目次
- 山岳ベース事件とは?
- 事件に大きく関わる当時の時代背景
- 学生運動が盛んな時代
- 赤軍派とは?
- 革命左派とは?
- 山岳ベース事件詳細
- 赤軍派と革命左派の合同軍事訓練
- 集団リンチを生んだ「総括」の始まり
- 総括と称した暴行の実態
- 山岳ベース事件首謀者の逮捕
- あさま山荘事件へ繋がる
- 山岳ベース事件の被害者一覧【時系列順】
- 尾崎充男
- 進藤隆三郎
- 小嶋和子
- 加藤能敬
- 遠山美枝子
- 行方正時
- 寺岡恒一
- 山崎順
- 山本順一
- 大槻節子
- 金子みちよ
- 山田孝
- 山岳ベースで集団リンチが起きた理由は?
- 森恒夫と永田洋子の関係性
- 永田洋子の嫉妬
- 外部の敵と戦えなかったため
- 目の前の問題から目をそらすため
- 反抗や脱走をなくすため
- 山岳ベース事件逮捕者の現在
- 森恒夫の現在
- 永田洋子の現在
- 山岳ベース事件に関係する幹部について
- 森恒夫
- 永田洋子
- 坂口弘
- 寺岡恒一
- 坂東國男
- 山田孝
- 吉野雅邦
- 仲間同士でリンチするという残忍な事件
1972年2月4日に森と永田は車と活動資金を調達するために東京に出発します。連合赤軍のメンバーは棒名ベースから迦葉山ベースに移動しており、この時点で、棒名ベースでは8名、迦葉山ベースでは3名の同志たちが「総括」と称した暴行の犠牲になっていました。
森と永田が山岳ベースを離れたことにより、逃げるなら今しかないと考えたメンバーの数人が各々脱走していきます。メンバーの脱走により警察への発覚を恐れた残りのメンバーは妙義山に移動しました。
2月15日に都内のアジトにいた森と永田は、棒名ベース跡地が警察に知られたことを知り、妙義山に向かって出発します。2月17日に妙義山に着いた二人は、山狩りをしていた警察官に包囲され、格闘の末、逮捕されました。
森と永田が山岳ベースを離れたことにより、逃げるなら今しかないと考えたメンバーの数人が各々脱走していきます。メンバーの脱走により警察への発覚を恐れた残りのメンバーは妙義山に移動しました。
2月15日に都内のアジトにいた森と永田は、棒名ベース跡地が警察に知られたことを知り、妙義山に向かって出発します。2月17日に妙義山に着いた二人は、山狩りをしていた警察官に包囲され、格闘の末、逮捕されました。
あさま山荘事件へ繋がる
via pixabay.com
2月16日に妙義山に残っていた他のメンバーたちも棒名ベース跡地が警察に知られたことを知り、その日のうちに長野県方面に避難することを決めて妙義山を出発しました。その翌日にラジオのニュースで森と永田が逮捕されたことを知ります。
残されたメンバーは森と永田の奪還を決意しつつ、長野県の佐久市を目指して山を越えます。しかし、途中で道を間違え、2月19日に軽井沢に到着します。その後、買い出しに出かけた数名のメンバーが軽井沢駅で逮捕されました。
残りのメンバーは5人だけとなり、逃亡の末、浅間山荘にたどり着き、管理人の妻を人質にして篭城します。これが「あさま山荘事件」です。篭城は10日間にも及び、民間人1名と警官2名が死亡し、27名が負傷しました。
残されたメンバーは森と永田の奪還を決意しつつ、長野県の佐久市を目指して山を越えます。しかし、途中で道を間違え、2月19日に軽井沢に到着します。その後、買い出しに出かけた数名のメンバーが軽井沢駅で逮捕されました。
残りのメンバーは5人だけとなり、逃亡の末、浅間山荘にたどり着き、管理人の妻を人質にして篭城します。これが「あさま山荘事件」です。篭城は10日間にも及び、民間人1名と警官2名が死亡し、27名が負傷しました。
山岳ベース事件の被害者一覧【時系列順】
via pixabay.com
山岳ベース事件の被害者たちを時系列順にまとめてみました。被害者が赤軍派であったのか革命左派であったのかをはじめ、被害者についての経歴とともに、総括された理由や死因なども合わせて紹介していきます。
ただし、連合赤軍の幹部だった寺岡恒一と山田孝の経歴については山岳ベース事件に関係する幹部についてのところで解説しますので、ここではどちらの党派であったのかということと総括の理由と死因のみを紹介しています。
ただし、連合赤軍の幹部だった寺岡恒一と山田孝の経歴については山岳ベース事件に関係する幹部についてのところで解説しますので、ここではどちらの党派であったのかということと総括の理由と死因のみを紹介しています。
尾崎充男
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最初の犠牲者となった尾崎充男は1950年生まれで、岡山県出身でした。県立児島高校を卒業し、東京水産大学に入学します。同大学では川島豪や坂口弘が革命左派を結成していました。
これに参加し、1971年9月に革命左派の丹沢ベースに入山します。そして、棒名ベースにおいて、他のメンバーの総括中に総括を援助するためではなく私情で殴ったとして総括を求められます。また普段から活動に積極的ではないとして、メンバーの一人を警官役と見立てて決闘をさせられます。
この決闘のあとに「チリ紙を取ってくれ」と言ったことを甘えていると批判されて暴行を受けたあと、立ったまま総括することを求められます。食事も与えてもらえず、縛られて繰り返し暴行を受ける中で、最終的に飢えと寒さにより衰弱死しました。
これに参加し、1971年9月に革命左派の丹沢ベースに入山します。そして、棒名ベースにおいて、他のメンバーの総括中に総括を援助するためではなく私情で殴ったとして総括を求められます。また普段から活動に積極的ではないとして、メンバーの一人を警官役と見立てて決闘をさせられます。
この決闘のあとに「チリ紙を取ってくれ」と言ったことを甘えていると批判されて暴行を受けたあと、立ったまま総括することを求められます。食事も与えてもらえず、縛られて繰り返し暴行を受ける中で、最終的に飢えと寒さにより衰弱死しました。
進藤隆三郎
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進藤隆三郎は1950年生まれで福島県出身でした。秋田高校を卒業後、御茶ノ水大学のフランス語専修の日仏学院に入学します。その後、東大闘争に参加し、安田講堂事件で逮捕されました。
後に赤軍派に加わり、アジトとなるアパートを借りたりする役目や、金融機関の襲撃に参加しますが、棒名ベースに来てから縛られているメンバーや戸口の方ばかり見ていたことを森に追及され、総括対象者となります。
赤軍派に入る前の考え方が抜け切っていないことや女性問題も取り上げられ、両手を後ろ手に縛られた状態でメンバーから暴行を受けました。気絶しないことで長時間暴行を加えられた上に、その後に極寒の屋外に縛られたことで、間もなく死亡しました。
後に赤軍派に加わり、アジトとなるアパートを借りたりする役目や、金融機関の襲撃に参加しますが、棒名ベースに来てから縛られているメンバーや戸口の方ばかり見ていたことを森に追及され、総括対象者となります。
赤軍派に入る前の考え方が抜け切っていないことや女性問題も取り上げられ、両手を後ろ手に縛られた状態でメンバーから暴行を受けました。気絶しないことで長時間暴行を加えられた上に、その後に極寒の屋外に縛られたことで、間もなく死亡しました。
小嶋和子
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小嶋和子は1949年生まれで愛知県出身でした。市邨学園短期大学を卒業後に日精工業に勤務します。同僚で短大の先輩でもあった寺林真喜江に勧誘されて革命左派の川島洋子が建設した中京安保共闘に加わりました。
小嶋は運転免許を持っていたので運転手役を務めることが多く、1971年に革命左派の塩山ベースに入山します。棒名ベースにおいて、恋人だった加藤能敬とキスしているところを見られて「神聖な場を汚した」として加藤とともに総括対象者となりました。
小嶋と加藤は暴力による総括の最初の犠牲者で、小嶋は精神的に不安定だったことや日頃からの言動も取り上げられ、メンバーに殴られた後に正座させられます。その後、数日に渡って屋外に縛られたり、ご飯を与えられなかったために死亡しました。
小嶋は運転免許を持っていたので運転手役を務めることが多く、1971年に革命左派の塩山ベースに入山します。棒名ベースにおいて、恋人だった加藤能敬とキスしているところを見られて「神聖な場を汚した」として加藤とともに総括対象者となりました。
小嶋と加藤は暴力による総括の最初の犠牲者で、小嶋は精神的に不安定だったことや日頃からの言動も取り上げられ、メンバーに殴られた後に正座させられます。その後、数日に渡って屋外に縛られたり、ご飯を与えられなかったために死亡しました。
加藤能敬
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加藤能敬は1949年生まれで愛知県出身でした。東海高校を卒業後、一浪して和光大学文学部に入学します。加藤は革命左派のメンバーであり、1971年11月に是政アジトで逮捕された後、12月に棒名ベースに入山しました。
棒名ベースには加藤の弟も二人参加していて、加藤三兄弟と呼ばれていました。棒名ベースで三人目の犠牲者となった小嶋ととも総括を求められ、メンバーから暴行を加えられます。この時、森や永田は弟たちにも加藤を殴ることを強要しました。
暴行を受けたり、屋外に縛られたり、食事を与えてもらえない日々の中で、一度は総括の兆しありと思われ、屋内に移されます。しかし、屋内に移したことで総括を深めようとしなくなったとして森に追及、殴打されて柱に縛られた後に死亡しました。
棒名ベースには加藤の弟も二人参加していて、加藤三兄弟と呼ばれていました。棒名ベースで三人目の犠牲者となった小嶋ととも総括を求められ、メンバーから暴行を加えられます。この時、森や永田は弟たちにも加藤を殴ることを強要しました。
暴行を受けたり、屋外に縛られたり、食事を与えてもらえない日々の中で、一度は総括の兆しありと思われ、屋内に移されます。しかし、屋内に移したことで総括を深めようとしなくなったとして森に追及、殴打されて柱に縛られた後に死亡しました。
遠山美枝子
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遠山美枝子は1946年生まれで神奈川県出身でした。県立緑ヶ丘高校を卒業後、明治大学法学部に入学します。大学にはキリンビール本社で働きながら通っており、在学中に重信房子(のちの日本赤軍最高幹部)と仲良くなり、揃って共産主義者同盟(ブント)に入ります。
佐藤訪越阻止羽田闘争などに参加し、赤軍派の幹部である高原博之と付き合っていましたが、高原を含む主要幹部は次々と逮捕されました。重信が海外に逃亡したこともあり、残された遠山は1971年12月に赤軍派の新倉ベースに入山します。
しかし、早々に革命左派の永田に目をつけられ、総括対象者となります。暴行を受けたり、自分で自分を殴ることを強要されたり、髪を切られたり、食事を与えてもらえなかったり、逆エビ型に縛られたりしたあげく、衰弱死しました。
佐藤訪越阻止羽田闘争などに参加し、赤軍派の幹部である高原博之と付き合っていましたが、高原を含む主要幹部は次々と逮捕されました。重信が海外に逃亡したこともあり、残された遠山は1971年12月に赤軍派の新倉ベースに入山します。
しかし、早々に革命左派の永田に目をつけられ、総括対象者となります。暴行を受けたり、自分で自分を殴ることを強要されたり、髪を切られたり、食事を与えてもらえなかったり、逆エビ型に縛られたりしたあげく、衰弱死しました。
行方正時
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行方正時は1949年生まれで滋賀県出身でした。県立膳所高校を卒業後、岡山大学理学部に入学します。学園紛争のときには岡山大のリーダー格であり、やがて暴力革命を志すようになります。東大・安田講堂事件にも関わり逮捕されました。
釈放された行方は高校時代の先輩である坂東國男について赤軍派に参加します。1971年に新倉ベースに入山しますが、革命左派との軍事訓練終了後にお坊ちゃま気質の性格を森に追及され、総括を求められます。
棒名ベースに移ってからも総括できていないとされ、死への恐怖を克服させるという名目で、亡くなったメンバーの遺体を埋めさせられたりしました。その後、食事を与えられずに、こぶしや薪で殴られ、逆エビ型に縛られて放置されたことにより死亡しました。
釈放された行方は高校時代の先輩である坂東國男について赤軍派に参加します。1971年に新倉ベースに入山しますが、革命左派との軍事訓練終了後にお坊ちゃま気質の性格を森に追及され、総括を求められます。
棒名ベースに移ってからも総括できていないとされ、死への恐怖を克服させるという名目で、亡くなったメンバーの遺体を埋めさせられたりしました。その後、食事を与えられずに、こぶしや薪で殴られ、逆エビ型に縛られて放置されたことにより死亡しました。
寺岡恒一
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寺岡恒一は革命左派のメンバーでした。女性メンバーにしつこくつきまとっていたことや問題となる発言や行動を繰り返していたことから総括対象者になります。ただ、寺岡に関してはそれまでの総括とは様相が違いました。
それは寺岡に対しては総括できなかった時は処刑することもやむを得ないとされていたからです。メンバー全員による殴打や追及が行われた後、最終的に森の口から「死刑」が宣告されたことで、寺岡はナイフやアイスピックで刺された後に首を絞められて殺害されました。
それは寺岡に対しては総括できなかった時は処刑することもやむを得ないとされていたからです。メンバー全員による殴打や追及が行われた後、最終的に森の口から「死刑」が宣告されたことで、寺岡はナイフやアイスピックで刺された後に首を絞められて殺害されました。
山崎順
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