目次
- 決して忘れてはいけない知っておきたい事件
- 尼港事件の概要
- 事件の概要
- 被害者の数
- 加害者について
- 事件の大体の経過
- 尼港事件の経過の詳細
- 1919年11月に尼港が包囲される
- パルチザンが横行するようになる
- ニコラエフスクにいた日本陸軍
- 1月23日にパルチザンが襲撃
- オルロフの申し入れ
- オルロフの処刑
- トリャピーツィンからの公開情報
- ベルマントの証言
- 1月28日から戦いは始まった
- ニコラエフスクとの連絡は遮断
- 尼港開城に向け動き始める
- トリャピーツィンの求めた条件
- 白水師団長からの指令
- 尼港開城の条件
- 事件直後の宣誓証言
- ブラゴヴェシチェンスクの政変
- 開城合意文書の調印
- トリャピーツィンがニコラエフスク赤軍の司令官
- 日本軍の決起
- 日本軍決起の理由
- 日本軍に武器弾薬全ての貸与の要求
- 虐殺を生き延びた人たち
- 監獄にいた160人中156人が虐殺
- 中国艦隊が日本軍を砲撃
- 当時の判断
- 事件後
- 尼港の殺戮
- 支那の妻妾女性以外は殺害
- 花街の娼妓を襲い通りは血の雨
- 女性と子どもが残虐に殺される
- 残虐な殺しは長い期間続いた
- 事件は収束へと向かう
- 虐殺をするかなり前から計画を練っていた
- 市民虐殺後は殺人は行わなくなっていた
- ブードリンの逮捕
- 日本軍の動き
- 新紙幣を刷る
- 女性たちを強姦
- 殺戮が始まる
- トリャピーツィンへ状況説明の要求
- 事件の収束
- トリャピーツィンが処刑される
- トリャピーツィンの罪
- アレクサンドロフスクに上陸駐屯
- 尼港事件のわずかな生き残り
- 井上氏の記事
- 妻子に会いに戻る井上氏
- 修羅場を切り抜ける
- 自分に与えられた使命
- 長い時間を経て日本へ
- 中村氏の『大東亜戦争への道』
- 虐殺の有様を記している
- 尼港への報復「大輝丸事件」
- 首謀者は江連力一郎
- 740トン船を用意、乗組員を募る
- ニコラエフスクへ入港
- 捕虜を殺害し乗組員へ口止め
- 乗組員が罪悪感で自首
- 江連は懲役12年
- 昭和8年に出獄
- 乗組員のうち1人は見つからず
- 尼港事件は日本の歴史の教科書には詳細がない
- 日本の教科書には事実が書かれていない
- 死者への冒涜であるという考えも
- 事件の名を知っていても詳細は知らない人が多い
- 忘れてはいけない事件
裁判にかけられたトリャピーツィンは、「もし自分がニコラエフスクで行った全ての事のために裁かれるならば、その時の同志や自分を裏切って逮捕した人々も含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べました。
この裁判において言い渡されたトリャピーツィンの罪状は、ニコラエフスクでの殺戮を許容したこと、サハリン州の村々でも虐殺命令を出していたこと、ブードリンなど仲間の共産主義者を殺害したことなどで、日本人に対する虐殺については全く触れられていません。
この裁判において言い渡されたトリャピーツィンの罪状は、ニコラエフスクでの殺戮を許容したこと、サハリン州の村々でも虐殺命令を出していたこと、ブードリンなど仲間の共産主義者を殺害したことなどで、日本人に対する虐殺については全く触れられていません。
アレクサンドロフスクに上陸駐屯
via pixabay.com
日本政府は邦人が大量虐殺されたこの事件を受け、7月3日の官報において、「現在、シベリアには交渉すべき政府が無い。将来、正当な政府が樹立され、事件の満足な解決が得られるまで、サハリン州の必要と認められる地点を占領するつもりである」と告示します。
この「必要と認められる地点」とは北樺太を指しており、この宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、児島中将指揮の下、8月上旬、アレクサンドロフスクに上陸、駐屯しました。
この「必要と認められる地点」とは北樺太を指しており、この宣言と同時にサガレン州派遣軍が編成され、児島中将指揮の下、8月上旬、アレクサンドロフスクに上陸、駐屯しました。
尼港事件のわずかな生き残り
via pixabay.com
この尼港事件では、ニコラエフスクにいた日本人のほとんどが殺害されたため、事件の全容解明は困難を極めることとなりました。そのような中で、奇跡的に生き残ったごく一部の人々が、語り部となり、事件の惨状を後世に伝えています。
この尼港事件の真っ只中にいて、赤軍パルチザンの攻撃で家族を失いながらも、命からがら生き延びた井上雅雄氏もその1人でした。
ここでは生き残った人の証言として井上氏の記事と、重要な資料として知られる中村粲氏の『大東亜戦争への道』について紹介していきます。
この尼港事件の真っ只中にいて、赤軍パルチザンの攻撃で家族を失いながらも、命からがら生き延びた井上雅雄氏もその1人でした。
ここでは生き残った人の証言として井上氏の記事と、重要な資料として知られる中村粲氏の『大東亜戦争への道』について紹介していきます。
井上氏の記事
via pixabay.com
1920年6月23日の神戸新聞に、尼港事件を生き延びた井上雅雄氏の証言記事が掲載されました。
井上氏は毛皮商として、イギリス人の妻と2人の息子と共にニコラエフスクに住んでいました。井上氏が言うには、虐殺が起こる以前から、ニコラエフスクにはどこか不穏な空気が漂っていて、彼は石田領事に日本人居留者を引き揚げさせるようにと進言していたと言います。
3月2日にはパルチザンにより無線電信が破壊され、町の至る所に「日本人を殺せ」と書いたビラが貼られるようになっており、この時既にニコラエフスクは緊張状態になっていたことが伺えます。
井上氏は毛皮商として、イギリス人の妻と2人の息子と共にニコラエフスクに住んでいました。井上氏が言うには、虐殺が起こる以前から、ニコラエフスクにはどこか不穏な空気が漂っていて、彼は石田領事に日本人居留者を引き揚げさせるようにと進言していたと言います。
3月2日にはパルチザンにより無線電信が破壊され、町の至る所に「日本人を殺せ」と書いたビラが貼られるようになっており、この時既にニコラエフスクは緊張状態になっていたことが伺えます。
妻子に会いに戻る井上氏
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3月11日、井上氏は自身の所有するガリシューム鉱山のトラブルの報を受けて、家を後にしました。ニコラエフスクが不穏な空気に包まれていたため、妻子にはしっかりと戸締りをしておくよう申し付けたと言います。
鉱山では主任技師であった中国人をはじめ、主だった従業員の多くが行方を晦ましていました。残っていた鉱夫らに取り急ぎポケットマネーで給与を渡した井上氏は、急いで家族のいるニコラエフスクへと戻りました。
しかし、時すでに遅く、井上氏が着いた頃にはニコラエフスクは修羅場と化していました。
鉱山では主任技師であった中国人をはじめ、主だった従業員の多くが行方を晦ましていました。残っていた鉱夫らに取り急ぎポケットマネーで給与を渡した井上氏は、急いで家族のいるニコラエフスクへと戻りました。
しかし、時すでに遅く、井上氏が着いた頃にはニコラエフスクは修羅場と化していました。
修羅場を切り抜ける
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ニコラエフスクでは至る所に火の手が上がっていましたが、幸いにも井上氏の家は無事で、妻子は奥の部屋で彼の帰りを待っていました。
ほどなくして、5、60人のパルチザンが家に押し入り、表から家の中に向けて機関銃が放たれました。井上氏の目の前で、妻と子供2人がこの銃撃によって撃ち殺されたといいます。
井上氏自身は傷を負いながらも、持っていた拳銃で応戦。2人倒れたところで、他の赤軍パルチザンは退却していき、その隙に逃げ出します。
路上には死体が散乱しており、死に切れていない者が井上氏に縋り付き、助けを乞います。井上氏はその手を振りほどき、町外れの丘まで逃げました。
ほどなくして、5、60人のパルチザンが家に押し入り、表から家の中に向けて機関銃が放たれました。井上氏の目の前で、妻と子供2人がこの銃撃によって撃ち殺されたといいます。
井上氏自身は傷を負いながらも、持っていた拳銃で応戦。2人倒れたところで、他の赤軍パルチザンは退却していき、その隙に逃げ出します。
路上には死体が散乱しており、死に切れていない者が井上氏に縋り付き、助けを乞います。井上氏はその手を振りほどき、町外れの丘まで逃げました。
自分に与えられた使命
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必死で逃げた先で井上氏は我に返り、妻子の死を思い出しました。そして、自身も死んで家族のもとへ行こうと考え、持っていた拳銃を自らの頭に向けて引き金を引きました。
しかし、装填されていた弾をいつの間にか撃ち尽くしていたらしく、井上氏は死ぬことができなかったといいます。
眼前に広がるニコラエフスクの町は炎に包まれ、逃げる途中で見た日本人の死体の多くは、裸にされ、背中の皮を剥がれていました。
井上氏は「ニコラエフスクの日本人が全員死んでしまっては、誰がこのことを日本に報告するのだ?」と考え、生き延びる決心をします。
しかし、装填されていた弾をいつの間にか撃ち尽くしていたらしく、井上氏は死ぬことができなかったといいます。
眼前に広がるニコラエフスクの町は炎に包まれ、逃げる途中で見た日本人の死体の多くは、裸にされ、背中の皮を剥がれていました。
井上氏は「ニコラエフスクの日本人が全員死んでしまっては、誰がこのことを日本に報告するのだ?」と考え、生き延びる決心をします。
長い時間を経て日本へ
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辺りの地理を熟知していた井上氏はアムール川を渡ってハルピンへと逃れることを計画。血のにじむ外套を羽織りながら、赤軍パルチザンに見つからぬよう、山中を駆けていきました。
途中パルチザンと思しきロシア人に襲われながらも進み続けた井上氏でしたが、8日目には疲労と空腹が相まって、動けなくなってしまいます。
朦朧とする意識の中で、井上氏は自分に近づいて来る黒い影に気づきます。その影は井上氏に英語で話しかけ、一斤のパンと水を差しだします。その人物から一夜の宿まで与えられ、井上氏は何とか命をつなぎ留めました。
井上氏はさらに進み続け、どうにかハルピンにまで辿り着きました。この時、ニコラエフスクの惨事を逃げ延びてから実に36日もの時間が経っていました。
途中パルチザンと思しきロシア人に襲われながらも進み続けた井上氏でしたが、8日目には疲労と空腹が相まって、動けなくなってしまいます。
朦朧とする意識の中で、井上氏は自分に近づいて来る黒い影に気づきます。その影は井上氏に英語で話しかけ、一斤のパンと水を差しだします。その人物から一夜の宿まで与えられ、井上氏は何とか命をつなぎ留めました。
井上氏はさらに進み続け、どうにかハルピンにまで辿り着きました。この時、ニコラエフスクの惨事を逃げ延びてから実に36日もの時間が経っていました。
中村氏の『大東亜戦争への道』
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尼港事件に関して書かれた重要な資料として、英文学者にして歴史家の中村粲氏が書いた『大東亜戦争への道』という著書があります。1990年に出版されてから長きに渡って重版が続けられるこの著書は、そのタイトルの通り、明治初期の日韓関係から、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に至るまでの歴史を綴ったものです。
執筆当時はあまり知られていなかった歴史資料なども用いられており、一部では最も真実に近い歴史書として評価されています。
執筆当時はあまり知られていなかった歴史資料なども用いられており、一部では最も真実に近い歴史書として評価されています。
虐殺の有様を記している
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この『大東亜戦争への道』では、尼港事件に関しても詳しく取り上げており、大きな話題を呼びました。
そこには、ニコラエフスクの惨事に遭遇しながらも、ウラジオストクへと逃れることができた1人の海軍士官の手記をもとに、赤軍パルチザンによる虐殺が事細かに再現されています。
また、この著書では、尼港事件がシベリア撤兵の遅れに与えた影響についても取り上げ、シベリア出兵について記した世の中の教科書がいかに歴史を歪曲しているか、という点に言及しています。
そこには、ニコラエフスクの惨事に遭遇しながらも、ウラジオストクへと逃れることができた1人の海軍士官の手記をもとに、赤軍パルチザンによる虐殺が事細かに再現されています。
また、この著書では、尼港事件がシベリア撤兵の遅れに与えた影響についても取り上げ、シベリア出兵について記した世の中の教科書がいかに歴史を歪曲しているか、という点に言及しています。
尼港への報復「大輝丸事件」
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