2019年8月31日 更新

津山事件の動機や真相は?唯一の生存者寺井ゆり子の現在とは

津山事件には、あまりに悲しい動機が存在します。この記事では、動機や事件の真相、背景にあった夜這いなどの集落文化をご紹介します。生存者である寺井ゆり子の現在の様子や、事件が起こった場所のその後の様子についても詳細にご紹介していきましょう。

目次

都井睦雄は日中、山にこもり射撃の練習に励み、夜はその銃を片手に村を徘徊するようになります。こういった都井睦雄の行動に、集落に住む人々は不安を感じるようになりました。

これまで自身を虐げた村人への復讐ともとれる徘徊行為ですが、犯行を計画していたのなら、これらの行動は不可解といえます。警察に通報されたり、警戒され攻撃される恐れもあるからです。都井睦雄が、銃を片手に徘徊した理由は、自身を受け入れて欲しいという気持ちの表れだったと考察できます。

この段階で、都井睦雄にたいする集落の人々の対応が変わっていれば、津山事件は違った結末となった可能性もあるでしょう。

自宅や土地を担保に借金をする

Gate Path Summer - Free photo on Pixabay (588733)

銃を片手に、ほぼ毎日集落を歩き回る都井睦雄にたいして、集落の人々はさらに距離を置いていきます。恐怖によって、近寄れなかったのです。

集落の人々から、さらに距離を置かれるようになった都井睦雄は、自宅や土地を担保に借金をするようになります。金額について、明確にされていませんが、借金で手にした金銭で、より多くの武器を手に入れようとしていました。実際に、都井睦雄は、自宅に多くの武器を隠し持っていたことが、のちに判明します。

祖母に訴えられ凶器を全て押収される

Phone Old Year Built 1955 - Free photo on Pixabay (588730)

都井睦雄が祖母の味噌汁に薬を入れて居た時、祖母本人に見られ通報されます。祖母は「毒殺される」と感じたようです。この通報により、家宅捜索が入り、これまで都井睦雄がため込んだ多くの武器が押収されました。

都井睦雄は祖母の味噌汁に入れていた薬について、「わかもと」と呼ばれる胃腸薬だったと主張しますが、真相は不明です。

津山事件では、一番最初に祖母を殺害していることから、この時の薬は毒物であり、殺害しようとしていたことも考えられますが、祖母に遺書を残していることから、本当に胃腸薬であった可能性もあります。

一から凶器を揃え始める

Handgun Pistol Firearms - Free photo on Pixabay (588740)

祖母の通報により家宅捜索が入り、これまで集めていた様々な武器が押収されます。その中には、日本刀や短刀、匕首(あいくち)と呼ばれる鍔のない刃物や、猟銃一式など実に様々なものが揃っていました。

この事件によって、都井睦雄が取得した猟銃免許もはく奪されます。武器が全て押収されたことから、何かしらの復讐行為を思いとどまるかと思われましたが、都井睦雄はそこからまた武器を揃え始めました。知人や刀剣愛好家などを通して、銃や刀を再度集めるのです。

実姉など数名に宛てた遺書を作成する

Writing Pen Man - Free photo on Pixabay (588742)

津山事件の3日前、都井睦雄は遺書を作成します。この時点で、何かしらの復讐を決行する事はもちろん、事件を起こした際、自身の命を絶つことも決めていたのでしょう。遺書は、実の姉や祖母など数名に宛てて書かれていました。

武器の収集だけにとどまらず、遺書の用意や、事件後の想定などをしていたことからも、都井睦雄は非常に冷静に事件を計画していたと言えるでしょう。また、遺書の文面から、都井睦雄は非常に頭の良い青年だったとも言われています。

駐在所までの時間を知るために実際に試す

Clock Alarm Watch - Free photo on Pixabay (588746)

都井睦雄は、集落から一番近い駐在所までの移動時間についても調べていました。実際に自身の足を使い、何度も往復しながら、時間を約2時間と割り出していたのです。駐在所までかかる時間を調べた理由は、殺し損ねた集落の人々が警察に逃げ込み、自身の犯行を止められないようにするためと言われています。

つまり、確実に自身が殺したい相手を殺すために、犯行を綿密に計画していったのです。非常に強い恨みと、殺意が感じられます。

津山事件の真相

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (588750)

津山事件を引き起こすまでに、都井睦雄はあらゆる準備を行い、復讐ともいえる犯行を計画していました。生い立ちや準備の内容を見るだけでも、津山事件の背景に集落や人、自身の人生に大きな憎悪があったことがわかるでしょう。犯行を計画し、準備を終えた都井睦雄は、とうとう計画を実行します。

ここからは、津山事件の内容を詳細にご紹介していきましょう。犯行内容からも、都井睦雄の性格や思い、計画性や理性的な面を知ることができます。

1938年5月20日送電線を切断

Electric Cables Electrification Of - Free photo on Pixabay (588751)

津山事件について、5月21日に決行されたという記事を頻繁に見かけますが、正確には5月20日です。1938年5月20日、津山事件は始まります。都井睦雄が最初に行ったのは、集落に電気を供給していた電線の切断です。

電線の切断によって、集落のみを停電させました。どうして集落のみを停電させることが可能だったかというと、以前都井睦雄は集落で電気の不具合があった際、修理を頼まれることが頻繁にあったからです。

翌日衣服を整え武器を手に人々を次々に殺していく

Walkers Autumn Fog - Free photo on Pixabay (588752)

集落一帯が停電となっても、人々はそれほど慌てることがありませんでした。当時、集落での停電は日常的であり、特に気にかけることもなく、集落の人々は早めに就寝します。

5月20日深夜に、集落一帯を停電させた後、都井睦雄は自宅に帰り衣服を着替えました。さらに、屋根裏部屋に隠していた軍刀や短刀を腰に下げ、手には猛獣用に使用する銃を持ちます。犯行時は深夜であったため、自転車用のライトも持ちました。

犯行当時、都井睦雄の武器やその他の重量は20キロ以上とも言われています。こういった重たい装備を身に着け、短時間で多くの人々を殺め続けたのです。

約1時間半の間に28名を殺害、その後さらに2名が死亡

Doctor Hospital Bed Delivery - Free photo on Pixabay (588754)

都井睦雄の犯行は、約1時間半だったと言われています。この時間は、事前に都井睦雄が調べていた、駐在所にかけこむ最短時間2時間以内です。計画的な犯行内容から、犯行当時も都井睦雄が、非常に冷静だったことがわかります。

都井睦雄は、約1時間半という非常に短い時間で、集落の住民28人を次々と殺害していきました。現場ではかろうじて息があったものの、搬送先で2人が亡くなり、津山事件の被害者の数は30人となります。

11軒の家が襲われる

Landscape Autumn Twilight - Free photo on Pixabay (588756)

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