2019年9月4日 更新

北九州監禁事件の詳細!残忍な犯行手口や松永の生い立ちとは

多くの人々の心を操り、首謀者でありながら自分の手を一切汚さず命を奪っていった松永。北九州監禁事件は、信頼し合った家族内で殺し合った特殊事件なのです。この記事では、北九州監禁事件の詳細と、松永太の生い立ちやその後の様子について詳しくご紹介していきましょう。

目次

東京大学卒業という肩書を、頻繁に使用していた松永太ですが、騙す相手によってこの肩書きを変えることもありました。騙す相手に東京大学関連者が居ると察知した場合、別の肩書を使ったのです。それが、京都大学卒業生という肩書になります。

京都大学は、東京大学と並び、日本トップレベルの難易度と歴史を持つ大学です。関西方面の人々を信頼させる際にも、この肩書きが使用されました。肩書として使用する職業は頻繁に変えていたものの、学歴のほとんどは、京都大学もしくは東京大学と名乗っています。

実家は村上水軍の当主

Coins Banknotes Money - Free photo on Pixabay (605644)

松永太は、他者を信頼させ多額の金銭を巻き上げていきます。どれほど信頼している相手であっても、人は金の貸し借りがチラつくと警戒心を持ってしまうものです。しかし松永太は、その警戒心を取り払う技も持っていました。

それが、将来への期待です。実家が格式高い名家であった場合、財力はもちろん逃げられる恐れもないと考え、人は金の無心に応じてしまいやすくなります。松永太は、こうした心理を活用するため、実家が村上水軍の当主という肩書も使用しました。

村上水軍とは、室町時代や戦国時代から、瀬戸内のほぼ全域の海を支配し、現在はその末裔の人々をさします。

兄弟は東大卒の医者

X-Ray Of The Jaw Dentistry - Free photo on Pixabay (605645)

騙す相手に、松永自身から返済されなくても、その身内から返ってくるという安心感を与えるために、兄弟の肩書を使う場合もありました。

こういった場面で使用されたのももちろん「東大卒」という肩書ですし、兄弟を活用する場合は、明確に裕福という印象を与えるため、「医者」「弁護士」などの職業も活用します。

もちろんこれらの肩書は全くのでたらめであり、そもそも松永太には兄弟も存在しません。人の心を支配し、意のままに操るためだけに、松永太は息を吐くように嘘をつき続けました。

北九州監禁事件の裁判と判決

Justice Statue Lady Greek - Free photo on Pixabay (605648)

虎谷久美雄の娘が逃走し、その証言をもとに松永太と緒方純子が逮捕されます。当初、監禁致傷事件だと思われていましたが、捜査が進むにつれ、容疑を殺人に切り替え裁判が行われました。

しかし、裁判になっても松永太に反省の色は見られません。これまで活用してきた話術を使い、あらゆる言い訳を並び立て極刑を回避しようと試みたのです。ここからは、北九州監禁事件の裁判と、松永太や緒方純子に下された判決について、ご紹介してきましょう。

2002年6月監禁致傷罪で公判が開かれる

Hammer Horizontal Court - Free photo on Pixabay (605650)

2002年6月、松永太と緒方純子の第一審刑事裁判が、福岡地方裁判所で行われました。容疑は、逃げだした虎谷久美雄の娘に行った監禁及び致傷罪の罪です。2002年3月に逮捕され、そこからまだ日が浅かったことから、監禁致傷事件として裁判が開かれました。

保護された虎谷久美雄の娘は、殺人を主張していましたが、逮捕された松永太と緒方純子は完全黙秘し、物的証拠も乏しかったことから、監禁殺人の容疑で裁判を開くことができなかったのです。

その後殺人容疑等で再逮捕が相次いだ

Cuffs Police Arrest - Free vector graphic on Pixabay (605657)

松永太と緒方純子の弁護士は、虎谷久美雄の娘に虚言癖があるとし、監禁及び致傷容疑全てを否認しました。さらに、虎谷久美雄の娘の証言にのみ基づいて捜査した、警察の対応も批判します。

しかし、虎谷久美雄の娘の証言をもとに地道な捜査を続けた警察は、殺人容疑で松永太と緒方純子を再逮捕することができました。遺体は細かく処理されていたため、排水溝を掘り起こすなど、大掛かりな捜査を行い着実に証拠を積み上げていったのです。

2003年5月殺人罪で審理が再開される

Justice Right Case-Law - Free image on Pixabay (605651)

警察は地道な捜査によって、少ない肉片を発見できたものの、遺体から殺害方法をわりだすことはできませんでした。松永太は、殺害の度、殺害現場の解体や清掃、タイルの張替えなどを命じていたのです。そのため、虎谷久美雄の娘やその他の関係者の証言から、状況証拠を積み上げ、殺人罪で2人を起訴します。

証言者は、殺人が行われていたマンションの近隣住民などです。「深夜にのこぎりの音がした」「異臭がひどかった」「レバーを煮たような酷い臭いだった」など、これらの小さな証言を組み合わせ、起訴にこぎつけました。

裁判迅速化法に基づき異例の早さで裁判が行われた

Prison Fence Razor Ribbon Wire - Free photo on Pixabay (605658)

北九州監禁事件では、裁判迅速化法に基づき、異例の速さで裁判が行われていきました。裁判迅速化法とは、最終起訴から2年以内に一審判決を言い渡すことを目指すという法律です。北九州監禁事件の最終起訴は2003年6月だったため、2005年までに一審判決を下すため、週1回のペースで裁判が行われました。

最終的に2005年1月26日まで、72回の公判が開かれ、判決が下されることとなります。こういった事態にたいし、松永太は、不当だという主張を繰り返しました。

緒方純子と松永太の主張が食い違った

Arguing Female Male - Free vector graphic on Pixabay (605660)

事態が大きく動いたのは、黙秘していた緒方純子の証言が出たからです。緒方純子は逮捕直後、松永太と同じく黙秘を貫きましたが、しばらくすると「どんな罰も受け入れる」と発言し、北九州監禁事件の詳細を語り始めました。

自ら手を下した人物の名前をあげ、刑事責任を認めたのです。そして、それらの殺人行為は、松永太の指示であったことも自供します。しかし、松永太はこれにたいし、全てを否定し完全無罪を主張し続けました。この時、被害者に書かせた書面や、性行為の写真も証拠として提出されます。

松永太は様々な言い訳を主張した

Speak Talk Microphone Tin - Free photo on Pixabay (605661)

松永太は裁判で、様々な言い訳を主張しました。等事件は、緒方家や虎谷家の家族間問題であり、自身はそれに関与しないように努めていたといったものや、それぞれが「自ら殺した」という文書を活用し、証拠も残っていると主張したのです。

さらに、緒方純子の妹や母親との肉体関係について、相手から一方的に迫られたなどの主張も行います。家族間の問題に巻き込まれそうになった、自分は被害者だと主張を続けたのです。しかし、多くの死者を出した等事件で無傷だったこと、二転三転する主張から、信憑性がないと判断されます。

2005年3月検察側は双方に死刑を求刑

Judge Hammer Judgement - Free photo on Pixabay (605662)

7 / 9

関連する記事 こんな記事も人気です♪