目次
- 山岳ベース事件とは?
- 事件に大きく関わる当時の時代背景
- 学生運動が盛んな時代
- 赤軍派とは?
- 革命左派とは?
- 山岳ベース事件詳細
- 赤軍派と革命左派の合同軍事訓練
- 集団リンチを生んだ「総括」の始まり
- 総括と称した暴行の実態
- 山岳ベース事件首謀者の逮捕
- あさま山荘事件へ繋がる
- 山岳ベース事件の被害者一覧【時系列順】
- 尾崎充男
- 進藤隆三郎
- 小嶋和子
- 加藤能敬
- 遠山美枝子
- 行方正時
- 寺岡恒一
- 山崎順
- 山本順一
- 大槻節子
- 金子みちよ
- 山田孝
- 山岳ベースで集団リンチが起きた理由は?
- 森恒夫と永田洋子の関係性
- 永田洋子の嫉妬
- 外部の敵と戦えなかったため
- 目の前の問題から目をそらすため
- 反抗や脱走をなくすため
- 山岳ベース事件逮捕者の現在
- 森恒夫の現在
- 永田洋子の現在
- 山岳ベース事件に関係する幹部について
- 森恒夫
- 永田洋子
- 坂口弘
- 寺岡恒一
- 坂東國男
- 山田孝
- 吉野雅邦
- 仲間同士でリンチするという残忍な事件
赤軍メンバーの幹部たちは警察から指名手配されていたので、メンバーが脱走して警察に出頭することや逮捕されることをとても警戒していました。誰かが逮捕されれば、同志殺しがばれて死刑になることが分かっていたからです。
そのため、総括させるための暴力が次第に反抗や脱走をなくすための暴力に変わっていきました。総括による犠牲者が増えていくにつれ、猜疑心と恐怖心がどんどん膨らんでいき、少しでも怪しい動きをしたメンバーは総括対象者に仕立て上げられたのです。
そのため、総括させるための暴力が次第に反抗や脱走をなくすための暴力に変わっていきました。総括による犠牲者が増えていくにつれ、猜疑心と恐怖心がどんどん膨らんでいき、少しでも怪しい動きをしたメンバーは総括対象者に仕立て上げられたのです。
山岳ベース事件逮捕者の現在
via pixabay.com
山岳ベース事件を引き起こした連合赤軍の最高幹部だった森恒夫と連合赤軍でナンバー2だった永田洋子のその後についてまとめてみました。二人ともすでに死亡していますので、逮捕後から亡くなるまでの経緯を紹介しています。
森恒夫の現在
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森恒夫は普段から仲間に逮捕された時は完全黙秘を強要していました。しかし、1972年2月17日に逮捕された後、しばらくは黙秘していましたが、やがて自供を始めます。
そして、初公判を前にした、1973年1月1日、山岳ベース事件の総括を自分なりにした森は、自分で自分を処刑することを決定したことを遺書に書き残して、東京拘置所内の独房で首を吊って自殺を図ります。
発見時にはまだかすかに心臓が動いていましたが、蘇生措置を施したもののそのまま心停止して死亡しました。
そして、初公判を前にした、1973年1月1日、山岳ベース事件の総括を自分なりにした森は、自分で自分を処刑することを決定したことを遺書に書き残して、東京拘置所内の独房で首を吊って自殺を図ります。
発見時にはまだかすかに心臓が動いていましたが、蘇生措置を施したもののそのまま心停止して死亡しました。
永田洋子の現在
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永田洋子は逮捕された後、獄中にいた川島豪と対立して革命左派から永久除名されました。1974年に獄中にて赤軍派の最高指導者である塩見孝也が赤軍派プロ革派を結成し、これに参加しますが、1980年には塩見とも決別します。
1983年に死刑判決が下され、控訴しますが、控訴審・上告審でも判決は覆りませんでした。1993年2月19日に最高裁判所で死刑が確定し、再審請求しますが、棄却されました。
再審請求棄却前に脳腫瘍を患った永田は手術を受けましたが、手術後はほぼ寝たきり状態となります。晩年は会話もできなくなり、2011年2月5日に東京拘置所で脳委縮と肺炎により獄死しました。
1983年に死刑判決が下され、控訴しますが、控訴審・上告審でも判決は覆りませんでした。1993年2月19日に最高裁判所で死刑が確定し、再審請求しますが、棄却されました。
再審請求棄却前に脳腫瘍を患った永田は手術を受けましたが、手術後はほぼ寝たきり状態となります。晩年は会話もできなくなり、2011年2月5日に東京拘置所で脳委縮と肺炎により獄死しました。
山岳ベース事件に関係する幹部について
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山岳ベース事件を起こした連合赤軍の幹部について、情報をまとめてみました。事件前の経歴を主に、逮捕後にどうなったのかも紹介しています。
森恒夫
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森恒夫は1944年12月に大阪市大淀区で生まれます。府立北野高校卒業後、大阪市立大学に入学しました。高校では剣道部に所属し、学生運動にはあまり興味がなかったといいます。
大学時代に共産主義者同盟関西派の田宮高麿と出会い、1965年11月に日韓条約批准阻止のデモを指揮して逮捕されました。1969年7月に対立していた関東派を襲撃した際には敵前逃亡をして大阪に戻ります。
しばらく組織から離れていましたが、1969年12月に関西派から結成された赤軍派の幹部が大量に検挙されたことで復帰が認められて赤軍派に参加します。この後、塩見が逮捕され、田宮が北朝鮮に亡命すると、赤軍派の実権を握るようになりました。
大学時代に共産主義者同盟関西派の田宮高麿と出会い、1965年11月に日韓条約批准阻止のデモを指揮して逮捕されました。1969年7月に対立していた関東派を襲撃した際には敵前逃亡をして大阪に戻ります。
しばらく組織から離れていましたが、1969年12月に関西派から結成された赤軍派の幹部が大量に検挙されたことで復帰が認められて赤軍派に参加します。この後、塩見が逮捕され、田宮が北朝鮮に亡命すると、赤軍派の実権を握るようになりました。
永田洋子
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永田洋子は1945年に東京都文京区で生まれます。私立調布学園中等部から高等部へと進学し、卒業後は共立薬科大学薬学部に入学します。気性が激しくオシャレなどには無頓着で、在学中にどんどん学生運動にのめり込んでいきました。
1964年には社学同ML派に加盟します。大学卒業後は薬剤師として働き始めますが、職場になじめずに職場を転々としました。1967年に社学同ML派から分派して警鐘(革命左派の源流である組織)を結成した河北三男に勧誘されてこれに参加します。
ただ、この頃はまだ正式な党員として認められておらず、有力メンバーと見なされるようになったのは革命左派が結成されてからでした。そして、最高指導者である川島豪が逮捕されたことをきっかけに、残された幹部で投票した結果、永田が革命左派の最高幹部に選出されました。
1964年には社学同ML派に加盟します。大学卒業後は薬剤師として働き始めますが、職場になじめずに職場を転々としました。1967年に社学同ML派から分派して警鐘(革命左派の源流である組織)を結成した河北三男に勧誘されてこれに参加します。
ただ、この頃はまだ正式な党員として認められておらず、有力メンバーと見なされるようになったのは革命左派が結成されてからでした。そして、最高指導者である川島豪が逮捕されたことをきっかけに、残された幹部で投票した結果、永田が革命左派の最高幹部に選出されました。
坂口弘
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坂口弘は1946年に千葉県で生まれます。子供時代から日本共産党に興味があり、中学2年のときに60年安保闘争をテレビで見て興奮したといいます。木更津高校を卒業後、東京水産大学に入学しました。
坂口は同じ水泳部だった4年生の川島豪を慕い、川島が大学を卒業した後も交流を重ね、やがて革命左派のメンバーとなり活動します。連合赤軍ではナンバー3に位置しており、山岳ベース事件の後にあさま山荘に立てこもりました。
あさま山荘事件では坂口がリーダー格であり、徹底的に抗戦することを決めたといいます。裁判では死刑が確定しており、現在も東京拘置所に収監されています。
坂口は同じ水泳部だった4年生の川島豪を慕い、川島が大学を卒業した後も交流を重ね、やがて革命左派のメンバーとなり活動します。連合赤軍ではナンバー3に位置しており、山岳ベース事件の後にあさま山荘に立てこもりました。
あさま山荘事件では坂口がリーダー格であり、徹底的に抗戦することを決めたといいます。裁判では死刑が確定しており、現在も東京拘置所に収監されています。
寺岡恒一
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寺岡恒一は1948年生まれで東京都出身でした。市立芝高校を卒業後、横浜国立大学工学部に入学します。1969年の革命左派結成当時からのメンバーであり、反米愛国行動隊としてソ連大使館に襲撃して逮捕されました。
革命左派のメンバーが獄中にいる最高指導者の川島豪を奪還するために銃を手に入れようとして起こした銃砲店襲撃事件にも関与しており、連合赤軍では幹部としてナンバー6についていましたが、山岳ベース事件の被害者となりました。
革命左派のメンバーが獄中にいる最高指導者の川島豪を奪還するために銃を手に入れようとして起こした銃砲店襲撃事件にも関与しており、連合赤軍では幹部としてナンバー6についていましたが、山岳ベース事件の被害者となりました。
坂東國男
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坂東國男は1947年1月に滋賀県大津市で生まれます。地元の進学校である県立膳所高校を卒業後に一浪して京都大学農学部に入学します。まもなく新左翼シンパとして政治運動に参加するようになり、1969年4月に赤軍派に加わります。
射撃の名手と言われており、「坂東隊」のリーダーとして金融機関を襲撃して現金を奪い、それを活動資金にあてていました。あさま山荘事件を起こしたメンバーの一人でもあり、坂東の逮捕直前にテレビでずっと中継を見ていた父親が自殺しています。
1975年に日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で、坂東は超法規的措置により釈放され、そのまま国外に逃亡し、現在も国際手配されています。
射撃の名手と言われており、「坂東隊」のリーダーとして金融機関を襲撃して現金を奪い、それを活動資金にあてていました。あさま山荘事件を起こしたメンバーの一人でもあり、坂東の逮捕直前にテレビでずっと中継を見ていた父親が自殺しています。
1975年に日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で、坂東は超法規的措置により釈放され、そのまま国外に逃亡し、現在も国際手配されています。
山田孝
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