2019年10月22日 更新

尼港事件とは?教科書では語られていない大量虐殺事件の真実

かつて尼港と呼ばれたロシアの町で、女性も子供も関係なく、多くの日本人が虐殺された事件がありました。しかし、教科書ではこの尼港事件のことはほとんど語られていません。この記事では事件の詳細や、報復として起きた事件、生き残りの人々の証言などを紹介します。

目次

異国の地で多くの日本人が虐殺された尼港事件は、やがて日本国内にも知れ渡り、「日本という国が始まって以来、最大の国辱である」として、日本人はロシア人に対する憎しみを募らせていきました。

1922年には日本の海賊がロシア船を襲い、積み荷を略奪したうえ外国人らを殺害する「大輝丸事件」が起こりました。この事件で犯人は「尼港事件の復讐」を名目にしていました。

ここではこの大輝丸事件について紹介していきます。

首謀者は江連力一郎

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この大輝丸事件を起こした犯人グループの首謀者は、当時34歳の江連力一郎という人物でした。江連は茨城県結城町出身で、明治大学を中退した後に日本陸軍に入隊。犯行時は陸軍軍曹という地位に就いています。

江連は柔道、剣道、合気道などの各武術に精通しており、その段位は合計で30段にまで達するほどだった達人です。

尼港での赤軍パルチザンによる日本人虐殺の報に触れた江連は憤慨し、復讐することを決意。軍部や実業家から資金を集めて決行の機会を伺っていました。

740トン船を用意、乗組員を募る

Sea Ocean Boat - Free photo on Pixabay (716761)

江連は神戸にある相沢汽船会社から、740トンの船・大輝丸を調達します。当初、江連は「オホーツク海に砂金採取に行く」と言って乗組員を募集し、その呼びかけに学生や失業者など60人が集まりました。

9月26日、一行を乗せて北海道小樽を出港した大輝丸は、10月1日には樺太北部のアレクサンドロフスク・サハリンスキーに入港します。この地で江連は乗組員全員を甲板に集め、砂金採取を取りやめて、ニコラエフスクの町に向かうことを伝えました。

ニコラエフスクへ入港

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10月9日、大輝丸は惨劇の起こった町、ニコラエフスクに入港します。その際、沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪、加えて北樺太のポコピー、デスカストリー近海で帆船1隻と大量の海産物や油類を略奪します。こうして大輝丸は犯罪行為を行う海賊船となりました。

そして江連はこれらの船に乗っていたロシア人船長やその乗組員12人、発動機船に乗っていた乗組員4人の合計17人を拉致し、大輝丸の船員室に監禁します。

捕虜を殺害し乗組員へ口止め

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ニコラエフスクの惨劇に怒り狂っていた江連にとっては、赤軍パルチザンであろうがなかろうが、ロシア人は全て憎むべき敵でした。

10月22日から23日にかけて、監禁していた捕虜17人全員を甲板に引き出すと、彼らの命乞いを聞き入れることもなく、拳銃と日本刀で殺害します。犠牲となったのはロシア人12人、中国人4人、朝鮮人1人でした。

その後、大輝丸は小樽に帰港。江連は各乗組員に150円ずつ報酬を渡したうえで、口止めを約束させて解散しました。

乗組員が罪悪感で自首

Man Jail Arrest - Free photo on Pixabay (716792)

厳重に口止めされていた乗組員らでしたが、その後、田中三木蔵と菊池種松の2人が罪の意識に耐えかねて自首したことによって事件が発覚します。さらに江連が「兵站」として使用していた稚内の倉庫から大量の武器弾薬が発見されたことにより、江連は全国指名手配となります。

江連は情婦と参謀格の石川房吉を連れて、札幌の温泉旅館に逗留していましたが、12月13日には警官隊の襲撃を受け、抵抗することもなく捕らえられました。

江連は懲役12年

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (716855)

もとより自身の犯行を「正義の行い」であると考えていた江連は、取り調べや法廷においても「尼港事件で殺害された日本人の霊を慰めるため、天に代わって正義の剣をとり、懲罰をこころみた」との供述を続けていました。

江連の裁判は3年もの間未決でしたが、1925年2月27日に判決が下り、懲役12年の刑を言い渡されることとなります。また、起訴された他の乗組員ら34人には、懲役12年から罰金500円までの有罪判決が下されました。

昭和8年に出獄

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大輝丸事件で逮捕され、懲役12年の判決を受けていた江連でしたが、8年ほど服役した後、数回の特赦を受けて1933年に出獄します。

翌年にはマリー・ローザンヌ号金塊引揚事件に関与したとされ、再び捕らえられましたが、結局無罪となりました。その後は満蒙開拓団として旧満州国・内モンゴル自治区に行ったとも言われていますが、詳しい消息は不明です。

また、心形刀流という杖術を学んでいた江連は獄中でステッキ術の指南書を書いており、現在においてもその復刻版が刊行されています。

乗組員のうち1人は見つからず

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この事件に関して起訴されたものの、その所在が判明せずに裁判が進展しないままであった乗組員2人のうち、1人は戦後に見つかって執行猶予付きの有罪判決を受けましたが、残る1人は結局見つかることはなく、、大輝丸事件が発生してから45年後の1967年2月28日、東京地裁は時効成立による免訴の判決を下しました。

こうして、尼港事件により生み出されたもう一つの惨劇「大輝丸事件」は、一部未解決のまま収束することとなりました。

尼港事件は日本の歴史の教科書には詳細がない

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ここまで書いてきたように、尼港事件は間違いなく世界的に見ても大きな事件であることは疑いようがありません。そして、その被害者である日本人としてはなおの事、その衝撃が大きかったことでしょう。

しかし、それにも関わらず、なぜか日本の歴史の教科書などには、この尼港事件に関しての詳細な記述がされていないケースが多いとされています。

ここでは、尼港事件に対する、日本の教科書・教育の在り方について書いていきます。

日本の教科書には事実が書かれていない

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