2019年10月22日 更新

尼港事件とは?教科書では語られていない大量虐殺事件の真実

かつて尼港と呼ばれたロシアの町で、女性も子供も関係なく、多くの日本人が虐殺された事件がありました。しかし、教科書ではこの尼港事件のことはほとんど語られていません。この記事では事件の詳細や、報復として起きた事件、生き残りの人々の証言などを紹介します。

目次

裁判にかけられたトリャピーツィンは、「もし自分がニコラエフスクで行った全ての事のために裁かれるならば、その時の同志や自分を裏切って逮捕した人々も含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べました。

この裁判において言い渡されたトリャピーツィンの罪状は、ニコラエフスクでの殺戮を許容したこと、サハリン州の村々でも虐殺命令を出していたこと、ブードリンなど仲間の共産主義者を殺害したことなどで、日本人に対する虐殺については全く触れられていません。

アレクサンドロフスクに上陸駐屯

Deployment Practice Action - Free photo on Pixabay (716431)

日本政府は邦人が大量虐殺されたこの事件を受け、7月3日の官報において、「現在、シベリアには交渉すべき政府が無い。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州の必要と認められる地点を占領するつもりである」と告示します。

この「必要と認められる地点」とは北樺太を指しており、この宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、児島中将指揮の下、8月上旬、アレクサンドロフスクに上陸、駐屯しました。

尼港事件のわずかな生き残り

Japan Island Nagasaki - Free photo on Pixabay (716355)

この尼港事件では、ニコラエフスクにいた日本人のほとんどが殺害されたため、事件の全容解明は困難を極めることとなりました。そのような中で、奇跡的に生き残ったごく一部の人々が、語り部となり、事件の惨状を後世に伝えています。

この尼港事件の真っ只中にいて、赤軍パルチザンの攻撃で家族を失いながらも、命からがら生き延びた井上雅雄氏もその1人でした。

ここでは生き残った人の証言として井上氏の記事と、重要な資料として知られる中村粲氏の『大東亜戦争への道』について紹介していきます。

井上氏の記事

News Daily Newspaper Press - Free photo on Pixabay (716741)

1920年6月23日の神戸新聞に、尼港事件を生き延びた井上雅雄氏の証言記事が掲載されました。

井上氏は毛皮商として、イギリス人の妻と2人の息子と共にニコラエフスクに住んでいました。井上氏が言うには、虐殺が起こる以前から、ニコラエフスクにはどこか不穏な空気が漂っていて、彼は石田領事に日本人居留者を引き揚げさせるようにと進言していたと言います。

3月2日にはパルチザンにより無線電信が破壊され、町の至る所に「日本人を殺せ」と書いたビラが貼られるようになっており、この時既にニコラエフスクは緊張状態になっていたことが伺えます。

妻子に会いに戻る井上氏

Aftermath Riot Protest - Free photo on Pixabay (716362)

3月11日、井上氏は自身の所有するガリシューム鉱山のトラブルの報を受けて、家を後にしました。ニコラエフスクが不穏な空気に包まれていたため、妻子にはしっかりと戸締りをしておくよう申し付けたと言います。

鉱山では主任技師であった中国人をはじめ、主だった従業員の多くが行方を晦ましていました。残っていた鉱夫らに取り急ぎポケットマネーで給与を渡した井上氏は、急いで家族のいるニコラエフスクへと戻りました。

しかし、時すでに遅く、井上氏が着いた頃にはニコラエフスクは修羅場と化していました。

修羅場を切り抜ける

Background Blood Stain - Free image on Pixabay (716514)

ニコラエフスクでは至る所に火の手が上がっていましたが、幸いにも井上氏の家は無事で、妻子は奥の部屋で彼の帰りを待っていました。

ほどなくして、5、60人のパルチザンが家に押し入り、表から家の中に向けて機関銃が放たれました。井上氏の目の前で、妻と子供2人がこの銃撃によって撃ち殺されたといいます。

井上氏自身は傷を負いながらも、持っていた拳銃で応戦。2人倒れたところで、他の赤軍パルチザンは退却していき、その隙に逃げ出します。

路上には死体が散乱しており、死に切れていない者が井上氏に縋り付き、助けを乞います。井上氏はその手を振りほどき、町外れの丘まで逃げました。

自分に与えられた使命

Prayer Bible Christian Folded - Free photo on Pixabay (716755)

必死で逃げた先で井上氏は我に返り、妻子の死を思い出しました。そして、自身も死んで家族のもとへ行こうと考え、持っていた拳銃を自らの頭に向けて引き金を引きました。

しかし、装填されていた弾をいつの間にか撃ち尽くしていたらしく、井上氏は死ぬことができなかったといいます。

眼前に広がるニコラエフスクの町は炎に包まれ、逃げる途中で見た日本人の死体の多くは、裸にされ、背中の皮を剥がれていました。

井上氏は「ニコラエフスクの日本人が全員死んでしまっては、誰がこのことを日本に報告するのだ?」と考え、生き延びる決心をします。

長い時間を経て日本へ

The Jungle Of - Free photo on Pixabay (716758)

辺りの地理を熟知していた井上氏はアムール川を渡ってハルピンへと逃れることを計画。血のにじむ外套を羽織りながら、赤軍パルチザンに見つからぬよう、山中を駆けていきました。

途中パルチザンと思しきロシア人に襲われながらも進み続けた井上氏でしたが、8日目には疲労と空腹が相まって、動けなくなってしまいます。

朦朧とする意識の中で、井上氏は自分に近づいて来る黒い影に気づきます。その影は井上氏に英語で話しかけ、一斤のパンと水を差しだします。その人物から一夜の宿まで与えられ、井上氏は何とか命をつなぎ留めました。

井上氏はさらに進み続け、どうにかハルピンにまで辿り着きました。この時、ニコラエフスクの惨事を逃げ延びてから実に36日もの時間が経っていました。

中村氏の『大東亜戦争への道』

Book Read Old - Free photo on Pixabay (716760)

尼港事件に関して書かれた重要な資料として、英文学者にして歴史家の中村粲氏が書いた『大東亜戦争への道』という著書があります。1990年に出版されてから長きに渡って重版が続けられるこの著書は、そのタイトルの通り、明治初期の日韓関係から、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に至るまでの歴史を綴ったものです。

執筆当時はあまり知られていなかった歴史資料なども用いられており、一部では最も真実に近い歴史書として評価されています。

虐殺の有様を記している

Killer Horror Jimmy - Free photo on Pixabay (716424)

この『大東亜戦争への道』では、尼港事件に関しても詳しく取り上げており、大きな話題を呼びました。

そこには、ニコラエフスクの惨事に遭遇しながらも、ウラジオストクへと逃れることができた1人の海軍士官の手記をもとに、赤軍パルチザンによる虐殺が事細かに再現されています。

また、この著書では、尼港事件がシベリア撤兵の遅れに与えた影響についても取り上げ、シベリア出兵について記した世の中の教科書がいかに歴史を歪曲しているか、という点に言及しています。

尼港への報復「大輝丸事件」

Skull And Crossbones Weird - Free image on Pixabay (716788)

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