目次
- 山岳ベース事件とは?
- 事件に大きく関わる当時の時代背景
- 学生運動が盛んな時代
- 赤軍派とは?
- 革命左派とは?
- 山岳ベース事件詳細
- 赤軍派と革命左派の合同軍事訓練
- 集団リンチを生んだ「総括」の始まり
- 総括と称した暴行の実態
- 山岳ベース事件首謀者の逮捕
- あさま山荘事件へ繋がる
- 山岳ベース事件の被害者一覧【時系列順】
- 尾崎充男
- 進藤隆三郎
- 小嶋和子
- 加藤能敬
- 遠山美枝子
- 行方正時
- 寺岡恒一
- 山崎順
- 山本順一
- 大槻節子
- 金子みちよ
- 山田孝
- 山岳ベースで集団リンチが起きた理由は?
- 森恒夫と永田洋子の関係性
- 永田洋子の嫉妬
- 外部の敵と戦えなかったため
- 目の前の問題から目をそらすため
- 反抗や脱走をなくすため
- 山岳ベース事件逮捕者の現在
- 森恒夫の現在
- 永田洋子の現在
- 山岳ベース事件に関係する幹部について
- 森恒夫
- 永田洋子
- 坂口弘
- 寺岡恒一
- 坂東國男
- 山田孝
- 吉野雅邦
- 仲間同士でリンチするという残忍な事件
山崎順は1950年生まれで東京都出身でした。都立日比谷高校を卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学します。政治運動に興味があり、中核派として活動を開始した後、赤軍派に移りました。
赤軍派では坂東の弟子になり金融機関の襲撃にも積極的に加わり、1971年11月に新倉ベースに入山します。しかし、棒名ベースで寺岡の死刑に加わらなかったことを追及され、総括を求められました。
その後、赤軍派時代の活動への関わり方や女性問題を取り上げられたり、逃走を考えていると疑われて、森から死刑を宣告されます。肋骨が6本も折れるなどの暴行を受けた後に、アイスピックで刺され、首を絞められて殺害されました。
赤軍派では坂東の弟子になり金融機関の襲撃にも積極的に加わり、1971年11月に新倉ベースに入山します。しかし、棒名ベースで寺岡の死刑に加わらなかったことを追及され、総括を求められました。
その後、赤軍派時代の活動への関わり方や女性問題を取り上げられたり、逃走を考えていると疑われて、森から死刑を宣告されます。肋骨が6本も折れるなどの暴行を受けた後に、アイスピックで刺され、首を絞められて殺害されました。
山本順一
via pixabay.com
山本順一は1943年生まれで愛知県出身でした。県立岡崎北高校を卒業後、北九州大学外国語学部に入学します。卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務しました。
1971年12月28日に妻と生後二ヶ月の長女とともに親子三人で棒名ベースに入山します。1972年の1月18日に脱走者が出たことでベースの移動を余儀なくされたメンバーたちは迦葉山にベースを建設することを決めます。この時、山本がベース間の連絡を任されます。
しかし、車を運転中にぬかるみにはめたことで批判され、それを認めず、傍観者的な態度を取ったとして総括を要求され正座させられます。迦葉山ベースに移動してからも総括できていないとされ、小屋の床下に縛られることになり、夜中にそのまま死亡しました。
1971年12月28日に妻と生後二ヶ月の長女とともに親子三人で棒名ベースに入山します。1972年の1月18日に脱走者が出たことでベースの移動を余儀なくされたメンバーたちは迦葉山にベースを建設することを決めます。この時、山本がベース間の連絡を任されます。
しかし、車を運転中にぬかるみにはめたことで批判され、それを認めず、傍観者的な態度を取ったとして総括を要求され正座させられます。迦葉山ベースに移動してからも総括できていないとされ、小屋の床下に縛られることになり、夜中にそのまま死亡しました。
大槻節子
via pixabay.com
大槻節子は1948年生まれで神奈川県の出身でした。県立大津高校を卒業後、横浜国立大学教育学部心理科に入学します。労働運動を目指してキャノンに入社後、1971年頃から革命左派組織部として活動しました。
米ソ大使館や羽田空港を襲撃の際には、陽動作戦として都内各所で火炎瓶を使い騒ぎを起こす役を担い逮捕されます。大槻は迦葉山ベースに移る数日前から自身の総括を求められており、かつて山岳ベースから逃走したメンバーと恋人関係にあったことから逃走後も接触していたことが問題視されると縛られることになりました。
迦葉山ベースに移動してからも小屋の床下に縛られ放置されます。永田が大槻に睨まれたと会議で主張したことで大槻に対し殴打による総括を決定され、メンバーたちが小屋の床下に向かいますが、寒さによりすでに死亡していました。
米ソ大使館や羽田空港を襲撃の際には、陽動作戦として都内各所で火炎瓶を使い騒ぎを起こす役を担い逮捕されます。大槻は迦葉山ベースに移る数日前から自身の総括を求められており、かつて山岳ベースから逃走したメンバーと恋人関係にあったことから逃走後も接触していたことが問題視されると縛られることになりました。
迦葉山ベースに移動してからも小屋の床下に縛られ放置されます。永田が大槻に睨まれたと会議で主張したことで大槻に対し殴打による総括を決定され、メンバーたちが小屋の床下に向かいますが、寒さによりすでに死亡していました。
金子みちよ
via pixabay.com
金子みちよは1948年生まれで神奈川県の出身でした。県立鶴見高校を卒業後、横浜国立大学教育学部社会学科に入学します。大学で吉野雅邦に出会い、吉野の救援活動をきっかけとして革命左派に入ります。1971年6月に小袖ベースに入山しますが、この時、金子は吉野の子供を妊娠していました。
棒名ベースにおいて懐中電灯の電池を盗んだとして総括を要求されます。金子は否定しましたが、森は信用せずに縛ることを提起します。ただ、金子が八か月の身重だったことから始めのうちは縛り方や食事も配慮されました。
しかし、妊娠や出産を理由に甘えているとされ、やがて食事を与えられなくなり、殴打されるようになります。迦葉山ベースに移動してからは小屋の床下に縛られていました。そのうちお腹の子供を心配して小屋の中に移されますが、徐々に衰弱していき死亡しました。
棒名ベースにおいて懐中電灯の電池を盗んだとして総括を要求されます。金子は否定しましたが、森は信用せずに縛ることを提起します。ただ、金子が八か月の身重だったことから始めのうちは縛り方や食事も配慮されました。
しかし、妊娠や出産を理由に甘えているとされ、やがて食事を与えられなくなり、殴打されるようになります。迦葉山ベースに移動してからは小屋の床下に縛られていました。そのうちお腹の子供を心配して小屋の中に移されますが、徐々に衰弱していき死亡しました。
山田孝
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山田孝は赤軍派のメンバーでした。車の調達のために上京したものの上手くいかずに迦葉山ベースに戻って報告したところ、森にそれを批判されます。しかも、上京している間にメンバーと一緒に銭湯に入ったことを問題視されて総括を欲求されます。
山田はこれに反論しますが、森はかたくなに追及を続け、総括することを求め続けます。やがて山田が連合赤軍の幹部を辞任すると、雪の中で正座をさせられたり、殴打されたり、逆エビ型に縛られたりしました。
その後、森と永田が東京に向かい、脱走者が出たことでアジトを移動しなければならず、雪の中で正座させられたことなどにより手足に凍傷を起こしていた山田は徐々に衰弱していき、妙技山で力尽きて死亡しました。
山田はこれに反論しますが、森はかたくなに追及を続け、総括することを求め続けます。やがて山田が連合赤軍の幹部を辞任すると、雪の中で正座をさせられたり、殴打されたり、逆エビ型に縛られたりしました。
その後、森と永田が東京に向かい、脱走者が出たことでアジトを移動しなければならず、雪の中で正座させられたことなどにより手足に凍傷を起こしていた山田は徐々に衰弱していき、妙技山で力尽きて死亡しました。
山岳ベースで集団リンチが起きた理由は?
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山岳ベースにおける同志への集団リンチ殺人はなぜ起こってしまったのでしょうか。何が若者たちを間違った道へと駆り立ててしまったのか、その原因を追究してみました。
森恒夫と永田洋子の関係性
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原因の一つして考えられるのが森恒夫と永田洋子の関係性です。赤軍派と革命左派が共闘関係を結び、連合赤軍が結成されますが、共闘とは名ばかりで、結成当初はお互いに主導権を握ろうとしていました。
主導権を握るためには自分を大きく見せる必要があり、常に強気な姿勢で虚勢を張り続ける必要がありました。両派がまだ連合赤軍を結成する前に、革命左派の山岳アジトから2人の脱走者が出た時も、これを報告した永田に対し、森は裏切り者は処刑するべきではないかと大きく出ます。
これは本心ではなく指導権を握るための虚勢でしたが、これを聞いた永田は森の意見を受け入れて、脱走した2人の同志の殺害を決定し、それを実行しました。革命左派は山岳ベース事件より前に、すでに同志殺害という一線を越えてしまっていたのです。
主導権を握るためには自分を大きく見せる必要があり、常に強気な姿勢で虚勢を張り続ける必要がありました。両派がまだ連合赤軍を結成する前に、革命左派の山岳アジトから2人の脱走者が出た時も、これを報告した永田に対し、森は裏切り者は処刑するべきではないかと大きく出ます。
これは本心ではなく指導権を握るための虚勢でしたが、これを聞いた永田は森の意見を受け入れて、脱走した2人の同志の殺害を決定し、それを実行しました。革命左派は山岳ベース事件より前に、すでに同志殺害という一線を越えてしまっていたのです。
永田洋子の嫉妬
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永田洋子の嫉妬も原因の一つと言われています。永田本人はこれを否定していますが、連合赤軍の女性メンバーに対する永田の嫉妬は特に被害者となった女性に強く向けられていたと言います。
遠山美枝子の総括においては、およそ30分もの間、自分で自分を殴らせた後に、遠山の顔の前に鏡を持っていき、腫れ上がった顔を見ることを強要しました。
妊婦だった金子みちよの総括においては、金子がお腹の子供を私物化しようとしているとして母体から子供を取り出すことも考えていたと言われています。
遠山美枝子の総括においては、およそ30分もの間、自分で自分を殴らせた後に、遠山の顔の前に鏡を持っていき、腫れ上がった顔を見ることを強要しました。
妊婦だった金子みちよの総括においては、金子がお腹の子供を私物化しようとしているとして母体から子供を取り出すことも考えていたと言われています。
外部の敵と戦えなかったため
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連合赤軍のメンバーは警察に追われていたために潜伏生活を余儀なくされていました。そのため、殲滅戦のために必要な武器を手にしているにもかかわらず活動することができませんでした。
また冬の山岳ベースの暮らしは厳しく、外部の敵と戦えない鬱憤も溜まっていきました。それが本来の目的を見失わせ、本来ならば外部の敵に向けるはずだったものが内部に向いてしまいます。
そして、総括と称した暴力が次第にエスカレートしていき、12人もの同志を殺害してしまうという結果に繋がってしまったのです。
また冬の山岳ベースの暮らしは厳しく、外部の敵と戦えない鬱憤も溜まっていきました。それが本来の目的を見失わせ、本来ならば外部の敵に向けるはずだったものが内部に向いてしまいます。
そして、総括と称した暴力が次第にエスカレートしていき、12人もの同志を殺害してしまうという結果に繋がってしまったのです。
目の前の問題から目をそらすため
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総括援助として殴打を取り入れたことにより同志が亡くなった時に、森はこれを「敗北死」としました。同志を殴って死に至らしめたという現実や罪悪感から逃れるために、自分たちの行いを正当化しようとしたのです。
メンバーの多くがこれを受け入れて、目の前の問題から目を逸らしてしまったのが、その後も集団リンチが行われ続けた原因でした。中にはおかしいと感じていたにもかかわらず、それを言うことができないメンバーもいました。
指摘して、「党のためだから」と返されたことで口をつぐんだメンバーもいました。でも、早い段階で誰かが強く否定していたなら、ここまで犠牲者が出ることもなかったのではないでしょうか。
メンバーの多くがこれを受け入れて、目の前の問題から目を逸らしてしまったのが、その後も集団リンチが行われ続けた原因でした。中にはおかしいと感じていたにもかかわらず、それを言うことができないメンバーもいました。
指摘して、「党のためだから」と返されたことで口をつぐんだメンバーもいました。でも、早い段階で誰かが強く否定していたなら、ここまで犠牲者が出ることもなかったのではないでしょうか。
反抗や脱走をなくすため
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