2019年7月27日 更新

おせんころがし事件とは?犯人栗田源蔵の生い立ちや事件後の様子

おせんころがしとは、千葉県にある断崖絶壁付近の場所を指す通称名です。この場所は、悲しい言い伝えが残されているのですが、戦後、この場所で1人の男が犯した殺人事件も伴って、今では心霊スポットとして有名になりました。今回は、おせんころがし事件について紹介します。

目次

戦後、男達のほとんどを兵隊に取られ、軍は解体、まだ自衛隊も無く、警察も武器なども無いままで、政治も混乱しているような時期です。元々物資が乏しい中、空襲や原爆などであちこちが焼け野原となり、日本では物価が一気に高騰しました。

その為、国は物価統制令や、食糧管理法などを制定したのですが、そもそも物流も滞っているので物が手に入りません。生きていく為には、食べない訳にいかず、庶民は違反と分かっていても、食べ物や物資が欲しくなるのは当然です。そこに目を付けたのが、在日朝鮮人達とヤクザ達でした。

おそらく美唄炭鉱時代に、栗田源蔵も何れかと接触したのでしょう。最初の出所後、1948年(昭和23年)頃から、栗田は米や落花生などのヤミブローカーとなり、「総武グループ」の中心メンバーとなったのです。

ブローカーを辞めた後は泥棒稼業に専念

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栗田はヤミブローカーをしている最中、交際相手の2人を殺して死体を遺棄していましたが、そちらは発覚しないままの状態で、酒に酔って殴り合いをして、相手を殺しかけたことで、1948年(昭和48年)に傷害罪と殺人未遂で逮捕されました。

その時も懲役2年の実刑判決を受け服役していましたが、1年程で仮出所しています。これ以降、栗田はブローカーを辞めて、泥棒稼業だけで生きていくのです。その最中に、女性を強姦して殺害という罪も重ねていきました。

栗田源蔵の裁判

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1952年(昭和27年)1月17日(木)検見川町で鈴木きみさんと、いわさんを殺害した容疑で再逮捕された栗田は、その後栃木県小山で犯した増山文子さん殺害と、「おせんころがし」での小林ふよのさん親子殺害、そして交際相手の2人の殺害も自供しました。

その為、検見川事件を千葉地裁が、小山事件とおせんころがし事件、交際相手の2人の殺害などを宇都宮地裁で審理することになったのです。ここでは、栗田源蔵の裁判について紹介していきます。

千葉地裁にて死刑判決

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最初の裁判は、鈴木きみさんといわさんを殺害した検見川事件についての審理が、千葉地裁にて行われました。

裁判の詳しい内容や、罪状は資料が見当たらない為に詳細は不明ですが、考えられる罪状は窃盗罪、2件の殺人罪、住居侵入罪あたりでの起訴となったでしょう。ちなみに屍姦については、その時の状況によりますが、基本的に死体損壊罪や侮辱罪には問えないようです。

1952年(昭和27年)8月13日(水)、千葉地裁は1審で栗田源蔵に対し、死刑判決を下しました。栗田はこれに対して不服を申し立て控訴しています。

宇都宮地裁で死刑判決

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宇都宮地裁での裁判は、各事件から時間が経っていたことや、案件が多かったせいもあって時間が掛かりました。

栃木県警などは、1952年(昭和27年)の年末までの間に、栃木県小山で犯した増山文子さん殺害事件や、おせんころがし事件、そして今までずっとバレずに隠し通していた、交際相手の2人の殺害についても自供させることに成功したのです。

それを受け、こちらも起訴された罪状の詳細は不明ですが、6件の殺人罪、窃盗罪、強姦罪、傷害罪、1件の殺人未遂罪などの罪状が考えられます。1953年(昭和28年)12月21日(月)、宇都宮地裁でも1審で栗田に対して、死刑の判決を下しました。

当時唯一2つの死刑判決を受けた事件

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宇都宮地裁での死刑判決にも、栗田は不服を申し立てて控訴します。しかし、起訴された罪状はたくさんありますが、2つの裁判所から死刑判決を受けるということは、この当時一度も無い前代未聞の出来事でした。

どちらも栗田源蔵という1人の人間に対して、1審で2回も死刑判決が下されるという例はレアケースで、これ以降もこのような判決は、1994年(平成6年)に確定された、警視庁広域重要指定事件113号(勝田清隆事件)の判決までありません。

国会で取り上げられるほどの凶悪犯の代表格

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現在はネットの存在もあって、戦後に仕掛けられたGHQ(ユダヤコミンテルン)の工作を知っている人も増えました。しかし、当時は気付かれないように、戦後、日本人が二度と立ち上がらせない為、愛国主義者や保守的な存在を様々な所から排除し、左翼思想(共産主義、マルクスレーニン主義)などの工作員をあちこちに入れました。もちろん弁護士や裁判官もそのターゲットだったのです。

特に戦後から、日本人を混乱させる為に放置し、置いて行った在日朝鮮人達(韓国人)などは、極悪極まりないほどの犯罪を続けており、それは今現在も続いています。その為、凶悪犯罪を犯す不定外国人や、左翼思想の者達は自分達が逮捕された際、死刑にならないように、未だに死刑廃止論を唱え続けているのです。

栗田源蔵の裁判期間中である、1956年(昭和31年)5月10日(木)に開かれた国会の、法務委員会公聴会でも、死刑についての論争がなされていました。死刑反対の左翼議員がいる中で、保守層は栗田源蔵の名前を上げ、「特殊な極悪人は世の中にいる」として死刑維持を決めています。

栗田源蔵の拘置所での様子

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千葉地裁にて最初の死刑判決を受けた後から、栗田源蔵の様子は徐々に変化し、宇都宮地裁でも死刑判決を出された後からは、あからさまに精神が弱り始めていったと言われています。

人の命を何とも思わず、実に身勝手な理由で、縁もゆかりもない8人の女性と子供2人も殺害したのにも係わらず、自分に死刑宣告が相次いで出されると、栗田は動揺したのです。

この時の様子で、夜尿症のことが弘前の歩兵連隊入隊以来確認出来ました。ずっと治っていなかったのか、それとも逮捕後の精神不安定によって再発したのかは不明ですが、拘置所でもお漏らしをしています。ここでは、そんな栗田源蔵がどのように変わっていったのか、拘置所での様子を紹介していきます。

看守に暴言暴行

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逮捕された後、栗田源蔵は東京拘置所に拘留されていましたが、当初はまさか、自分に死刑判決が下るとは考えてもいなかったのでしょう。

拘留された頃の栗田は、看守に対して横柄な態度を取り続けていました。1日に何十回も看守を呼びつけたり、暴言を吐いたり、暴行を加えるなどの凶暴な言動を繰り返していたのです。

しかし、宇都宮地裁で2度目の死刑判決が下されると、栗田は自分の死から逃れられないと感じたのでしょう。判決が出て一週間程が経った1953年(昭和28年)12月28日(月)、体調が悪かったのか医療部に来ていた栗田は、突如ヒステリーを起こして暴れ始めたと言われています。

拘禁ノイローゼの症状

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当時東京拘置所には、死刑執行する設備がありませんでした。そのせいもあってか、動揺はしつつも凶暴な態度は変わらずいたのです。

しかし、死刑が確定し、1956年(昭和31年)2月10日(金)、東京拘置所から設備のある仙台拘置支所へ移送された後から、栗田は食欲も落ち、精神的にも不安定になってノイローゼ状態になっていきました。

現代のように、左翼や在日、帰化人などに犯された司法や政治、マスコミだらけではまだ無かった当時、死刑執行はわりと行われていたのです。仙台へ来てから、ある朝突然看守が迎えに来て、叫び声を上げながら連れていかれる死刑囚を見ることで、自分の死刑がリアルに想像出来るようになったからでしょう。栗田は、日増しに精神を病んでいきました。

幻覚症状や自傷行為

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