2019年10月22日 更新

尼港事件とは?教科書では語られていない大量虐殺事件の真実

かつて尼港と呼ばれたロシアの町で、女性も子供も関係なく、多くの日本人が虐殺された事件がありました。しかし、教科書ではこの尼港事件のことはほとんど語られていません。この記事では事件の詳細や、報復として起きた事件、生き残りの人々の証言などを紹介します。

目次

ニコラエフスクにいた日本陸軍は石川正雅少佐率いる水戸歩兵第2連隊第3大隊約300名に衛生兵や通信兵などを加えた330名ほど。これに海軍の無線電信隊42名が加わり、日本軍は総勢370名ほどでした。

ニコラエフスクの治安維持は、既に弱体化していた白軍に代わり、これらの日本軍が実質的に担っており、彼らは不慣れな異国の地で赤軍パルチザンとの戦闘の矢面に立たされることとなりました。

1月10日には夜間外出禁止令などが出され、ニコラエフスクは戒厳状態になります。

1月23日にパルチザンが襲撃

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1月23日には300人ほどの赤軍パルチザン部隊が、凍結していたアムール川の対岸からニコラエフスクへ攻撃をしかけてきました。

これに日本軍は砲撃を行い対抗しますが、赤軍パルチザンのこの襲撃は牽制程度のものだったようで、すぐに退却していきます。

その後、ニコラエフスクの日本軍は海軍軍令部長と外務大臣に対し、援軍の派遣を求める無線連絡をし、ニコラエフスク救援隊派遣についての検討が行われることとなりました。

オルロフの申し入れ

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1月24日には、赤軍パルチザン指揮官トリャピーツィンの使者として、オルロフという人物が日本軍守備隊の元を訪れ、ニコラエフスクの明け渡しを要請してきました。

これに対して日本軍守備隊長は「このパルチザンは強盗団である」という認識から、捕えて白軍に引き渡すことになりますが、このオルロフに関しては、実際に山賊をしていたという証言もあります。

虐殺から生き延びたとある市民によると、「オルロフは、1918年のボルシェビキ委員のベベーニン、スレポフとともに山賊をやっていた」といいます。

オルロフの処刑

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捕らえられ、白軍に引き渡されたオルロフは処刑されています。この処刑について、ソ連側の言い分は、「白軍は使者を残虐に責め殺した」というものでした。

しかし、白軍将校の中で奇跡的に虐殺を生き延びたグリゴリエフ中佐によると、「パルチザンがニコラエフスクに入った後、トリャピーツィンの命令でロシア人と日本人の医師らがオルロフの死体を検視したところ、処刑の際の弾痕以外には何も傷がないことが確認された」といいます。

トリャピーツィンからの公開情報

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このように、オルロフの遺体には拷問の後が見られなかったにも関わらず、トリャピーツィンは「我らの軍使オルロフは、拷問によって殺された。このことは国際調査団によって確認された」と、実際の検視結果とは異なる情報を公開しました。

リューリ兄弟商会の社員だったドビソフの証言にも「ロシア人と日本人の医師からなる調査団は、オルロフの遺体を検視し、弾痕以外には傷がないことを証明した。トリャピーツィンはこの結果に大変不機嫌で、検査の報告を公表しなかった」とあります。

ベルマントの証言

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木材工場主のベルマントからも同様の証言が出ています。彼によれば、「トリャピーツィンは町に入るとすぐに、ロシア人、日本人、住民の代表らからなる合同委員会を設置。委員会は、オルロフの遺体には数か所の弾痕以外には傷跡や拷問の形跡は認められないと断定した」とのことで、オルロフは拷問などされていなかったことが伺えます。

しかし、それでもトリャピーツィンは「オルロフは拷問によって殺された」と触れ回っていたそうです。

1月28日から戦いは始まった

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ニコラエフスクの町の入り口は、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られており、その近くには日本海軍の無線電信所もありました。このチヌイラフ要塞の守備についても、弱体化していた白軍に代わり、日本軍が引き受けています。

1月28日、赤軍パルチザンの斥候部隊8名が、このチヌイラフ要塞に姿を現し開戦。29日には小競り合いの末、チヌイラフ要塞とニコラエフスクの間の電線が切断されるなどしました。

しかし、2月4日になって、ブラゴエチェンスクにいた第14師団長白水淡中将からニコラエフスクの守備隊へ、「パルチザン側から日本軍を攻撃してこない限り、自ら攻撃することはやめよ」という無線連絡が入ります。

要塞守備の人員が少ないところへ、この指示が来て、翌5日にはやむなく要塞を明け渡すことになりました。

ニコラエフスクとの連絡は遮断

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こうしてチヌイラフ要塞を占領した赤軍パルチザンは、2月7日には近くにある海軍の無線電信所を砲撃し、電信室が破壊されました。

守備隊はやむなくニコラエフスクへ引き上げ、これによりニコラエフスクは外界との連絡手段を絶たれることとなります。

最後の無線連絡でこの事態を知った陸軍当局は、ニコラエフスクへの増援を検討しますが、各地で不穏な情勢が続いており、兵員の余力が無かったことから、増援は先延ばしにされました。

尼港開城に向け動き始める

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赤軍パルチザンはチヌイラフ要塞からニコラエフスクへと砲撃を加えるなどしていましたが、2月21日には砲撃をやめ、トリャピーツィンは再び使者を派遣して、「ニコラエフスクの町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を、日本軍守備隊に送りつけます。

これを受けてニコラエフスクのロシア人指導者、市長や地方議会代表らは、市民の命の安全と町の繁栄の保持を条件に、赤軍パルチザンとの交渉を行うことを決めました。

トリャピーツィンの求めた条件

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ロマロフスキイ市議会議長、カルペンコ市長、ネムチノフ大尉らが使者となり、チヌイラフ要塞でトリャピーツィンとの交渉に当たりました。

トリャピーツィンは、「白軍は武器を日本軍に引き渡す」「軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる」「ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される」「赤軍入城までの町の防衛責任は日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ」という条件を提示します。

指導者たちはこれを受け入れるつもりでしたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意は破られる」と主張。最終決定は日本軍に委ねられました。

白水師団長からの指令

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