2019年7月27日 更新

おせんころがし事件とは?犯人栗田源蔵の生い立ちや事件後の様子

おせんころがしとは、千葉県にある断崖絶壁付近の場所を指す通称名です。この場所は、悲しい言い伝えが残されているのですが、戦後、この場所で1人の男が犯した殺人事件も伴って、今では心霊スポットとして有名になりました。今回は、おせんころがし事件について紹介します。

目次

おせんころがし殺人事件とは?

Vertigo Falling Coast - Free photo on Pixabay (506271)

2019年(令和元年)7月18日(木)、京都アニメーションで起きた放火殺人事件は死者34名となり、戦後最悪の大量殺人事件となってしまいました。大量殺人事件の定義とは、4人以上とされていますが、戦争や暴動、テロなど以外で、単独犯による日本での大量殺人事件は、これまで1938年(昭和13年)に起きた津山事件の死亡者30名が最も被害の大きい殺人事件です。

このような猟奇的事件は、戦後の混乱期から増え始め、平成時代にはサイコパスという言葉も知られるようになりました。今回紹介する、「おせんころがし殺人事件」は、1952年(昭和27年)に発覚した母子4人が殺害された事件ですが、犯人の栗田源蔵が逮捕されてから、実は他にも殺人事件を犯していたことが発覚し、栗田が8人もの人を殺していたことが判明し、世間に衝撃を与えた事件なのです。

母子4人が殺された場所が、千葉県安房郡小湊町(現在の鴨川市)にある、「おせんころがし」と呼ばれる場所だったことから、栗田源蔵が犯した一連の殺人事件を称して、「おせんころがし殺人事件」と呼ばれるようになりました。今回は、そんな「おせんころがし殺人事件」の詳細と、犯人栗田源蔵の生い立ちや、事件後の様子について紹介していきます。

おせんころがし殺人事件(栗田源蔵事件)概要

Raven Crow Night - Free image on Pixabay (506319)

栗田源蔵が犯した殺人事件は、被害者の気持ちを思えばとても悲惨で、到底許せるものではありませんが、猟奇的な殺し方とまでは言えません。どちらかと言えば、栗田には理性が無く、本能に従って犯した短絡的な事件と言えるでしょう。

栗田は、1948年(昭和23年)~1952年(昭和27年)までの間に、女性と子供合わせて8人を殺害しましたが、全ての動機は、性欲と言っても過言ではありません。

ここでは、栗田源蔵が犯した全ての殺人事件の概要を紹介していきます。

1948年最初の殺人

Girl Sitting Jetty - Free photo on Pixabay (506448)

栗田源蔵は最初の殺人事件を起こす前に、窃盗や戦後の混乱期に勝手に米や食料などを売る、食糧管理法違反などの罪で、すでに懲役1年の服役を終えた前科者でした。

出所して約1年後の、1948年(昭和23年)2月、栗田は最初の殺人事件を起こします。当時付き合っていた女性の友人にも手を出し、その浮気相手から結婚を迫られた為に、殺害して砂浜に埋めました。

その後すぐに、栗田とその女性の関係を疑っていた彼女に、最近友人の姿が見えないと聞かれた後、栗田は強姦してから彼女も殺し、砂浜に埋めてしまったのです。この事件は、栗田が最後の殺人事件で逮捕されるまで、発見されていませんでした。

1951年の殺人(小山事件)

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最初の殺人事件の後、栗田は殺人未遂や傷害、窃盗などで3度逮捕され、1年程の服役生活も3度しています。最後の仮出所後も、泥棒しながらの生活をしていました。

1951年(昭和26年)8月に、窃盗の為に栃木県の小山駅で途中下車した栗田は、家を物色中にとある家の窓から、寝ている母子の姿を見て欲情し、家に押し入って母親を強姦しました。

更に首を絞めて殺害し、最後に屍姦までした上、窃盗をして逃走したのです。この時一緒にいた赤ちゃんは、殺されることはありませんでした。

同年10月におせんころがしで殺人

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栗田は小山で殺人をした後も、窃盗を続けながら生活して移動を続けていました。小山事件から約2ケ月後の、1951年(昭和26年)10月には、千葉県にたどり着いていたのです。

どこで手に入れたかは不明の自転車に乗り、家を物色している最中に、上総興津駅で3人の子供を連れた女性を発見します。栗田はまたしてもこの女性に欲情し、時刻が深夜だったことを理由に、「家まで送ると」この母子に同行しました。

その道中、性交を我慢出来なくなった栗田は、おせんころがしと呼ばれる場所で、子供達を殺して崖下に棄て、女性を強姦した後に殺してまた崖下に棄てたのです。

1952年の殺人(はやぶさの源)

Peregrine Falcon Predator Raptor - Free photo on Pixabay (506727)

おせんころがしで殺人事件を犯した後も、しばらく千葉県内で窃盗を続けていた栗田は、1952年(昭和27年)1月、とある家に窃盗に入ったところ、着物など金目の物がたくさんあることを発見します。後日そのことを思い出した栗田は、日を改めてもう1度同じ家に窃盗目的で侵入しました。

1度目は誰もおらず、窃盗に成功して逃走していたのですが、2度目に侵入した時は、その家の主婦に発見されてしまいます。主婦は声を上げて騒いだ為、一緒に暮らしていた叔母も気が付き騒ぎ出したのです。栗田は主婦の首を絞めて殺害し、叔母も包丁で刺して殺しました。その後、主婦を屍姦して逃走しました。

ちなみに、栗田は通称「はやぶさの源」と呼ばれていましたが、理由は不明です。猛禽類の一種であるハヤブサの飛行速度が速いことから、栗田の逃げ足が速い、又はすばしっこいという意味が考えられますが、よく分かっていません。

犯人・栗田源蔵の逮捕

Hands Handcuffs Tied Up - Free photo on Pixabay (506738)

最後の殺人は、近所の人が主婦と叔母の遺体を発見したことで、事件が発覚しました。この頃、現場周辺では窃盗事件が相次いでおり、警察は周辺によくたむろしていた不良グループのリーダー格であった、「はやぶさの源」に眼を付けました。

調べてみると、はやぶさの源こと栗田源蔵は、秋田での窃盗事件によって全国に指名手配されている男だったことが判明し、遺体が発見されてから3日後に、殺人容疑と窃盗容疑でようやく逮捕されたのです。

事件詳細【2女性殺害事件】

Beach Sea Sand White - Free photo on Pixabay (506775)

栗田源蔵の殺人が、いかに短絡的な動機で行われていたのかは、先程紹介した事件の概要だけでも見えてきます。殺人事件以外にも、すでに前科者であり、改心するでもなく窃盗を続けながらの生活の中で、突発的な性欲発散の為に女性達を襲ってたのです。

しかもこれら4つの殺人事件の場所は、静岡、栃木、千葉とバラバラです。このことからも、突発的犯行だったということが窺えるでしょう。ここではまず、栗田源蔵が最初に起こした殺人事件の詳細を紹介していきます。

事件の起きた場所

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最初の殺人事件を起こす少し前、栗田源蔵は東京で闇屋をするようになっていました。事件を起こした1948年(昭和23年)は戦後からまだ3年後で、戦中時代から続く物資不足が深刻な状況だったのです。特に米などの食糧は、国民が平等に入手出来る為の「食糧管理法」という法律が定められており、勝手に売買してはいけないものでした。

しかし、戦後すぐは政府も安定しておらず、食糧の物流はストップ状態となって、人々は飢え始めていたのです。そこに目を付けた朝鮮人や、ヤクザなどが高い食糧を売る闇市が横行し出していました。栗田にどのような伝手があったのかは不明ですが、1度食糧管理法違反で逮捕されていたのにも係わらず、また米や落花生などの闇屋を始めていたのです。

そこで知り合った女性と、その女性の友人を殺すことになるのですが、わざわざ東京から静岡県まで足を延ばしての殺害でした。栗田ははじめ友人の女性を、そして後日交際していた女性も静岡県駿東郡原町(現在の沼津市)にある浜辺に連れて行き、強姦、殺害、死体遺棄まで実行しています。

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