2019年9月22日 更新

犯人矢野富栄死亡で残された謎!島根女子大生死体遺棄事件

日本中を震撼させた島根女子大生死体遺棄事件。何の罪も無い大学生が犠牲になったこの事件の犯人・矢野富栄は母親を道連れに事故死していました。この記事では、そんな犯人の前科についてや、在日韓国人だったという噂の真相を見ていきながら、事件について紹介していきます。

目次

矢野の母親の名前は貴美子といい、近所でも評判の美人だったといいます。長男である矢野富栄をたいそう可愛がっていたようで、2004年に矢野が逮捕された後も、前科が付いてしまった息子のことを常に気にかけていました。

米穀店だけで生活していくのは難しいと、クリーニング店を開いて家計を支えていましたが、事件発覚後の2009年の11月8日、矢野と共に山口県内の高速道路上で事故死しています。享年は58歳でした。

父親

Old Man Face - Free photo on Pixabay (650914)

先にも述べたように、地域の柔道クラブで指導員をしていた矢野の父親。祖父母が残した米穀店を経営し、家族を支えていましたが、矢野が事件を起こす2年前に病気で亡くなっていました。

言うまでもなく、子供にとって父親の存在というのは大きいものです。父親の死が矢野の心に何らかの影を落としたかどうかは定かではありませんが、もしも矢野の父親が事件当時も生きていたのならば、この事件の結末も、また違ったものになっていたのかもしれません。

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矢野には弟が一人いました。弟は美容師をしていて、米穀店、クリーニング店と続いてきた実家で美容院を開きました。兄の富栄が島根女子大生死体遺棄事件の犯人であると報じられた頃には、弟は結婚していて妻と二人でこの美容院を経営していたようです。

兄の事件への関与が報じられると、ほどなくして店をたたみ、妻共々、まるで夜逃げでもするかのように人知れず行方をくらませています。

弟だけが矢野富栄の家族で唯一生きている人物ですが、実家を離れてから果たしてどこでどのような暮らしをしているのでしょうか。

犯人矢野富栄の前科

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (651041)

島根女子大生死体遺棄事件の犯人とされる矢野富栄ですが、実はこの事件が初犯ではなく、以前に起こした事件によって服役までしていました。中学高校時代は誰からも真面目で大人しい性格だと評されていた矢野は、なぜそのような事件を起こすようになってしまったのでしょうか。

かつて矢野が起こしていた事件を見ていくことで、この島根女子大生死体遺棄事件を起こした矢野富栄という男の心の闇とも言える部分が見えてくるはずです。

2004年に3つの強制わいせつ事件

The Fear Way Night - Free photo on Pixabay (650743)

矢野富栄は、島根での事件を起こす2009年から遡ること5年前の2004年に、九州と東京で3つの強制わいせつ事件を起こしていました。

矢野は北九州市と東京都杉並区で、面識のない女性に刃物を突き付けて、わいせつな行為に及びます。わいせつ行為自体は未遂に終わっていますが、このことにより女性に怪我を負わせ、矢野は性犯罪者として逮捕されることとなりました。いずれの3件とも手口が同じことから、一連の事件は全て矢野による犯行であると断定されています。

懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けていた

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強制わいせつ事件を起こして逮捕された矢野は、懲役3年6ヶ月の実刑判決を受け、服役することとなりました。

その際、矢野の弁護を担当した弁護士の男性によれば、矢野はやはり大人しい印象だったと言います。矢野は地元でバンドを抜けて東京に来たはいいが、友達もおらず孤立してしまったことにより鬱屈してしまい、犯行を起こしてしまったとのことです。

また、好きだった女性にふられたというような趣旨のことも弁護士に話していました。

わいせつ事件出所後の矢野富栄

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強制わいせつ事件で服役していた矢野ですが、刑期を全うして出所し、その後は実家のある山口県下関市に戻ります。

どうにか働き口も見つかり、一度は罪を犯した身ながらも、更生してこれから人生をやり直していくはずでしたが、2009年10月26日、矢野は日本中を震撼させた、あのおぞましい事件を起こしてしまいます。

ここでは、矢野が3年6ヶ月の刑期を終えて出所してから、島根女子大生死体遺棄事件を起こすまでの経緯を見ていきます。

下関市のライブハウスに訪れる

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やはり音楽活動に未練があったのか、矢野は出所後、地元の下関市でバンド活動をしていた際によく利用していたライブハウスを訪れています。

バンドを抜けてからもドラムを続けていた矢野ですが、とある病気を抱えているとして音楽活動を断念していました。矢野はこの病気についてSNSで、自分の意志に反して筋肉が硬直してしまう「フォーカルジストニア」という病気であると言っています。

訪れたライブハウスの経営者にも「腕を悪くしたからもうバンド活動はできない」と語っていたそうです。

mixiで「dr.よしゆき」として活動、ファンもいた?

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矢野は当時流行っていたSNSのmixiを利用しており、その中で「dr.よしゆき」と名乗っていました。矢野のプロフィールにはビジュアル系の姿で自撮りをした写真が載っていて、いかにもミュージシャンを気取っている風でしたが、そんな矢野にファンがいたかどうかは不明です。

好きな本として『天使と悪魔』、『ダ・ヴィンチ・コード』という二つの猟奇サスペンス小説を挙げていますが、これらの小説を読んだことが島根の事件を起こしたことに関係したかどうか、矢野が死亡した今となっては知る術はありません。

また、コメント欄には「来る者は拒まず、去る者は地獄の果てまで追って行きます」と書いてあり、人に対する矢野の異常なまでの執着心が現れている言葉ともとれます。

当初警察は遺体の様子から医学的知識がある人物が犯人ではないかと考えており、矢野はmixiで「dr」と名乗っていますが、何か医学の知識はあったのでしょうか。

ソーラーパネル会社へ就職

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出所後もしばらくはアルバイトで働いていた矢野は、その後、ハローワークを通じて地元下関市に本社を構えるソーラーパネル会社へと就職することとなります。矢野はこの会社で働くことに意欲を見せていたようで、面接の際には「これからは太陽光発電だ」と語っていたといいます。

入社後も、たびたびSNSに契約が取れたことを喜んでいるようなコメントを掲載していますが、次第に仕事に対するグチのようなコメントが増えてゆき、ある時には「契約を取るために毎日ゾンビのように徘徊している」とコメントするなど、疲労とストレスを溜めている様子でした。

この会社に勤めることになり、矢野は島根県の益田営業所で働くことになりました。この営業所がある益田市は、平岡さんの住んでいた浜田市と隣接しており、矢野は営業で浜田市に行くこともあったようです。

島根女子大生死体遺棄事件を起こす

Skull And Crossbones Weird - Free image on Pixabay (650739)

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