2019年8月31日 更新

津山事件の動機や真相は?唯一の生存者寺井ゆり子の現在とは

津山事件には、あまりに悲しい動機が存在します。この記事では、動機や事件の真相、背景にあった夜這いなどの集落文化をご紹介します。生存者である寺井ゆり子の現在の様子や、事件が起こった場所のその後の様子についても詳細にご紹介していきましょう。

目次

大量殺人を実行する日を5月20日に決めたのは、寺井ゆり子と西山良子の帰省が要因だったと言われています。寺井ゆり子と西山良子は、嫁ぐなどして他集落で暮らしていましたが、犯行日は貝尾集落に帰省中でした。

西山良子は夜這いによって、都井睦雄と関係を持っていましたし、寺井ゆり子は都井睦雄の本命だったと言われる女性です。2人の帰省に合わせて犯行を行ったと考えられますが、事前に周到な準備を行っていたことから、きっかけに過ぎなかったのではないかという説もあります。

夜這いの真相

Bed Linen Sheets - Free photo on Pixabay (588792)

津山事件には、日本各地で見られた夜這いという文化も関係しています。夜這いという文化について、詳しく解説していきましょう。夜這いとは、男性が女性宅を訪れ性関係を持つことです。当時は、地域の女性は、地域男性の共有物という見られ方をしていました。

また、他の地域の男性から守るといった意味もあったといいます。他にも、結婚生活で失敗しないようにという意味や、性行為をして一人前という考え方もありました。大義名分や理由はあったにせよ、女性の人権が軽視され、男性の娯楽の一つとなっていたことも事実です。

現在では、犯罪行為のため禁止となっている夜這いですが、当時はあらゆる地域で行われていました。地域によって夜這いのルールは異なりますが、事前に訪問することを伝えるであったり、家族や周囲に露見したら退散するといったルールがあったようです。

都井睦雄が残した遺書の内容

Typewriter Old Alphabet - Free photo on Pixabay (588793)

津山事件では、都井睦雄が作成したとみられる三通の遺書が残されていました。一通は、自身の姉に向けた遺書です。もう一通は、誰か特定の人物に向けたものというより、全ての人々に発信する都井睦雄の心情が書かれていました。この二通の遺書は、犯行前に作成し、自宅に置かれていたものです。

最後の一通は、犯行後知人宅を訪れ、紙と筆をもらい自殺間際に書かれたこのでした。ここからは、都井睦雄が残した遺書の内容について解説していきます。

祖母への謝罪と後悔

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遺書には、祖母への謝罪と、これまでの後悔が記されていました。都井睦雄は生前、祖母の意向を聞き進学を諦めるなど、祖母思いの一面が見られます。そのため、祖母の殺害に関して、謝罪する文が遺書には残されていました。また、2歳の時から育ててくれたことへの、感謝も記されています。

祖母の殺害に関して、葛藤した様子も記載されていましたが、結果「残る不憫を考えて」殺害するしかなかったという内容となっていました。

姉への謝罪

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自宅に残された一通の遺書には、大切な実の姉への謝罪が記載されていました。「つまらぬ弟でした」という文面からもわかるように、姉を心底慕っていたことがわかります。

慕っていた祖母は不憫に思い殺害したにもかかわらず、同じく慕っていた姉は殺害しなかったことにたいして、疑問を感じる人々もいるでしょう。姉は当時、他の場所へ嫁いでいたため、手を下せなかったと考えられます。

また、心底慕っていたのは姉だけであり、祖母に関しては日常生活で不満があったとも考えられるでしょう。

自身の弔いは不要

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遺書には、自身の弔いは不要であるという記載があります。このような事件を起こす自分にたいして、墓などを立てる必要もなく、「野に腐れれば本望」という文面が記載されていました。

遺書には、弔いや墓は不要と記載されていましたが、実の姉は弟の墓を造ります。「このような事態になってしまったがせめて立派な墓を作ってやりたい」と実の姉は望みますが、夫から反対され、遺体を埋めた場所に石が置かれる程度の墓となりました。

社会への憤り

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都井睦雄の残した遺書には、社会への憤りが多く記載されています。親戚が少なく「愛」というものが日常的ではなかった自分であっても、病気になったことから受けた、社会の態度は非道であり、泣いたと記されていました。病気になってからの4年間が非常に辛かったようです。

そして社会にたいして、身寄りのないものや結核患者に、同情するべきだと主張しています。この遺書から、都井睦雄が病気を理由に、酷い仕打ちを受けていたことが想像できるでしょう。

人生への後悔

Man Arm Hand - Free photo on Pixabay (588804)

遺書には、自身の人生への後悔も、記されています。結核という病気に感染し、弱い自分であったことの後悔や、不幸な人生であったことへの後悔です。

さらに、殺害できず逃してしまった女性たちへの後悔も遺書には記載されていました。これは、自殺前に記載したものでしょう。もちろん、殺害してしまった祖母や残す姉への後悔も記されており、犯行前も、犯行後も加害者である都井睦雄の心が揺れ動いていたことがわかります。

しかし、自殺間際に書かれたと思われる遺書には、どこかすっきりした心情も記載されていました。

来世への想い

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遺書には、「今度は幸福に生まれてこよう」「今度は強い強い人に生まれてこよう」という来世への希望も記載されていました。この文面から、現状は辛く悲しいものであったが、未来では幸せな環境に生まれ、幸せな人生を歩みたいという願いがあったことを読み解くことができるでしょう。

また、多くの人々を殺害してしまったにもかかわらず、それらは病気や置かれた環境のせいであり、自身の内面に問題があったのではないかという思考が一切見られなかったことも読み解くことができます。

都井睦雄が置かれた環境や、結核という病気は不運です。しかし、自身に危害を加えていない人々も殺害しているため、自己中心的で思い込みが激しい性格ともいえます。

寺元ゆり子への執着

Old Letters Portrait - Free photo on Pixabay (588797)

遺書には、どこの女性と何回性行為を行ったなども、記載されていました。具体的な名前と回数が、複数件記載されていたようです。その中には、寺井ゆり子への執念も見られます。

寺井ゆり子に関して、自殺間際に残した遺書にも、殺害できず、逃がしてしまったことへの後悔が記載されていました。

これほど多くの人々を殺害した都井睦雄が、本当に寺井ゆり子を殺害したいと思っていたのか、恋心による執念なのか真相は不明です。

又寺元倉一への恨み

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