目次
- 漫画の題材にもなった北九州監禁事件
- 北九州監禁事件の詳細
- 1992年松永と緒方は指名手配され逃亡
- 金に困り結婚詐欺を実行
- 結婚詐欺のターゲットとされた女性は自殺
- 1993年住居を探す際虎谷久美雄と出会う
- 虎谷は松永と親しくなるうちに生活がすさんでいく
- 一人娘を松永に預ける
- 松永は弱みを握られ松永の奴隷となる
- 1996年虎谷死亡
- 娘に父親を殺したと思い込ませ奴隷化する
- 虎谷の遺体を娘と緒方に命じる
- 緒方一家を使い緒方純子を再度拘束
- 緒方純子への激しい虐待が始まる
- 松永の嘘を信じた緒方一家は松永の奴隷となっていく
- 1997年12月純子の父親が死亡
- 1998年1月純子の母親が死亡
- 1998年2月純子の妹が死亡
- 1998年4月純子の妹の夫が死亡
- 1998年5月純子の甥が死亡
- 1998年6月純子の姪が死亡
- 2002年北九州市小倉北区で17歳少女が一室から逃げだした
- 少女に助けを求められた祖父母は門司警察署へ
- 当初監禁致傷と考えられたが連続殺人事件だった
- 残忍な犯行手口
- 預かった少女に父親から性的虐待を受けたという嘘の証言をさせる
- 通電
- 文書
- 常に蹲踞の姿勢をとらせる
- 衣服の制限
- 体育座りで眠らせる
- 食事は1日に2回
- シャワーは水
- 大便を食べさせられる
- 娘に父親を虐待させた
- 遺体処理
- 嘘を吹き込み家族同士で争わせた
- 松永は手を下さず殺害するように仕向けた
- 松永太と緒方純子の出会い
- 松永太の生い立ち
- 1961年生まれ
- 頭が良く小学校時代は学級委員長を務めていた
- 中学時代は弁論大会で優勝
- 教師からの評判は悪かった
- 緒方純子と同じ高校に進学
- 高校卒業後お菓子店に就職
- 松永太の事件までの人生
- 1980年19歳で結婚
- 1981年長男が誕生する
- 有限会社を設立
- 複数の女性と不倫関係を持つ
- 緒方純子も不倫相手の1人
- 1985年自社ビルを設立
- 1992年指名手配
- 前妻と離婚
- 1993年緒方純子との間に子どもを授かる
- 1996年緒方純子との間に次男を授かる
- 松永太が演じたエリートたち
- 東大卒のコンピューター技師
- 京大卒の予備校講師
- 実家は村上水軍の当主
- 兄弟は東大卒の医者
- 北九州監禁事件の裁判と判決
- 2002年6月監禁致傷罪で公判が開かれる
- その後殺人容疑等で再逮捕が相次いだ
- 2003年5月殺人罪で審理が再開される
- 裁判迅速化法に基づき異例の早さで裁判が行われた
- 緒方純子と松永太の主張が食い違った
- 松永太は様々な言い訳を主張した
- 2005年3月検察側は双方に死刑を求刑
- 2005年9月双方に死刑判決が下る
- 緒方純子と松永太どちらも控訴
- 2011年12月松永の死刑確定
- 緒方純子は無期懲役確定
- 事件への周囲の意見
- 学校に通っていた少女はもっと早く通報できたはず
- 多くの大人が関わっていたのだから止められたはず
- 近隣住民や学校教師など誰も通報しなかったのが不思議
- 北九州監禁事件を生き延びた人々の現在
- 虎谷の娘
- 緒方純子の長男
- 緒方純子の次男
- 松永太の長男
- 北九州監禁事件のその後
- 漫画の題材となる
- 関連書籍が発売される
- 緒方純子の息子がメディアの取材を受ける
- 北九州監禁事件の首謀者松永には未だに反省が見られない
東京大学卒業という肩書を、頻繁に使用していた松永太ですが、騙す相手によってこの肩書きを変えることもありました。騙す相手に東京大学関連者が居ると察知した場合、別の肩書を使ったのです。それが、京都大学卒業生という肩書になります。
京都大学は、東京大学と並び、日本トップレベルの難易度と歴史を持つ大学です。関西方面の人々を信頼させる際にも、この肩書きが使用されました。肩書として使用する職業は頻繁に変えていたものの、学歴のほとんどは、京都大学もしくは東京大学と名乗っています。
京都大学は、東京大学と並び、日本トップレベルの難易度と歴史を持つ大学です。関西方面の人々を信頼させる際にも、この肩書きが使用されました。肩書として使用する職業は頻繁に変えていたものの、学歴のほとんどは、京都大学もしくは東京大学と名乗っています。
実家は村上水軍の当主
via pixabay.com
松永太は、他者を信頼させ多額の金銭を巻き上げていきます。どれほど信頼している相手であっても、人は金の貸し借りがチラつくと警戒心を持ってしまうものです。しかし松永太は、その警戒心を取り払う技も持っていました。
それが、将来への期待です。実家が格式高い名家であった場合、財力はもちろん逃げられる恐れもないと考え、人は金の無心に応じてしまいやすくなります。松永太は、こうした心理を活用するため、実家が村上水軍の当主という肩書も使用しました。
村上水軍とは、室町時代や戦国時代から、瀬戸内のほぼ全域の海を支配し、現在はその末裔の人々をさします。
それが、将来への期待です。実家が格式高い名家であった場合、財力はもちろん逃げられる恐れもないと考え、人は金の無心に応じてしまいやすくなります。松永太は、こうした心理を活用するため、実家が村上水軍の当主という肩書も使用しました。
村上水軍とは、室町時代や戦国時代から、瀬戸内のほぼ全域の海を支配し、現在はその末裔の人々をさします。
兄弟は東大卒の医者
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騙す相手に、松永自身から返済されなくても、その身内から返ってくるという安心感を与えるために、兄弟の肩書を使う場合もありました。
こういった場面で使用されたのももちろん「東大卒」という肩書ですし、兄弟を活用する場合は、明確に裕福という印象を与えるため、「医者」「弁護士」などの職業も活用します。
もちろんこれらの肩書は全くのでたらめであり、そもそも松永太には兄弟も存在しません。人の心を支配し、意のままに操るためだけに、松永太は息を吐くように嘘をつき続けました。
こういった場面で使用されたのももちろん「東大卒」という肩書ですし、兄弟を活用する場合は、明確に裕福という印象を与えるため、「医者」「弁護士」などの職業も活用します。
もちろんこれらの肩書は全くのでたらめであり、そもそも松永太には兄弟も存在しません。人の心を支配し、意のままに操るためだけに、松永太は息を吐くように嘘をつき続けました。
北九州監禁事件の裁判と判決
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虎谷久美雄の娘が逃走し、その証言をもとに松永太と緒方純子が逮捕されます。当初、監禁致傷事件だと思われていましたが、捜査が進むにつれ、容疑を殺人に切り替え裁判が行われました。
しかし、裁判になっても松永太に反省の色は見られません。これまで活用してきた話術を使い、あらゆる言い訳を並び立て極刑を回避しようと試みたのです。ここからは、北九州監禁事件の裁判と、松永太や緒方純子に下された判決について、ご紹介してきましょう。
しかし、裁判になっても松永太に反省の色は見られません。これまで活用してきた話術を使い、あらゆる言い訳を並び立て極刑を回避しようと試みたのです。ここからは、北九州監禁事件の裁判と、松永太や緒方純子に下された判決について、ご紹介してきましょう。
2002年6月監禁致傷罪で公判が開かれる
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2002年6月、松永太と緒方純子の第一審刑事裁判が、福岡地方裁判所で行われました。容疑は、逃げだした虎谷久美雄の娘に行った監禁及び致傷罪の罪です。2002年3月に逮捕され、そこからまだ日が浅かったことから、監禁致傷事件として裁判が開かれました。
保護された虎谷久美雄の娘は、殺人を主張していましたが、逮捕された松永太と緒方純子は完全黙秘し、物的証拠も乏しかったことから、監禁殺人の容疑で裁判を開くことができなかったのです。
保護された虎谷久美雄の娘は、殺人を主張していましたが、逮捕された松永太と緒方純子は完全黙秘し、物的証拠も乏しかったことから、監禁殺人の容疑で裁判を開くことができなかったのです。
その後殺人容疑等で再逮捕が相次いだ
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松永太と緒方純子の弁護士は、虎谷久美雄の娘に虚言癖があるとし、監禁及び致傷容疑全てを否認しました。さらに、虎谷久美雄の娘の証言にのみ基づいて捜査した、警察の対応も批判します。
しかし、虎谷久美雄の娘の証言をもとに地道な捜査を続けた警察は、殺人容疑で松永太と緒方純子を再逮捕することができました。遺体は細かく処理されていたため、排水溝を掘り起こすなど、大掛かりな捜査を行い着実に証拠を積み上げていったのです。
しかし、虎谷久美雄の娘の証言をもとに地道な捜査を続けた警察は、殺人容疑で松永太と緒方純子を再逮捕することができました。遺体は細かく処理されていたため、排水溝を掘り起こすなど、大掛かりな捜査を行い着実に証拠を積み上げていったのです。
2003年5月殺人罪で審理が再開される
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警察は地道な捜査によって、少ない肉片を発見できたものの、遺体から殺害方法をわりだすことはできませんでした。松永太は、殺害の度、殺害現場の解体や清掃、タイルの張替えなどを命じていたのです。そのため、虎谷久美雄の娘やその他の関係者の証言から、状況証拠を積み上げ、殺人罪で2人を起訴します。
証言者は、殺人が行われていたマンションの近隣住民などです。「深夜にのこぎりの音がした」「異臭がひどかった」「レバーを煮たような酷い臭いだった」など、これらの小さな証言を組み合わせ、起訴にこぎつけました。
証言者は、殺人が行われていたマンションの近隣住民などです。「深夜にのこぎりの音がした」「異臭がひどかった」「レバーを煮たような酷い臭いだった」など、これらの小さな証言を組み合わせ、起訴にこぎつけました。
裁判迅速化法に基づき異例の早さで裁判が行われた
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北九州監禁事件では、裁判迅速化法に基づき、異例の速さで裁判が行われていきました。裁判迅速化法とは、最終起訴から2年以内に一審判決を言い渡すことを目指すという法律です。北九州監禁事件の最終起訴は2003年6月だったため、2005年までに一審判決を下すため、週1回のペースで裁判が行われました。
最終的に2005年1月26日まで、72回の公判が開かれ、判決が下されることとなります。こういった事態にたいし、松永太は、不当だという主張を繰り返しました。
最終的に2005年1月26日まで、72回の公判が開かれ、判決が下されることとなります。こういった事態にたいし、松永太は、不当だという主張を繰り返しました。
緒方純子と松永太の主張が食い違った
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事態が大きく動いたのは、黙秘していた緒方純子の証言が出たからです。緒方純子は逮捕直後、松永太と同じく黙秘を貫きましたが、しばらくすると「どんな罰も受け入れる」と発言し、北九州監禁事件の詳細を語り始めました。
自ら手を下した人物の名前をあげ、刑事責任を認めたのです。そして、それらの殺人行為は、松永太の指示であったことも自供します。しかし、松永太はこれにたいし、全てを否定し完全無罪を主張し続けました。この時、被害者に書かせた書面や、性行為の写真も証拠として提出されます。
自ら手を下した人物の名前をあげ、刑事責任を認めたのです。そして、それらの殺人行為は、松永太の指示であったことも自供します。しかし、松永太はこれにたいし、全てを否定し完全無罪を主張し続けました。この時、被害者に書かせた書面や、性行為の写真も証拠として提出されます。
松永太は様々な言い訳を主張した
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松永太は裁判で、様々な言い訳を主張しました。等事件は、緒方家や虎谷家の家族間問題であり、自身はそれに関与しないように努めていたといったものや、それぞれが「自ら殺した」という文書を活用し、証拠も残っていると主張したのです。
さらに、緒方純子の妹や母親との肉体関係について、相手から一方的に迫られたなどの主張も行います。家族間の問題に巻き込まれそうになった、自分は被害者だと主張を続けたのです。しかし、多くの死者を出した等事件で無傷だったこと、二転三転する主張から、信憑性がないと判断されます。
さらに、緒方純子の妹や母親との肉体関係について、相手から一方的に迫られたなどの主張も行います。家族間の問題に巻き込まれそうになった、自分は被害者だと主張を続けたのです。しかし、多くの死者を出した等事件で無傷だったこと、二転三転する主張から、信憑性がないと判断されます。
2005年3月検察側は双方に死刑を求刑
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