尼港事件とは?教科書では語られていない大量虐殺事件の真実

かつて尼港と呼ばれたロシアの町で、女性も子供も関係なく、多くの日本人が虐殺された事件がありました。しかし、教科書ではこの尼港事件のことはほとんど語られていません。この記事では事件の詳細や、報復として起きた事件、生き残りの人々の証言などを紹介します。

目次

決して忘れてはいけない知っておきたい事件

Skulls Genocide Murder - Free photo on Pixabay (716224)

戦争のさなか、非戦闘員であるはずの一般市民が標的とされるという許されざる事態が、世界中でたびたび起こっています。ロシア内戦期の1920年、雪と氷で閉ざされ孤立したニコラエフスク(尼港)で起こった尼港事件もその一つです。

日本の居留民を中心に、女性や子供までも虐殺されたこの凄惨な事件は、戦時下の日露関係に多大な影響を及ぼすこととなった歴史的な大事件ですが、なぜか教科書などでもあまり深くは語られていません。

この記事では、教科書では語られない尼港事件に迫っていきます。

尼港事件の概要

Wintry Backcountry Skiiing Ski - Free photo on Pixabay (716323)

尼港事件が起きた当時は、第一次世界大戦直後の、世界が混沌としていた時代でした。この尼港事件が起きた背景には、そういった戦争による混乱や日本軍のシベリア出兵、当時ロシア国内で起こっていたロシア革命などのいくつもの要因があり、それらが複雑に絡み合って、この事件が起こることとなりました。

そのような複雑な事件である尼港事件のことを詳しく知っていくために、ここではまず大まかに、この事件の全体像を見ていくことにしましょう。

事件の概要

Soldiers Military Usa - Free photo on Pixabay (716324)

1920年、シベリア出兵していた日本軍は、ロシアの治安維持にあたっていた反革命軍である「白軍」に協力し、革命軍である「赤軍パルチザン」とたびたび衝突をおこしていました。

そんな折、赤軍パルチザンは日本軍が占領していたアムール川の河口にあるニコラエフスクを明け渡すよう要請します。

劣勢であった日本軍は、白軍や住民への人道的な扱いを条件に、この地を明け渡しました。しかし、赤軍パルチザンはすぐにこの条件を反故にし、日本人居留者を中心に住民らを次々に虐殺していきます。

このニコラエフスクを、当時の日本人は尼港と呼んでいたことから、この事件は尼港事件と呼ばれるようになりました。

被害者の数

Bone Skull Bones - Free photo on Pixabay (716350)

この尼港事件で赤軍パルチザンはニコラエフスクの住民らを老若男女関係なく次々に虐殺していきました。殺された住民は人口の半数近くにもおよぶ、6000人を超えていたとも言われています。

赤軍パルチザンはことさらに日本人を標的にし、日本人の犠牲者数は判明しているだけで731名にもなり、この地に住んでいた日本人はほぼ皆殺しにされました。

日本人を匿うなどしたロシア人らも虐殺の対象となり、破壊と殺戮の限りを尽くされたニコラエフスクは廃墟と化しました。

加害者について

Trumpeters Heralds Soldiers - Free photo on Pixabay (716335)

内戦や革命などにおいて非正規に軍事活動を行うゲリラのことパルチザンと言います。ロシア帝国を打倒し、ソビエト政権樹立を目指す赤軍が、このパルチザンとして活動するようになったものが赤軍パルチザンです。

もともとこの赤軍パルチザンを構成していたのは赤軍兵士や共産党員、ソビエト活動家などのロシア人でしたが、戦火が拡大するにつれ、朝鮮人や中国人らもこれに加わったとされています。

この赤軍パルチザンを指揮していたのはトリャピーツィンというロシア人でした。

事件の大体の経過

Apocalypse War Disaster - Free photo on Pixabay (716356)

やがてニコラエフスクの惨状が伝わり、それまで講和の姿勢を貫いていた日本軍が動き出します。しかし、日本軍がニコラエフスクに着いた頃には、すでに赤軍パルチザンは町を焼き尽くし、トリャピーツィンも逃げた後でした。

この件を重く見たソビエト政権は、かつての赤軍パルチザンメンバーと接触し、トリャピーツィンら主要メンバーを捕らえることを依頼します。

こうしてかつての仲間の裏切りによって逮捕されたトリャピーツィンは逮捕され、処刑されました。

尼港事件の経過の詳細

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1918年、アメリカによる「チェコ軍団救援」を目的とした共同出兵によって、日本のシベリア出兵は始まります。アメリカはこの際、革命に揺れていたロシアに対しては「不干渉」としていましたが、救済対象であるチェコ軍団は革命派の赤軍パルチザンと戦闘状態にあったことから、そもそもアメリカの提議には矛盾がありました。

こうして日本は赤軍パルチザンとの戦闘に巻き込まれていくことになり、それはやがて、「尼港事件」という悲惨な出来事へと繋がっていくことになります。

1919年11月に尼港が包囲される

War Desert Guns - Free photo on Pixabay (716328)

1919年11月、反共産主義派であった軍人コルチャークによる臨時政府が没落したことにより、赤軍パルチザンの攻勢に対抗していた白軍はその勢力を弱めていました。

ニコラエフスクにおいても、周辺の村々が次第に赤軍パルチザンに占領されていき、また、村の住民らの中には赤軍パルチザンに与する者もいたことから、白軍の反撃はことごとく失敗に終わります。

この時には既に、白軍は日本軍に頼らざるを得ない状況に陥っていました。

パルチザンが横行するようになる

Riot Violence Anarchy - Free vector graphic on Pixabay (716367)

既に冬が訪れていたニコラエフスクでは、港が氷に閉ざされ、陸路も既に赤軍パルチザンに封鎖される形となっていたため、この地は孤立状態となっていました。

赤軍パルチザンは占領した村々で、白軍や彼らを支持する人間の処刑を行うという恐怖政治を敷いており、村人らを強制的に徴兵して勢力を拡大していったともいわれています。

さらに1919年には、ハバロフスク・ニコラエフスク間の電線を遮断し、ニコラエフスクは完全に外界から孤立させられることとなりました。

ニコラエフスクにいた日本陸軍

Soldier Uniform Army - Free photo on Pixabay (716326)

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