2019年9月4日 更新

北九州監禁事件の詳細!残忍な犯行手口や松永の生い立ちとは

多くの人々の心を操り、首謀者でありながら自分の手を一切汚さず命を奪っていった松永。北九州監禁事件は、信頼し合った家族内で殺し合った特殊事件なのです。この記事では、北九州監禁事件の詳細と、松永太の生い立ちやその後の様子について詳しくご紹介していきましょう。

目次

2005年3月2日、論告求刑公判が開かれました。求刑を主張し、刑を言い渡す公判です。論告の場で検察側は、松永太と緒方純子の犯罪行為の非道さを訴え、双方に死刑を求刑しました。

緒方純子は心身への暴力行為によって、松永太に従わざるを得ない状況だったことも考慮されましたが、逃げだす場面が多々あったことや、虎谷久美雄の娘への積極的な暴力加担によって、死刑が求刑されます。2005年4月27日、緒方純子の弁護士は、配慮の余地があるとし死刑回避を求めました。

2005年9月双方に死刑判決が下る

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2005年9月28日、一審裁判では、松永太及び緒方純子に死刑判決が下ります。一貫して無罪を主張していた松永太でしたが、主張内容に矛盾が見られたことや、緒方純子と虎谷久美雄の娘の主張が一致していたことなどから、信憑性がないと判断され、7人を死に至らしめたと判断されました。

また、松永太は北九州監禁事件の首謀者と判断され、情状の余地は全くないと断罪されます。北九州監禁事件は多くの注目を集め、芸人の千原ジュニアが裁判を傍聴したことでも知られています。

緒方純子と松永太どちらも控訴

Stop Fear Violence Against - Free photo on Pixabay (605665)

松永太は、判決が下された同日、不服とし控訴しました。緒方純子は当初、刑を受け入れるつもりでしたが、弁護士やその他の支援団体に説得され、支配構造や事件の真相を主張するべく控訴に踏み切ります。

緒方純子を支援していた団体は、「家庭内暴力の被害者を救う会」などです。他にも、死刑制度の反対を訴える団体から支援されていたとも言われています。2007年9月26日、福岡高等裁判所では、一審の死刑判決を支持し、松永太の控訴を棄却しました。

一方、緒方純子に関する判決では、元警察官であった妹の夫が従った事案を紹介し、暴力行為が激しく従わざるを得ない過激な現状だったとし、無期懲役判決となります。この無期懲役判決を不服とし、福岡高等検察庁は最高裁に上告しました。

2011年12月松永の死刑確定

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松永太側は、最高裁でも松永太が一連の犯行に関与していないという主張を繰り返します。松永太自身は、マスコミ関係者と積極的に接触し、自身への判決や拘束が不当であるという主張を繰り返しました。松永太に接触したマスコミ関係者は、接触を重ねる度、自身が松永太に取り込まれる感覚を覚えたと語っています。

2011年12月12日、最高裁判所は、一審及び二審の判決を支持し、松永太の上告を棄却しました。これにより、松永太の死刑判決が確定します。

緒方純子は無期懲役確定

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (605668)

松永太の死刑判決が確定した同日、緒方純子の無期懲役も確定します。最高裁判所裁判官の5人中4人は、緒方純子の置かれた状況に情状酌量の余地があると判断し、二審の無期懲役を支持し、多数決により判決が確定しました。

一方、5人中1人だけ無期懲役に反対した裁判官は、抵抗する言葉も力も持っていなかった緒方純子の姪10歳や甥5歳を手にかけた行いは、全ての事情を踏まえたうえでも、酌量の余地はないと発言し話題となります。

つまり、緒方純子がどれほど辛い立場だったとしても、幼い2人の子供に手をかけた犯罪行為は、凶悪で極刑に値するということです。

事件への周囲の意見

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多くの人々を監禁し、多くの死者を出した北九州監禁事件。北九州監禁事件では、未成熟な子供だけではなく、成人し判断能力を持った大人まで監禁され続けました。

この事件に限らず、監禁事件を知った一般人は、同じような疑問を抱きます。ここからは、一般人が北九州監禁事件にたいして抱いた疑問、意見についてご紹介していきましょう。一般人の多くが抱くこれらの感情を読み解くことで、監禁事件が長期化する理由と、頻繁に起こる理由を知ることができます。

学校に通っていた少女はもっと早く通報できたはず

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監禁されのちに殺害された、不動産業の虎谷久美雄には娘がおり、その娘は学校にも通っていました。そのため、もっと早く少女は通報できたはずと発信する人々がいます。少女は、学校に通っていたものの年間約180日程度欠席していたため、真っ当な学校生活を送っていたわけではありません。

また、父親が殺害されていたことから、大きな恐怖を持っていたことは容易に想像できます。監禁場所には、自分の他にも監禁されている人がおり、自分の行いでその人々が殺されてしまう恐怖も感じていたことでしょう。

もっと早く通報していれば、と一番後悔しているのは少女自身であり、恐怖に支配されていた少女にあの時以上の行動を望むのは非常に酷だと言えます。

多くの大人が関わっていたのだから止められたはず

Office Business Accountant - Free photo on Pixabay (605674)

監禁事件では、「なぜ通報しなかったのか」「なぜ逃げださなかったのか」等の疑問が多数寄せられます。つまり、監禁されたことがない人々は、監禁場所から自分なら逃げ出せると考えているということです。北九州監禁事件では、それぞれの部屋に無数の南京錠が設置されていました。

それらが例えなかったとしても、日常的な暴力、殺人行為、自尊心をはく奪されるなどした人間は、「逃げる」という行為を行うことができません。もちろん、その日常生活を止めたり、変えようと行動することもできなくなるのです。

監禁事件が長期化し、発覚しづらいのは、被害者の意識を多くの人々が理解できないからでしょう。被害者の意識が理解できなければ、対策もたてられませんし、手助けをすることも難しいのです。

近隣住民や学校教師など誰も通報しなかったのが不思議

Cup Drink Girl - Free photo on Pixabay (605675)

監禁場所には、大人や子供が大勢生活していました。その中では、殺人や解体も行われていたため、変わった臭いもしていたでしょう。また、虎谷の娘が学校に通っていたことから、近隣住民や学校の教師は誰も通報しなかったのかという疑問を投げかける人もいます。

人は、赤の他人に不信感を抱いても、すぐに通報することができません。「間違っていたらどうしよう」「報復されたらどうしよう」と自分の身に降りかかるリスクを恐れてしまうからです。

これも、監禁が長期化する理由の一つでしょう。また、北九州監禁事件では、虎谷の娘が通っていた学校の教師が何度も家庭訪問を試みています。
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自分の手には負えないという判断もし、校長やその他関係者を巻き込んで対策にあたったとも言われているのです。しかし、松永太に「家庭内に首を突っ込むな」と強く拒絶され、決定的な証拠もなかったことから打つ手がない状態でした。

事件が発覚すると、事件現場の近隣住民や取り巻く人々に対し、何かできなかったのかと疑問を提示する人々がいます。しかし現代は、一つでもミスをしてしまうと過剰に批判され、社会的に抹殺されたり、それに等しい立場に追いやられてしまうのです。

自分の立場や生活を顧みず、他者を助けようと行動できる人がどれだけいるでしょうか。そういった事情や、社会背景を無視し自分たちの意見を主張するだけでは、監禁を始めあらゆる犯罪を減らすことは難しいでしょう。

北九州監禁事件を生き延びた人々の現在

Boys Playing Friends Children - Free photo on Pixabay (605678)

北九州監禁事件では、親を殺されたものの生き延びた人々が存在します。首謀者たちにそれぞれの判決が下り、世間では終わった事件として片付けられてしまいました。しかし、残された被害者たちの苦しみは、生きている限り続きます。

ここからは、北九州監禁事件で生き延びた人々の現在と、事件の後の被害についてご紹介していきましょう。

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