2019年7月27日 更新

おせんころがし事件とは?犯人栗田源蔵の生い立ちや事件後の様子

おせんころがしとは、千葉県にある断崖絶壁付近の場所を指す通称名です。この場所は、悲しい言い伝えが残されているのですが、戦後、この場所で1人の男が犯した殺人事件も伴って、今では心霊スポットとして有名になりました。今回は、おせんころがし事件について紹介します。

目次

栗田源蔵は、1926年(大正15年)11月3日(水)、秋田県の新成村(にいなりむら:現在の羽後町)に生まれました。栗田は、12人兄弟の三男です。

貧乏子沢山とは言いますが、昔は避妊という概念もありませんし、出来てしまえば大抵産むのが普通です。更に、まともな医療も無く、成人まで無事に育てるということはとても大変だった為、子供を多く持つ方が良かったということもあります。

栗田が生まれた大正後期~昭和初期は、世の中も不景気が続き、昭和金融恐慌なども起きて国としても皆が苦しい時代でした。栗田家はその中でも、とても貧しい生活を送っていたようです。

栗田源蔵の両親について

Despair Alone Being - Free photo on Pixabay (509143)

栗田源蔵の父は、本来川漁師でしたがとても病弱であまり働けなかったそうです。その為、家は極貧となり、母親は子育てもしながら合間で、出稼ぎをして家計を支えていました。

源蔵は三男ですが、兄弟の更生がハッキリしないので、上にたくさん姉がいれば兄弟では下の方になりますし、上が男だけであれば、12人兄弟の上の方に当たります。

しかし、初めての子や末っ子でも無い限り、何処の兄妹も母親を独り占めに出来る時間はありません。まして、母親は出稼ぎで家を空ける時もあるのですから、源蔵は母親にほとんど手も愛情も掛けてもらわないまま育ちました。

栗田源蔵の少年時代の性格

Boy Hungry Sad - Free photo on Pixabay (509210)

栗田の幼少期から少年期に掛けては、とても内気で大人しい子供でした。母にはほとんど構ってもらった記憶もなく、常に愛情には飢えていたようです。

そして、幼い頃からよくおねしょをする子で、その癖は小学生になっても治らず夜尿症となっていきました。そのことも、内気な性格に拍車を掛けていたかもしれません。

幼少期に母親の愛情を確信出来ず、その寂しさなどを歪ませていくと、わりと性格も歪んでいく傾向があります。夜尿症の原因に愛情不足は関係ありませんが、ゆっくりと向き合ってくれない母に、源蔵が寂しさを感じていたことに間違いは無いと言えます。

小学校でのいじめ

Bullying Child Finger - Free photo on Pixabay (509275)

源蔵のおねしょは、小学生になっても全く治らず、毎晩漏らしてしまうような状態でした。極貧生活では、服の着替えもあまり無かったでしょうし、洗濯も手洗いで、石鹸も買えたのか不明です。

その為、源蔵の服は常に小便臭く、小学校では「小便たれ!」と激しいいじめにあっていたようです。昔の子供達は、今の子と違って容赦しません。

内気な源蔵は、次第に学校に行くことが苦痛になり、よくサボって近所の山で1人遊ぶことが多くなっていきました。

奉公先を転々とする

Stroller Parent Child Walk - Free image on Pixabay (509305)

源蔵が小学校に入学した頃は、すでに昭和に入っています。現代で言う小学校は、当時尋常小学校と呼ばれ、明治40年に6年間の義務教育が始まっていました。

しかし、貧しい家の子はまだまともに学校も行けない子もいたのです。源蔵はいじめに遭ったことで、学校もサボりがちではありましたが、極貧生活だった為に奉公に出されることになりました。

学校は3年で中退させられ、源蔵は子守りや畑の手伝いをする作男(さくお)として、奉公に出されたのですが、住み込みの奉公先でもおねしょが治らず、すぐに首になってしまいます。源蔵が1年の間に回った奉公先は、14~15ヶ所にもなりました。

入隊するも2ケ月で除隊

Parade Victory Day Samara - Free photo on Pixabay (509421)

源蔵が15歳の時、日本は太平洋戦争へと突入しました。しかし、その頃彼が何をしていたのかは不明です。赤紙が来たのか、自主的にかも分かりませんが、源蔵も当時の男子らしく1945年(昭和20年)6月という終戦間近になって、弘前の歩兵連隊に入隊したのです。

この年の4月にはすでにアメリカ軍は沖縄を占領、国内に残る男子は若いか老人しかいないという状況で、源蔵も男子として張り切って入隊したのでしょう。

入隊した時、源蔵は19歳になっていましたが、なんとまだ夜尿症が治っていませんでした。結果、1人でも多く兵隊が必要な時期にも係わらず、2ケ月で除隊されてしまったのです。このことが、かろうじて残されていた自尊心とプライドを傷つけ、源蔵の心が歪んでしまったのかもしれません。

戦後炭鉱夫となり荒くれ者に

Ruhr Area Bill Headframe - Free photo on Pixabay (509444)

皮肉なことに、源蔵が除隊された頃に日本は敗戦を迎えました。どのような経緯があったのかは分かりませんが、戦後源蔵は北海道に渡り、美唄炭鉱の炭鉱夫となったのです。

奉公もあまり続かず、軍に入っても夜尿症で除隊された源蔵が、荒くれた男達の中での危険な仕事と、共同生活をどのように耐えたのでしょう。ここで夜尿症の話は出てこないことから、あまりに激しい生活環境の変化で治ったのかもしれません。

そして、この炭鉱での生活が、源蔵の性格も凶暴な男に変貌させていったのです。

栗田源蔵の犯罪歴

Police Crime Scene Footprint - Free image on Pixabay (509465)

戦後の翌年、源蔵が早々に前科者になっていたことを考えると、美唄炭鉱での生活はそんなに長くは続かなかったのでしょう。まともに炭鉱で働けていたのであれば、収入や住居などに困ることも無かったはずです。

しかし源蔵は、炭鉱生活で誰か悪い人と出会ってしまったのか、それとも逃げ出す為に突発的な行動だったのかは分かりませんが、栗田源蔵の人生は一気に闇の生活となっていくのです。

冒頭でも多少触れているので、重複してしまいますが、ここでは改めて栗田源蔵の犯罪歴を振り返って行きましょう。

昭和21年の逮捕で懲役1年6ヶ月

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (509487)

栗田源蔵が検見川事件で逮捕される時には、すでに前科があり、全国指名手配中の容疑者でもありました。そんな栗田が、初めて獄中生活をすることになったのは戦後です。

罪状はこの後に紹介しますが、1946年(昭和21年)8月、懲役1年6ヶ月の判決を受け服役したという情報はあるのですが、いつ逮捕され、どこの刑務所にいたかなどの詳細は不明です。

栗田は初犯ということもあってか、半年余りの刑期を残して1947年(昭和22年)に仮出所しました。その翌年、交際相手の2人の女性を殺害しているのです。

傷害、窃盗、物価統制令違反、食糧管理法違反、殺人未遂を繰り返す

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敗戦すると何処の国も大混乱となります。日本は幸い、他国のように植民地にされませんでしたが、GHQ(ユダヤコミンテルン)は日本人がもう二度と立ち上がらないように、教育や焚書(アメリカにとって都合の悪い書物を燃やすこと)、政治や官僚、そしてマスコミなどにスパイを置いたまま、現在に至るまで支配され続けています。

話は逸れましたが、戦後すぐの日本はとても治安が良いとは言えない状況の中、親を亡くした戦災孤児や、飢えた人々の中には、生きる為に野菜泥棒をするという者もいました。現在も残されている少年法はその名残りです。

皆が貧しく、飢えていた時代という背景の中で、栗田源蔵もどんどん悪の道に染まっていきました。酔ってケンカをし、傷害事件や殺人未遂事件を起こしたり、窃盗を繰り返し、物流統制令違反、食糧管理法違反などの罪で2回逮捕されたのです。

ヤミ米販売ブローカー集団「総武グループ」の中心メンバー

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