目次
- 八甲田雪中行軍遭難事件とは?
- 行軍の目的
- 行軍のルート
- 八甲田雪中行軍遭難事件の経緯
- 行軍の準備
- 1日目
- 第1露営地
- 2日目
- 第2露営地
- 3日目
- 第3露営地
- 4日目
- 5日目
- 6日目
- 7日目
- 8日目
- 9日~10日目
- 11日目
- 八甲田雪中遭難事件の犠牲者
- 八甲田雪中遭難事件の生存者とその後
- 八甲田雪中遭難事件の生存者
- 生存者のその後
- 遭難事件の救助活動
- 捜索方法
- 遺体収集
- 遭難事件の原因
- 気象条件
- 情報収集不足
- 軽装備
- 指揮系統の混乱
- 認識不足
- 八甲田雪中行軍事件の悲惨な状況
- 八甲田雪中事件の疑問点
- 弘前隊は遭難者を目撃していた?
- 山口少佐の他殺説
- 八甲田山は現在心霊スポットに
- 遭難者たちの霊の目撃情報
- 陸上自衛隊員の体験談
- 謎の119番通報
- 慰霊碑近くの寮に現れる霊
- 城ヶ倉大橋は自殺の名所
- 史上最大級の山岳遭難事故
2月2日、大崩沢付近の炭焼き小屋で4名の生存者が発見され、田代温泉付近では最後の生存者となる村松伍長が発見されます。
この村松伍長は温泉のお湯を飲んで生存していましたが、30日になると立つ事も出来なくなり、そのまま雪を食べて生き延びたとされています。
また、炭焼き小屋で発見された者も当初は8名の生存者がいましたが、その中でもまだ元気であった3名は帰営を目指したのちに全員が凍死したとされています。
この村松伍長は温泉のお湯を飲んで生存していましたが、30日になると立つ事も出来なくなり、そのまま雪を食べて生き延びたとされています。
また、炭焼き小屋で発見された者も当初は8名の生存者がいましたが、その中でもまだ元気であった3名は帰営を目指したのちに全員が凍死したとされています。
八甲田雪中遭難事件の犠牲者
via pixabay.com
八甲田雪中行軍に参加した210名の中、実に199名が死亡するという異例な事態となってしまい、最終的な生存率はなんと5.2パーセントという史上最悪の遭難事故に至りました。
死んでいった者も、発狂して裸のまま雪に飛び込む者や極限状態となり雪の中を泳ぐ者、脱衣も出来ぬまま尿を垂れ流して凍死する者などが相次いだと記されています。
私たちが「寒さ」と聞いても想像出来ないような事が実際に起きていたのです。マイナス25度までにもなる真冬の青森での行軍ですから、それはまさに「死の行軍」と呼ぶにふさわしい痛ましい事故となってしまったのです。
死んでいった者も、発狂して裸のまま雪に飛び込む者や極限状態となり雪の中を泳ぐ者、脱衣も出来ぬまま尿を垂れ流して凍死する者などが相次いだと記されています。
私たちが「寒さ」と聞いても想像出来ないような事が実際に起きていたのです。マイナス25度までにもなる真冬の青森での行軍ですから、それはまさに「死の行軍」と呼ぶにふさわしい痛ましい事故となってしまったのです。
八甲田雪中遭難事件の生存者とその後
via pixabay.com
この遭難事件で救助された者は総勢17名いたものの、救助後に死亡した者が6名おり、最終的に生存者は雪中行軍に参加した210名の内たったの11名だけとなってしまったのです。
そんな彼らは、生き残ったのちにどんな運命を辿る事となったのでしょうか。
そんな彼らは、生き残ったのちにどんな運命を辿る事となったのでしょうか。
八甲田雪中遭難事件の生存者
via pixabay.com
倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長、後藤伍長、小原伍長、及川伍長、村松伍長、阿部卯吉一等卒、阿部寿松一等卒、後藤一等卒、山本一等卒が生還を果たしました。
生存した者でも、倉石大尉と伊藤中尉と長谷川特務曹長を除いた全員が体の一部を切断しなければならないほどの重度の凍傷を負う事となり、中には四股切断を余儀なくされた者もいるのです。
僅かな確率で生還出来ても四股を奪われる事となり、200名余りもの命が想像を絶する寒さの中で命を絶っていったこの遭難事故は、現在もなお上回るものはありません。
生存した者でも、倉石大尉と伊藤中尉と長谷川特務曹長を除いた全員が体の一部を切断しなければならないほどの重度の凍傷を負う事となり、中には四股切断を余儀なくされた者もいるのです。
僅かな確率で生還出来ても四股を奪われる事となり、200名余りもの命が想像を絶する寒さの中で命を絶っていったこの遭難事故は、現在もなお上回るものはありません。
生存者のその後
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生き残ったと言えども、凍傷処置だった為に現実は悲惨なものでした。生存者の中でも手足を失った者が多く、士官で体に不自由がないと判断された者たちは、日露戦争に送られる事となるのです。
結果、生き残った者たちも見事に日露戦争に散っていく末路を辿る事となったのです。ちなみにですが、全員で帰営した弘前31連隊も福島大尉をはじめとする多数が日露戦争にて戦死しました。
結果、生き残った者たちも見事に日露戦争に散っていく末路を辿る事となったのです。ちなみにですが、全員で帰営した弘前31連隊も福島大尉をはじめとする多数が日露戦争にて戦死しました。
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手足を切断された兵らは除隊して故郷に帰りましたが、地元では当然ながら「八甲田の生き残り」だと英雄扱いされたそうで、妻になりたい希望者が殺到したのだそうです。
生存者の中で最も長く生き延びれたのが、小原忠三郎伍長であり、昭和45年2月の享年91歳まで生存していましたが、両手指と両足を切断していました。
生存者の中で最も長く生き延びれたのが、小原忠三郎伍長であり、昭和45年2月の享年91歳まで生存していましたが、両手指と両足を切断していました。
遭難事件の救助活動
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当時の救助活動では、青森連隊や弘前連隊はもちろん、仙台第5砲兵隊までもが出動し、延べにして一万人の救助隊が動員される大掛かりな体制がとられました。
生存者の救出が終わり、捜索方法の確立後には青森連隊が独自で救助を行ったそうです。一体、どのような救助活動を行ったのか具体的に解説致します。
生存者の救出が終わり、捜索方法の確立後には青森連隊が独自で救助を行ったそうです。一体、どのような救助活動を行ったのか具体的に解説致します。
捜索方法
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日中6時間ほどをかけて30人1列の横隊で捜索を行いました。行軍の経路は生存者からの証言と行軍計画から割り出したのです。
長さ10mにわたる竹棒を雪に突き刺して進み、少しでも違和感のある場所を感じれば雪を掘削する方法で行われました。
1月経てば気温の変化もある事から、溶けだした雪が捜索隊に踏み固められてシャーベットのようになり、竹棒は刺さらずに鉄棒へと切り替えられました。
長さ10mにわたる竹棒を雪に突き刺して進み、少しでも違和感のある場所を感じれば雪を掘削する方法で行われました。
1月経てば気温の変化もある事から、溶けだした雪が捜索隊に踏み固められてシャーベットのようになり、竹棒は刺さらずに鉄棒へと切り替えられました。
遺体収集
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遺体を発見すると、数名で雪から掘り出して哨戒所へ運ぶ事が繰り返されました。哨戒所へ一旦収集されると捜査本部へ集積されます。
遺体があまりの極寒で凍りついてしまっていた為、関節部分からバラバラに砕けてしまう恐れがあり、複数人で慎重に扱わなければならなかったのです。
最終的には遺体は5連隊駐屯所で遺族に確認してもらったのちに故郷に戻されましたが、腐敗の為身元不明の遺体もあったといいます。
遺体があまりの極寒で凍りついてしまっていた為、関節部分からバラバラに砕けてしまう恐れがあり、複数人で慎重に扱わなければならなかったのです。
最終的には遺体は5連隊駐屯所で遺族に確認してもらったのちに故郷に戻されましたが、腐敗の為身元不明の遺体もあったといいます。
遭難事件の原因
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この雪中行軍は、日にちを分けて2部隊で行われましたが、片や弘前隊は全員生還しており、片や青森隊は遭難の末路を辿りました。
もちろんルートは異なりますが、同じ場所で行われた訓練で、どうしてこのような結果になったのでしょうか。
遭難に至った原因を追求していきましょう。
もちろんルートは異なりますが、同じ場所で行われた訓練で、どうしてこのような結果になったのでしょうか。
遭難に至った原因を追求していきましょう。
気象条件
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一番大きな原因と言えるのは、やはり気象条件だったのではないでしょうか。八甲田山は世界でも有数な豪雪地帯だと言われています。
観測係であった看護兵が、記録を残す事も出来ずに亡くなってしまった為に定かではありませんが、当時マイナス20度以下だったと推測されます。
このマイナス20~25度の気象条件では、たとえ遭難に至らなくとも過酷を極まるものだったでしょう。
観測係であった看護兵が、記録を残す事も出来ずに亡くなってしまった為に定かではありませんが、当時マイナス20度以下だったと推測されます。
このマイナス20~25度の気象条件では、たとえ遭難に至らなくとも過酷を極まるものだったでしょう。
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