売却し被害者遺族にたいして、慰謝料約5,000万円を支払いました。

しかし、これらの行動は、支払いに関する領収書が裁判で提出されたことによって、刑を減軽させる目的があったと批判を集めます。

懲役20年の判決が下り2009年に出所

Hands Handcuffs Tied Up - Free photo on Pixabay (589915)

宮野裕史には、懲役20年の判決が下り17年間服役したのち、2009年に出所します。出所後、養子縁組を行い宮野裕史という名前から横山裕史という名前に変わりました。

出所後や服役中に養子縁組を行い、名前を変える犯罪者は少なくありません。実名報道がされていた場合、その後の生活や就職が難しく、支援団体職員が養子縁組を行う場合もあるのです。綾瀬コンクリート事件では、小倉譲も養子縁組によって、氏名を変更しています。

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