目次
- 八甲田雪中行軍遭難事件とは?
- 行軍の目的
- 行軍のルート
- 八甲田雪中行軍遭難事件の経緯
- 行軍の準備
- 1日目
- 第1露営地
- 2日目
- 第2露営地
- 3日目
- 第3露営地
- 4日目
- 5日目
- 6日目
- 7日目
- 8日目
- 9日~10日目
- 11日目
- 八甲田雪中遭難事件の犠牲者
- 八甲田雪中遭難事件の生存者とその後
- 八甲田雪中遭難事件の生存者
- 生存者のその後
- 遭難事件の救助活動
- 捜索方法
- 遺体収集
- 遭難事件の原因
- 気象条件
- 情報収集不足
- 軽装備
- 指揮系統の混乱
- 認識不足
- 八甲田雪中行軍事件の悲惨な状況
- 八甲田雪中事件の疑問点
- 弘前隊は遭難者を目撃していた?
- 山口少佐の他殺説
- 八甲田山は現在心霊スポットに
- 遭難者たちの霊の目撃情報
- 陸上自衛隊員の体験談
- 謎の119番通報
- 慰霊碑近くの寮に現れる霊
- 城ヶ倉大橋は自殺の名所
- 史上最大級の山岳遭難事故
via pixabay.com
隊は第二露営地を鳴沢付近の窪地に定めます。行軍はなんと14時間半に及んだにも関わらず、進軍出来たのは第一露営地から直線距離にしてたったの700mに留まったのです。
ここで例によって雪壕を掘って露営しようとするも、その道具を持っていた者は全員落伍で行方不明状態となっており、そのまま吹雪の中で露営する事となってしまったのです。微量にも食料は残っていたものの、ほとんどが凍結している事態です。
この時、あまりの寒さで体感温度はマイナス50度近くであったと言い、不眠と空腹も加わった事から多くの兵が凍死していきました。この第二露営地は、同遭難中で最多の死傷者を出す事となったのです。
ここで例によって雪壕を掘って露営しようとするも、その道具を持っていた者は全員落伍で行方不明状態となっており、そのまま吹雪の中で露営する事となってしまったのです。微量にも食料は残っていたものの、ほとんどが凍結している事態です。
この時、あまりの寒さで体感温度はマイナス50度近くであったと言い、不眠と空腹も加わった事から多くの兵が凍死していきました。この第二露営地は、同遭難中で最多の死傷者を出す事となったのです。
3日目
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3日目、凍死者の続出から予定を変更して3時頃に馬立場の方を目指して出発しますが、この時既に行方不明者を含めて死者は70名を超えていました。生存している者もほとんどが凍傷になり、当てなく彷徨う事となります。
四方の行く道を遮られ、将校たちは協議の末に部隊の解散を発表します。各自で進路を確保して帰還するよう命じましたが、この時に悪夢のような光景が繰り広げられる事となるのです。
この言葉に続いて大尉からの「天は我らを見捨てたらしい」との言葉を聞いた兵らは、これまで何とか自身を奮い立たせて頑張ってきた糸が切れ、狂行に及ぶ者が続出したのです。
四方の行く道を遮られ、将校たちは協議の末に部隊の解散を発表します。各自で進路を確保して帰還するよう命じましたが、この時に悪夢のような光景が繰り広げられる事となるのです。
この言葉に続いて大尉からの「天は我らを見捨てたらしい」との言葉を聞いた兵らは、これまで何とか自身を奮い立たせて頑張ってきた糸が切れ、狂行に及ぶ者が続出したのです。
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凍傷から着衣のままに放尿し、そのまま陰部が凍結して死に至ったり、希望を叫んで川に飛び込む者や銃剣で木を切りつける者、この極寒の中に服を脱ぎ出す者など発狂する兵らで溢れかえったのです。
八甲田雪中行軍遭難事件に基づいた映画がありますが、このシーンが特にセンセーションで、あたり一面吹雪の中で兵がふんどし一丁で発狂しているワンシーンはとても有名です。
これによって約30名が凍死し、十数名が行方不明となってしまったのです。実質バラバラとなった隊の中で帰路を見出した班もあり、この時点で初めの3分の1ほどの60〜70名となっていました。
八甲田雪中行軍遭難事件に基づいた映画がありますが、このシーンが特にセンセーションで、あたり一面吹雪の中で兵がふんどし一丁で発狂しているワンシーンはとても有名です。
これによって約30名が凍死し、十数名が行方不明となってしまったのです。実質バラバラとなった隊の中で帰路を見出した班もあり、この時点で初めの3分の1ほどの60〜70名となっていました。
第3露営地
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行軍を再開した隊は中ノ森東方山腹に達したものの、途中で行方不明になる者もおり、医療班たちも限界に達してとうとう自身らも倒れてしまいました。
残された倉石大尉はカヤイド沢に降りて按木の森付近を第三露営地に定めるも、バラバラとなった部隊は伝令を送っても集まるはずはなく、合流を果たせた山口隊と露営する事となります。
ここでも互いに眠らないように叩きあったり叫んだりと必死で凍死を回避し、既に亡くなった者の背嚢を燃やして暖をとったのも虚しく、多くの兵が凍死していったのです。
残された倉石大尉はカヤイド沢に降りて按木の森付近を第三露営地に定めるも、バラバラとなった部隊は伝令を送っても集まるはずはなく、合流を果たせた山口隊と露営する事となります。
ここでも互いに眠らないように叩きあったり叫んだりと必死で凍死を回避し、既に亡くなった者の背嚢を燃やして暖をとったのも虚しく、多くの兵が凍死していったのです。
4日目
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4日目となる1月26日、将兵らは既に約30名までに減っていました。隊列を成す事もままならず、階級や所属など関係なく「動ける者は後に続く」状態で前方高地を偵察しながら進んでいきます。
飢えや寒さで昏睡状態に陥ったものの、運よく凍死せずにこの日の朝に目覚めた後藤伍長は、神成大尉と鈴木少尉らと出会え、共に行動するようになります。極限状態から2時間の距離を1日かけて到着し、賽の河原の間で露営を決定します。
この日に60名ほどの救援隊が屯営を出発しましたが、案内人となる村民がなかなか調達出来ず、またマイナス14度の悪天候であった為に捜索を打ち切っていました。
飢えや寒さで昏睡状態に陥ったものの、運よく凍死せずにこの日の朝に目覚めた後藤伍長は、神成大尉と鈴木少尉らと出会え、共に行動するようになります。極限状態から2時間の距離を1日かけて到着し、賽の河原の間で露営を決定します。
この日に60名ほどの救援隊が屯営を出発しましたが、案内人となる村民がなかなか調達出来ず、またマイナス14度の悪天候であった為に捜索を打ち切っていました。
5日目
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生存者のうち、後藤伍長を含む神成大尉率いる数名は田茂木野へ、山口少佐を含んだ倉石大尉率いる20名は青森を目指し、二手に別れて進む事が決定しました。
しかし進んでいく中で倉石班は懸崖にはまって難航してしまい、神成班も猛吹雪に直面した為に落伍者が続出し、4名となってしまったのです。ここで、神成大尉は後藤伍長に救援要請を命じます。
一方、捜索活動を再開した救援隊は午前10時半頃に大滝平付近の小隊を発見します。大雪の中で立ったままの後藤伍長を発見するも、その近くで神成大尉は遺体として発見されました。
しかし進んでいく中で倉石班は懸崖にはまって難航してしまい、神成班も猛吹雪に直面した為に落伍者が続出し、4名となってしまったのです。ここで、神成大尉は後藤伍長に救援要請を命じます。
一方、捜索活動を再開した救援隊は午前10時半頃に大滝平付近の小隊を発見します。大雪の中で立ったままの後藤伍長を発見するも、その近くで神成大尉は遺体として発見されました。
6日目
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倉石班の方はこの日、佐藤特務曹長が発狂し、他の兵らと共に川へ飛び込んだ末に岩に引っかかって凍死します。その後、倉石大尉は数名の兵を連れて崖穴に入るのですが、山口少佐は危険である川岸から動こうとしないのです。
より安全である崖穴の方へ招くも、山口少佐は「吾は此処にて死せん」として拒んだと言います。この時、他の兵らと比べて動けていた山本徳次郎が山口少佐に水を与える役目として付いていました。
そしてこの日、弘前31連隊は八甲田山を逆方面より行軍してきており、露営していた田代から田茂木野まで行軍を続けます。
より安全である崖穴の方へ招くも、山口少佐は「吾は此処にて死せん」として拒んだと言います。この時、他の兵らと比べて動けていた山本徳次郎が山口少佐に水を与える役目として付いていました。
そしてこの日、弘前31連隊は八甲田山を逆方面より行軍してきており、露営していた田代から田茂木野まで行軍を続けます。
7日目
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7日目となる1月29日、弘前31連隊は強行軍の末に田茂木野に到着し、小休止を挟んだのちに再び出発し、同日午前7時20分に青森駅前に到着しました。
一方で神成班は救援隊が神成大尉、及川伍長の遺体収容を行なっていました。そして歩哨の詰め所となる各哨所も完成しました。
一方で神成班は救援隊が神成大尉、及川伍長の遺体収容を行なっていました。そして歩哨の詰め所となる各哨所も完成しました。
8日目
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8日目にして、数も少なくなった倉石班に、後藤惣助一等卒が合流する事となります。
そして4度目の露営地としていた付近でもあり、これまでに多くの村人たちが凍死したとされて名付けられた賽の河原で、中野中尉ら36名の遺体を救援隊たちが発見します。
そして4度目の露営地としていた付近でもあり、これまでに多くの村人たちが凍死したとされて名付けられた賽の河原で、中野中尉ら36名の遺体を救援隊たちが発見します。
9日~10日目
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駒込川、大滝平付近で救援隊らが山口少佐を含む9名の生存者を発見します。また、鳴沢付近では捜索に加わった人夫がウサギを追う内に炭小屋で生存者2名も発見されました。側には数時間前まで生きていた者の遺体もあったそうです。
この鳴沢では他にも33名の遺体が発見され、大滝平付近では鈴木少尉の遺体も発見されます。これらについて、捜索がもう一日早ければ助けられた命もあったと将校らがコメントを残しています。
午後3時頃には、崖を登っていた倉石大尉や伊藤中尉の4名が発見され、合計して9名の救助がされたものの救出後に死亡した者も多く、山口少佐もその一人です。翌日には新たに20名余りの遺体が発見されました。
この鳴沢では他にも33名の遺体が発見され、大滝平付近では鈴木少尉の遺体も発見されます。これらについて、捜索がもう一日早ければ助けられた命もあったと将校らがコメントを残しています。
午後3時頃には、崖を登っていた倉石大尉や伊藤中尉の4名が発見され、合計して9名の救助がされたものの救出後に死亡した者も多く、山口少佐もその一人です。翌日には新たに20名余りの遺体が発見されました。
11日目
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