目次
- 山岳ベース事件とは?
- 事件に大きく関わる当時の時代背景
- 学生運動が盛んな時代
- 赤軍派とは?
- 革命左派とは?
- 山岳ベース事件詳細
- 赤軍派と革命左派の合同軍事訓練
- 集団リンチを生んだ「総括」の始まり
- 総括と称した暴行の実態
- 山岳ベース事件首謀者の逮捕
- あさま山荘事件へ繋がる
- 山岳ベース事件の被害者一覧【時系列順】
- 尾崎充男
- 進藤隆三郎
- 小嶋和子
- 加藤能敬
- 遠山美枝子
- 行方正時
- 寺岡恒一
- 山崎順
- 山本順一
- 大槻節子
- 金子みちよ
- 山田孝
- 山岳ベースで集団リンチが起きた理由は?
- 森恒夫と永田洋子の関係性
- 永田洋子の嫉妬
- 外部の敵と戦えなかったため
- 目の前の問題から目をそらすため
- 反抗や脱走をなくすため
- 山岳ベース事件逮捕者の現在
- 森恒夫の現在
- 永田洋子の現在
- 山岳ベース事件に関係する幹部について
- 森恒夫
- 永田洋子
- 坂口弘
- 寺岡恒一
- 坂東國男
- 山田孝
- 吉野雅邦
- 仲間同士でリンチするという残忍な事件
山岳ベース事件とは?
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山岳ベース事件とは1971年から1972年にかけて群馬県の山岳ベースで起こったリンチ殺人事件のことです。加害者と被害者が同じ連合赤軍の仲間同士であったことから、当時の社会に強い衝撃を与えました。
わずか二ヶ月の間に12人もの犠牲者を出したこの事件は、その後に連合赤軍が起こしたあさま山荘事件とともに連合赤軍事件と呼ばれています。では、なぜこのような事件が起こってしまったのでしょうか。
わずか二ヶ月の間に12人もの犠牲者を出したこの事件は、その後に連合赤軍が起こしたあさま山荘事件とともに連合赤軍事件と呼ばれています。では、なぜこのような事件が起こってしまったのでしょうか。
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事件に大きく関わる当時の時代背景
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この事件の謎を紐解くには、当時の時代背景を知る必要があります。なぜなら、同志に対するリンチ殺人という惨劇を生み出したその経緯には、当時の時代背景が大きく関わっているからです。
1950年代以降、欧米などの社会主義国やそれまでの社会主義・共産主義勢力などを「既成左翼」と呼んで批判する「新左翼」運動が世界で台頭しました。
日本でも日本共産党がそれまでの暴力革命路線を放棄したことに不満を覚えた学生党員が、暴力革命の継続を掲げて離党し、1958年に新左翼党派の一つである「共産主義者同盟(共産同、ブント)」を結成しました。
1950年代以降、欧米などの社会主義国やそれまでの社会主義・共産主義勢力などを「既成左翼」と呼んで批判する「新左翼」運動が世界で台頭しました。
日本でも日本共産党がそれまでの暴力革命路線を放棄したことに不満を覚えた学生党員が、暴力革命の継続を掲げて離党し、1958年に新左翼党派の一つである「共産主義者同盟(共産同、ブント)」を結成しました。
学生運動が盛んな時代
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共産主義者同盟は結成された当初は弱小組織でしたが、かつて全日本学生自治会総連合(全学連)を牽引していたことから、次第に日本共産党に不満を持つ学生が全国から結集し、直接行動や実力闘争を重視した運動を展開します。
1960年の安保闘争では全学連を主導して参加し、当時の内閣は総辞職しますが、結果的に失敗に終わったことで共産主義者同盟は解体します。1966年に再建するものの離脱や分裂が起こり、1970年に再び解体した後、多数の党派に分裂しました。
その一方で1967年頃より学生を中心とした新左翼諸派の活動が先鋭化しており、その中でも1969年に結成された赤軍派と革命左派の活動は苛烈なもので、最過激派の代表格になっていました。
1960年の安保闘争では全学連を主導して参加し、当時の内閣は総辞職しますが、結果的に失敗に終わったことで共産主義者同盟は解体します。1966年に再建するものの離脱や分裂が起こり、1970年に再び解体した後、多数の党派に分裂しました。
その一方で1967年頃より学生を中心とした新左翼諸派の活動が先鋭化しており、その中でも1969年に結成された赤軍派と革命左派の活動は苛烈なもので、最過激派の代表格になっていました。
赤軍派とは?
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赤軍派とは共産主義者同盟赤軍派の略称で、共産主義者同盟から分裂して1969年に結成された新左翼党派の一つです。最高指導者は塩見孝也、軍事委員長は田宮高麿、メンバーは京大、同志社大学、立命館大学を中心に400人ほどでした。
赤軍派は他の新左翼党派のようにゲバ棒を振り回したり、火炎瓶を投げつけるだけでは国家権力の打倒や革命政府の樹立には不十分であり、爆弾や銃による武装隆起が、革命を成就させるためには不可欠であるという思想のもとで活動を行っていました。
交番や警察署を襲撃したり、首相官邸や警視庁の襲撃計画を立てたり、よど号ハイジャック事件を起こしたりしましたが、最高指導者である塩見孝也と主要幹部の逮捕や、軍事委員長である田宮高麿をリーダーとするよど号グループの北朝鮮への亡命により、組織は弱体化します。
赤軍派は他の新左翼党派のようにゲバ棒を振り回したり、火炎瓶を投げつけるだけでは国家権力の打倒や革命政府の樹立には不十分であり、爆弾や銃による武装隆起が、革命を成就させるためには不可欠であるという思想のもとで活動を行っていました。
交番や警察署を襲撃したり、首相官邸や警視庁の襲撃計画を立てたり、よど号ハイジャック事件を起こしたりしましたが、最高指導者である塩見孝也と主要幹部の逮捕や、軍事委員長である田宮高麿をリーダーとするよど号グループの北朝鮮への亡命により、組織は弱体化します。
革命左派とは?
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革命左派とは日本共産党革命左派神奈川県常任委員会の通称で、1969年に結成された日本の新左翼党派の一つです。革命左派の源流である「警鐘」を結成したのが、共産主義者同盟の下部組織である社学同ML派から分派した河北三男と共産同マル線派から分離した川島豪の二人です。
後に日本共産党左派神奈川県委員会(神奈川左派)と合流するものの、武装闘争に否定的な神奈川左派党員と意見が合わずに分裂します。そして、結成されたのが革命左派であり、彼らは「毛沢東思想」を掲げて武装闘争を中心とした活動を行います。
羽田空港の滑走路や米ソ両大使館に火炎瓶を投げ込んだり、米軍基地などに対し火炎瓶を投擲したり、ダイナマイトを設置したりしましたが、これらの過激な活動は神奈川左派時代からの党員や支持者が大幅に離反する事態を招くと同時に最高指導者である川島豪や幹部の逮捕に繋がりました。
後に日本共産党左派神奈川県委員会(神奈川左派)と合流するものの、武装闘争に否定的な神奈川左派党員と意見が合わずに分裂します。そして、結成されたのが革命左派であり、彼らは「毛沢東思想」を掲げて武装闘争を中心とした活動を行います。
羽田空港の滑走路や米ソ両大使館に火炎瓶を投げ込んだり、米軍基地などに対し火炎瓶を投擲したり、ダイナマイトを設置したりしましたが、これらの過激な活動は神奈川左派時代からの党員や支持者が大幅に離反する事態を招くと同時に最高指導者である川島豪や幹部の逮捕に繋がりました。
山岳ベース事件詳細
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1971年に過激派組織である赤軍派と革命左派が共闘関係を結び、後に結成されたのが、山岳ベース事件やあさま山荘事件を起こした「連合赤軍」です。当時、赤軍派と革命左派の両派は組織の弱体化もあり活動に行き詰っていました。
加えて赤軍派を率いていた森恒夫や坂東國男などの主要メンバーたちは、革命のための資金集めのために金融機関の襲撃を繰り返し、警察から指名手配されていました。
革命左派の獄外メンバーたちもまた最高指導者である川島豪奪還のために銃を手に入れるために交番や銃砲店を襲撃したことで潜伏生活を余儀なくされていました。この時、革命左派の獄外最高指導者は永田洋子でした。
加えて赤軍派を率いていた森恒夫や坂東國男などの主要メンバーたちは、革命のための資金集めのために金融機関の襲撃を繰り返し、警察から指名手配されていました。
革命左派の獄外メンバーたちもまた最高指導者である川島豪奪還のために銃を手に入れるために交番や銃砲店を襲撃したことで潜伏生活を余儀なくされていました。この時、革命左派の獄外最高指導者は永田洋子でした。
赤軍派と革命左派の合同軍事訓練
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1971年12月のはじめに、山梨県にある赤軍派の新倉ベースで、赤軍派と革命左派の初となる合同軍事訓練が行われます。この時、赤軍派の森恒夫は主導権を握るために、革命左派が水筒を持ってこなかったことを執拗に責めました。
革命左派のリーダーである永田洋子は森の魂胆を見抜いていたものの、水筒を持ってこなかったことで赤軍派に迷惑をかけたのは事実だったので、反論することができず、水筒を持ってこなかった自分たちを自己批判してその場を収めました。
革命左派が所持している猟銃などの武器が欲しい赤軍派と赤軍派が持つ資金力が目当ての革命左派の利害の一致により共闘することを決めたものの、森と永田の主導権争いはこの後も続いていきます。
革命左派のリーダーである永田洋子は森の魂胆を見抜いていたものの、水筒を持ってこなかったことで赤軍派に迷惑をかけたのは事実だったので、反論することができず、水筒を持ってこなかった自分たちを自己批判してその場を収めました。
革命左派が所持している猟銃などの武器が欲しい赤軍派と赤軍派が持つ資金力が目当ての革命左派の利害の一致により共闘することを決めたものの、森と永田の主導権争いはこの後も続いていきます。
集団リンチを生んだ「総括」の始まり
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水筒のことで出遅れた永田は赤軍派のメンバーの遠山美枝子がしている指輪に目をつけます。そこで、革命を目指す者として覚えられやすい特徴となる指輪をしているのは警戒心が足りないと森に指摘します。
しかし、翌日になっても遠山が指輪をしているのを見た永田はその場で遠山を批判し、森に対して、「このままでは一緒に闘えない。赤軍派に猟銃を渡すことはできない」と言い放ちます。
それを聞いた森はその日の夜に赤軍派メンバーと話し合い、翌日、「遠山を総括する」と宣言します。この時に使われた「総括」とは過去を振り返って反省することを意味しており、当時の活動家の間では好んでよく使われていた言葉でしたが、これが連合赤軍における「総括」の始まりでした。
しかし、翌日になっても遠山が指輪をしているのを見た永田はその場で遠山を批判し、森に対して、「このままでは一緒に闘えない。赤軍派に猟銃を渡すことはできない」と言い放ちます。
それを聞いた森はその日の夜に赤軍派メンバーと話し合い、翌日、「遠山を総括する」と宣言します。この時に使われた「総括」とは過去を振り返って反省することを意味しており、当時の活動家の間では好んでよく使われていた言葉でしたが、これが連合赤軍における「総括」の始まりでした。
総括と称した暴行の実態
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1971年12月下旬に群馬県にある革命左派の棒名ベースに赤軍派と革命左派のメンバーが集合しました。この棒名ベースにおいて、「総括」と称するメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートしていきます。
総括が始まった当初は総括対象者は作業から外されて革命に対する自分の姿勢や行動を反省するだけでしたが、やがて、長時間正座をさせられたり、食事を与えてもらえなかったり、殴打されるようになっていきます。
これは、殴って気絶させることによって、総括対象者が目を覚ました時に、別の人格に生まれ変わって真の革命戦士になることができるという連合赤軍の最高幹部となった森の過去の体験をもとにした独自の理論が展開されたものでした。
総括が始まった当初は総括対象者は作業から外されて革命に対する自分の姿勢や行動を反省するだけでしたが、やがて、長時間正座をさせられたり、食事を与えてもらえなかったり、殴打されるようになっていきます。
これは、殴って気絶させることによって、総括対象者が目を覚ました時に、別の人格に生まれ変わって真の革命戦士になることができるという連合赤軍の最高幹部となった森の過去の体験をもとにした独自の理論が展開されたものでした。
山岳ベース事件首謀者の逮捕
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