2019年10月22日 更新

尼港事件とは?教科書では語られていない大量虐殺事件の真実

かつて尼港と呼ばれたロシアの町で、女性も子供も関係なく、多くの日本人が虐殺された事件がありました。しかし、教科書ではこの尼港事件のことはほとんど語られていません。この記事では事件の詳細や、報復として起きた事件、生き残りの人々の証言などを紹介します。

目次

2月23日、日本陸軍の石川少佐宛に、赤軍パルチザンの無線を通して白水師団長から「赤軍パルチザンが日本の居留民に危害を加えたり、日本軍に対して攻撃を仕掛けてこない限りは、これまでのいきさつに拘らず、平和的解決に努めよ」との指令が入りました。

石川少佐は海軍と相談したうえで、24日には停戦に入り、28日には赤軍パルチザンとの間で講和開城の合意が成立します。しかし、これがニコラエフスクで起こる悪夢の幕開けとなるのでした。

尼港開城の条件

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尼港開城にあたって日本軍と赤軍パルチザンとの間で交わされた合意条件について、後の日本とソ連の間で、見解の微妙な齟齬が起こっています。

日本側としては、「両軍が治安維持に努めること。裁判なくして市民を銃殺しないこと。ほしいままに市民に対して捕縛、略奪行為をしないこと。市内においては白軍を検束しないこと。規定数以上のパルチザンを市内に入れないこと」が合意事項であったとされています。

それに対してソ連側の見解としては、日本側は「人格と住居の完全不可侵。白軍を含む全市民の財産の不可侵。過去の完全な免責。新政権と意を異にする白軍の者については、日本軍司令部の保護下に置かれ、自由に出国する権利を持つ」という保障を求め、赤軍パルチザン側がこれを拒否、日本が折れる形で合意に達した、としています。

事件直後の宣誓証言

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この尼港開城の合意条件に関しては、グリゴリエフ中佐をはじめとした、複数のロシア人による事件直後の宣誓証言にも記述が見られます。

どの証言においても大まかな内容は同じで、「白軍は日本軍に武器を引き渡す。市内の治安維持に関しては日本軍の責任のもと行われる。市民の安全と財産については保障される」といったものでした。

白軍の処遇については、「免責される」としている証言もあれば、「ソビエト政府の法律に基づく」としているものもあります。

ブラゴヴェシチェンスクの政変

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尼港開城交渉に先立つ2月5日には、内陸部にあるブラゴヴェシチェンスクにおいても政変が起き、赤軍パルチザンによる政権奪取に危険を感じた白軍などが日本軍に保護を求めました。

ここでは白水師団長が自ら赤軍パルチザンとの交渉に立ち、「一般人の安全と財産の保障。市内の治安維持。市内にこれ以上の武装勢力を入れないこと」などの条件を赤軍側に呑ませています。

日本軍は中立的な立場だが、治安維持に責任を持つ立場でもあるとして、白軍の軍人も助けることに成功しました。このような経験が、ニコラエフスク守備隊への「平和的解決の指示」に繋がったのでしょう。

開城合意文書の調印

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2月27日、ニコラエフスクの市民代表団と赤軍パルチザンの間で、開城合意文書が調印されます。同日の夕方には市のホールで報告会が開催され、代表団の1人で、市議会議長コマロフスキィが開城にあたっての条件を市民に報告しました。

白軍のメドベーデフ大佐はその夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、その後自宅で自決。参謀長のスレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐に殉ずる形で、自ら命を絶ちました。

トリャピーツィンがニコラエフスク赤軍の司令官

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ニコラエフスクに入城した赤軍パルチザンは、白軍が当初予想していた通り、合意を破り、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収。そこに分宿しはじめます。

入城セレモニーの後、トリャピーツィンは、赤軍パルチザンの司令部によって、自身がニコラエフスク管区の司令官に任命されたことを宣言し、本部はノーベリ商会の館に置くことや赤軍パルチザンの人事を発表しました。

赤軍パルチザン司令官となったトリャピーツィンは、全公共機関に監視員を派遣。印刷所を接収して、町の新聞はすべて発刊禁止となります。すべての職場で労働組合を組織することが命令され、加入を拒否すれば「人民の敵として抹殺される」と発表されました。

そして秘密警察チェーカーとパルチザン部隊の活動が始まり、公共機関やビジネス界において重要な地位にある市民たちの資産没収、逮捕が発令されることとなります。

日本軍の決起

Portland Police Protest - Free photo on Pixabay (716374)

赤軍パルチザンはニコラエフスクに入城するやいなや、当初の合意条件を反故にし、市民の財産を没収し、不当な逮捕を繰り返すようになります。

最初の逮捕者は400人を超えたともいわれ、白軍関係者はもとより、資産家や公務員、聖職者など、老若男女関係なく投獄・拷問され、処刑される者も多数いたといいます。

治安維持にあたっていた日本軍は、このような状況を見かねて決起しますが、これにより、ニコラエフスクに住む日本人たちは赤軍パルチザンの標的とされることになっていきます。

日本軍決起の理由

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ニコラエフスク入城にあたって、日本軍は赤軍パルチザンとの間に協定を結び、白軍を虐殺しないことを取り決めていましたが、赤軍パルチザンはこれを破り、彼らを惨殺しました。

さらに、赤軍パルチザンはニコラエフスク市内の朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、革命記念日に日本軍を抹殺するという風評も流れ始めます。

そして、3月11日午後、赤軍パルチザンは日本軍に武装解除を求め、日本軍はこれを拒否。自衛のために決起しました。

日本軍に武器弾薬全ての貸与の要求

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日本軍は、市内で横暴を極める赤軍パルチザンを見かね、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告しました。これに対して、3月11日、かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全てを貸与するよう要求しました。しかもその期限は翌12日の正午という、急なものでした。

この件に関して、日本側は、赤軍パルチザンによる市民への暴虐が根底にあるとしていますが、ソ連側では、「日本軍が講和条約を破り、赤軍パルチザンへの攻撃を企てていたことによるもの」との見解を示しています。

虐殺を生き延びた人たち

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虐殺を生き延びたワシレフスキイは宣誓証言において、日本軍の決起を次のように語っています。

「パルチザン本部への日本軍の攻撃は、3月12日午後2時か3時頃に始まった。その攻撃の前に、日本軍の武装解除の通告に関する件と、パルチザン本部に来た日本軍の人たちに行った、赤いネクタイにピンを付けさせるような件による侮辱と、一連の挑発的な行動によって意図的にパルチザン達が、情報を流しているとの噂が広まっていた」

この証言や、『ニコラエフスクの破壊』の著者グートマンの証言などから、日本軍の存在が邪魔になったトリャピーツィンが、日本軍を挑発して片づけてしまうことを目論んでいたことが伺えます。

監獄にいた160人中156人が虐殺

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