2019年10月22日 更新

尼港事件とは?教科書では語られていない大量虐殺事件の真実

かつて尼港と呼ばれたロシアの町で、女性も子供も関係なく、多くの日本人が虐殺された事件がありました。しかし、教科書ではこの尼港事件のことはほとんど語られていません。この記事では事件の詳細や、報復として起きた事件、生き残りの人々の証言などを紹介します。

目次

先にも述べたように、赤軍パルチザンによる日本軍への武装解除要求および、それを拒否したことによる日本人居留民の虐殺について、ソ連側の認識は「日本軍が講和条約を破り、攻撃を企ててていたことが根底にある」というものでした。

しかし、グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の虐殺と破壊行為を、事件のだいぶ前から計画していたといいます。

トリャピーツィンは「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言しており、実際にそれを実行しました。

市民虐殺後は殺人は行わなくなっていた

Weapon Pistol Access - Free photo on Pixabay (716436)

ニコラエフスクにおいて、日本軍決起後の市民虐殺以降、一時的に赤軍パルチザンは手続きの無い殺人行為は行わなくなっていました。

3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催されます。この大会では、ハバロフスクにおける革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、いよいよトリャピーツィンの独裁体制が確立されようとしていました。

しかし、このトリャピーツィンの独裁によって、赤軍パルチザン内部でも、彼に不満を持つ者が出始めることとなります。

ブードリンの逮捕

Police Arrest Detention - Free photo on Pixabay (716679)

独裁者となっていったトリャピーツィンのもとで、赤軍パルチザンの横暴は続きました。配給制度が推し進められ、日常的な徴発によって市民はますます困窮し、不当な理由による逮捕・投獄が行われます。

そんな中、かつてパルチザン鉱山連隊の司令官を務めていたブードリンは、トリャピーツィンのこのような体制を批判し、逮捕されました。

ブードリンはかつての部下などを中心に支持者が多かったため、この時は死刑を免れましたが、後に大虐殺の混乱の中、殺害されました。

日本軍の動き

Stop Fear Violence Against - Free photo on Pixabay (716429)

ニコラエフスクの惨事を知った日本軍司令部は、それまでのような妥協的な態度をやめます。4月4日にはウラジオストクにおいて、日本軍歩哨が射撃されたことをきっかけに、日本軍は軍事行動を起こし、ウラジオストクの赤軍パルチザンを武装解除させました。

4月6日にはハバロフスクで戦闘の末、日本軍が勝利します。そして4月29日には、日本はウラジオストク臨時政府との間で、以下のような条件の講和を結びました。

「ロシアの武装団体は日本軍駐屯地およびウスリー鉄道ならびにスーチャン支線から30キロ以内には侵入できない。また、この範囲にあるロシア艦船、兵器その他の軍需材料など、すべて日本軍が押収する」

新紙幣を刷る

Bank Note Dollar Usd - Free photo on Pixabay (716680)

ハバロフスクの赤軍パルチザンが日本軍に敗れ、武装解除したという情報がニコラエフスクに届くと、トリャピーツィンも焦り始めます。

ニコラエフスクへの日本軍の侵攻を恐れたトリャピーツィンは、最初に、アムール川の日本船の航行を妨害するためバージを沈めて障害物としました。

また、資金も尽きていたため、トリャピーツィンは新ソビエト紙幣を刷ります。当初、中国商人はこれを受け取ろうとはしませんでしたが、赤軍パルチザンによる貯金の封鎖や全紙幣の廃止といった強硬策が行われると、逮捕を恐れて新紙幣を受け入れました。

女性たちを強姦

Tears Crying Tear - Free photo on Pixabay (716688)

混乱状態に陥ったニコラエフスクでは、再び赤軍パルチザンによる横暴が起こり、女性たちは強姦されました。

朝鮮人パルチザン部隊の中隊長は、ある漁業経営者の娘を強姦すると、その翌日には音楽会で歌うことを強制します。その後、この少女と幼子も含めた家族全員がアムール川に突き落とされ、殺害されました。

女性教諭なども強姦され、恐怖の下で、赤軍パルチザンと同棲することを強制させられた少女も少なくありませんでした。

殺戮が始まる

Skull Cemetery Genoa - Free photo on Pixabay (716347)

トリャピーツィンは会議において、「パルチザンの家族を避難させたうえで、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼き尽くす」という提案をし、これが了承されました。

5月21日の夜から、次々に逮捕と処刑が繰り返され、80歳の老人から1歳の子供まで、日本人、ユダヤ人、ポーランド人、イギリス人と老若男女も人種も関係無しに、無差別な虐殺が行われました。21日から24日までの間に殺された人の数は、3000人にものぼるとされています。

日本人の居留者のほとんどが殺害されましたが、中には、中国人の家に匿われたり、中国の砲艦で脱出させてもらうなどして命拾いしたケースもあったようです。

トリャピーツィンへ状況説明の要求

Writing Write Fountain Pen - Free photo on Pixabay (716504)

ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘停止に合意した手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めます。

これに対し、トリャピーツィンは参謀長ニーナ・レベデワと連名で、ハバロフスク、モスクワをはじめとした各地へ電報を送りました。

トリャピーツィンはこの電報で、ニコラエフスクの惨劇の背景には、「日本軍による裏切り行為があった」や、「日本人居留民全員が武装していた」といったことを報告し、日本人の大多数が戦死したと伝えました。

事件の収束

Antietam Maryland Cannon - Free photo on Pixabay (716404)

トリャピーツィンの電報を受けて日本軍の救援隊がニコラエフスクに入った頃には、すでにこの地は遺体が散乱する焦土と化していました。

トリャピーツィンら一行は、家族を避難させていたケルビへと移動しますが、その途中で強制動員された農民たちは逃げ出して村に帰り、日本軍の報復を恐れた中国人や朝鮮人たちも、その多くが離脱していました。

こうして、ニコラエフスクで横暴を極めた赤軍パルチザンは、その勢力を急激に弱めていき、それにより、この事件も終わりを迎えることとなります。

トリャピーツィンが処刑される

Gunshot Muzzle Pistol - Free image on Pixabay (716434)

この頃には、ニコラエフスクから難を逃れて避難してきた人たちにより、トリャピーツィンら赤軍パルチザンの凶行が知れ渡り始めました。

当初はトリャピーツィンの報告通り、日本軍による裏切りを言い立てていたソビエト政権も、これには困惑し、トリャピーツィンを捕らえるべく、アムグン地域の反トリャピーツィングループと接触します。

7月3日の夜、反トリャピーツィングループは、ソビエト代表団の要請を受けて、パルチザン本部で眠っていたトリャピーツィンとニーナ・レベデワをはじめ、指導部全員を逮捕。9日には裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺刑となりました。

トリャピーツィンの罪

Skull Hood Sword - Free image on Pixabay (716513)

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