2019年9月4日 更新

北九州監禁事件の詳細!残忍な犯行手口や松永の生い立ちとは

多くの人々の心を操り、首謀者でありながら自分の手を一切汚さず命を奪っていった松永。北九州監禁事件は、信頼し合った家族内で殺し合った特殊事件なのです。この記事では、北九州監禁事件の詳細と、松永太の生い立ちやその後の様子について詳しくご紹介していきましょう。

目次

松永太は、自身の手を汚さず殺人を繰り返し、自らは多くの女性と性的関係を持ち、自由な生活を続けるという鬼畜な犯罪行為を行いました。実際、緒方純子の母親や妹、虎谷久美雄の娘や幼女にも手を出していたようです。

なぜ、こういった鬼畜な人格が形成されたのでしょうか。ここからは、松永太の生い立ちについてご紹介していきます。性行為に執着したり、他者を翻弄する話術をいつ身に着けたのか探ってみましょう。

1961年生まれ

Baby Mother Infant - Free photo on Pixabay (605605)

松永太は、1961年4月28日に北九州市倉北区で誕生しました。1人姉がおり、4人家族で生活していきます。松永太が7歳になった頃、父方の実父が経営していた布団販売業を継ぐため、福岡県市へ引っ越ししました。

のちに松永太は、この布団販売業を使用し、詐欺行為を働くことになります。経済的に裕福な家庭であり、母親や祖母に甘やかされて育ちました。この時から、女性は自身に尽くすものという価値観が形成されたと考えられます。

頭が良く小学校時代は学級委員長を務めていた

Knowledge Book Library - Free photo on Pixabay (605607)

松永太は幼少期から非常に頭が良く、小学校時代はほとんどの教科で、最高評価「5」を取っていました。普段からそれほど勉強していたわけでもなかったため、両親や祖母から高く評価されたと考えられます。

また、小学校時代は学級委員長や生徒会役員などを務めました。当時から、人前に出ることや、複数人に指示することが得意だったと考察できます。中学時代は、バレー部のキャプテンを務めていたことから、ある程度の運動能力もあったようです。

中学時代は弁論大会で優勝

One Against All - Free photo on Pixabay (605611)

中学校時代は、校内で開かれた弁論大会に参加します。そこで、中学1年生でありながら、3年生を退け優勝しました。人前に出ることも、他者に訴えることも非常に得意だったのでしょう。

バレー部のキャプテンを務めたり、1年生ながら弁論大会で優勝するなど、粗暴な一面は一切見られませんでした。むしろ、一般生徒の手本となるような、優れた生徒の見本のような学校生活を送ります。しかし、当時から教師の評判は良くありませんでした。

教師からの評判は悪かった

Eyes Green Child - Free photo on Pixabay (605612)

暴力行為などなく、部活や勉学に励んでいたように見えた松永太でしたが、教師からの評判は非常に悪かったといいます。その理由は、松永太の虚言癖です。松永太は、中学生時代から、虚言癖が目立つようになりました。

何もなかった事柄を、さもあったかのように吹聴し、自らに都合がいいように周囲を振り回していたようです。この特徴は、北九州監禁事件で見られたものと同じでしょう。教師たちは、そういった松永太の姿を見逃さず、当時から警戒していました。

緒方純子と同じ高校に進学

Pencil Sharpener Notebook - Free photo on Pixabay (605613)

松永太には激しい虚言癖があったものの、目だったトラブルを引き起こすことなく、中学校を卒業します。中学校卒業後、のちに一緒になって北九州監禁事件を引き起こす、緒方純子と同じ高校に進学しました。

当時、緒方純子とほとんど接点はありません。高校時代、風紀委員長を務めるも、そこで不純異性交遊が発覚します。家出少女を自宅に入れ、性行為を行ったことが発覚したのです。これらの発覚により、松永太は男子高校に転入させられました。

高校卒業後お菓子店に就職

Macaroons Cookies Cakes - Free photo on Pixabay (605614)

緒方純子と同じ福岡県立三潴高校を退学になったのち、私立筑邦高校という男子高校へ編入し、その後無事卒業しました。編入先の高校では、特に目立ったトラブルはありません。

高校を無事卒業後、松永太はお菓子店に就職しました。しかし、お菓子店は長くは続かず、すぐに父親が経営していた布団販売業に転職します。当時から、お金に執着心を持っていたのか、この布団販売業を使い詐欺まがいな商売を始めることとなりました。

松永太の事件までの人生

Man Portrait Gloomy - Free photo on Pixabay (605616)

松永太の学生時代は、激しい虚言癖が見られたものの一定の成績と、積極的な学校活動を行っていたため、のちに北九州監禁事件を引き起こすと予想できる事柄はありませんでした。共犯者となる緒方純子との接点は見られたものの、学生時代の親交はありません。

それでは、社会人となってから松永太の人格が大きく変わっていったのでしょうか。ここからは、北九州監禁事件を引き起こすまでの、松永太の社会人時代を紹介していきましょう。

1980年19歳で結婚

Marriage Celebration People - Free photo on Pixabay (605617)

高校を卒業した松永は、菓子店を辞め布団販売店勤めとなります。松永太の仕事の様子について周囲は、「不真面目」「何もしていない様子に見えた」と語っていました。

仕事を不真面目に行っていた松永太は、1980年19歳という若さで結婚します。松永太の一目惚れで、猛アプローチした「じゅんこ」という女性でした。結婚を機に、真面目に仕事に打ち込むと思われた松永でしたが、結婚後も大きな変化は見られません。

また、結婚当初から頻繁に複数の女性と不倫関係を持っていたと言われています。

1981年長男が誕生する

Pregnant Woman Pregnancy Baby - Free photo on Pixabay (605619)

1981年、「じゅんこ」と松永太の間に、長男が誕生します。松永太の浮気は、結婚直後も妻が妊娠中も続きました。当初は、浮気を止めて欲しいと訴えていた妻でしたが、何ら変化の見られない松永太に呆れ、その後何も言わなくなります。

1981年5月、父親が経営していた会社を引き継ぎ、ある程度の収入を得ていたと考えられますが、当時から借金を繰り返し、借金取りに追われていたという証言もありました。虚言癖があり、プライドが高かったため、相当の浪費家だったと考察できます。

有限会社を設立

Conference Room Table Office - Free photo on Pixabay (605623)

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