2019年8月31日 更新

津山事件の動機や真相は?唯一の生存者寺井ゆり子の現在とは

津山事件には、あまりに悲しい動機が存在します。この記事では、動機や事件の真相、背景にあった夜這いなどの集落文化をご紹介します。生存者である寺井ゆり子の現在の様子や、事件が起こった場所のその後の様子についても詳細にご紹介していきましょう。

目次

昭和の時代を震撼させた津山事件

Background Blood Stain - Free image on Pixabay (588684)

津山事件と呼ばれる事件は、第二次世界大戦間際の昭和を大きく揺るがし、日本中に問題提起した事件です。しかし、当時の日本では、情報流通手段が普及していなかったことと、第二次世界大戦間際という混沌とした時代背景によって、間違った情報や誤った捉え方をされることも少なくありませんでした。

この記事では、津山事件の真相と、津山事件が日本に投げかけている問題を詳細にご紹介していきましょう。生存者である女性の事件後の様子や、現在の様子についても、ご紹介していきます。

坂元両集落という場所で発生した惨殺事件

Japan Jin Ze Shirakawa Xiang - Free photo on Pixabay (588685)

津山事件は、岡山県坂元両集落と、貝尾という場所で発生した惨殺事件です。現在の岡山県北部に位置する、津山市と呼ばれる場所で大量殺人事件が発生しました。岡山県の近隣では、現在も語り継がれている有名な事件です。当時を思い出し、憤る人や、怒りを感じる人も少なくありません。

また、時代の流れから、残忍な犯行現場を好奇心のみで訪れる人々も存在し、さらに住民たちの気持ちを荒立てていると言えるでしょう。津山事件は、閉鎖的な集落で起こった事件としても有名ですが、加害者の残忍な殺害方法や被害者の多さでも有名な事件です。

「津山30人殺し」「都井睦雄事件」とも呼ばれる

Cemetery Grave Graves - Free photo on Pixabay (588690)

津山事件は、「津山30人殺し」「都井睦雄事件」と呼ばれることもあります。集落を襲った青年の名前が「都井睦雄」だったことから、このような呼ばれ方をしています。

他には、「加茂の三十人殺し(かものじゅうにんごろし)」といった呼ばれ方もされました。それぞれの事件名からも読み解くことができるように、この事件では30人もの命が奪われます。加害者男性である都井睦雄の自殺を含めると、短い時間内に31名が亡くなった事件なのです。

日本史上最も多い人々が犠牲となった大量殺人事件

Mortality Skull And Crossbones - Free image on Pixabay (588692)

津山事件では、集落に住む30人もの人々が殺され、さらに3人が怪我を負いました。この数字は、非常に多く、日本史上最も多い人々が犠牲になった大量殺人事件として知られています。

大量の被害者を出したと言われる、オウム真理教事件の被害者27人を上回る被害者を出していたのです。殺害された人々の多さで、事件の大小を比べることはできませんが、それでも日本を震撼させた最も重大な事件だったと言えるでしょう。

多くの犠牲者を出した津山事件ですが、この津山事件を上回る被害者を出したのが京アニ放火殺人事件です。

小説のモデルとしても有名

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1938年5月に発生した津山事件は、日本中に衝撃を与えた事件でした。そのため、多くの小説や、映画の題材として使用されます。「夜光虫」や「蝶々殺人事件」などの長編小説で有名な横溝正史は、津山事件をモチーフに「八つ墓村」という長編推理小説を作成しました。

この八つ墓村を原作とし、映画やドラマ、舞台なども作られます。小説家西村望は、「丑三つの村」というノンフィクション小説を書きあげました。小説や映画化されるほど、津山事件は大きな事件だったのです。

30人を殺害した都井睦雄の生い立ち

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これまで、日本史上最も多い人々が犠牲となった大量殺人事件として知られる、津山事件を起こした加害者は、たった一人の男性です。その人物は、都井睦雄という当時21歳の青年でした。

加害者の都井睦雄は、犯行後自ら命を絶ったため、事件の解明がさらに難しくなりました。ここからは、事件の真相に迫るために、加害者都井睦雄の生い立ちについて、ご紹介していきましょう。隠された犯行動機についても、読み解いて解説していきます。

1917年誕生

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津山事件の加害者、都井 睦雄(とい むつお)は、1917年3月5日に誕生しました。津山事件の犯行現場となる、岡山県苫田郡加茂村大字倉見に誕生します。

当時の日本は、第一次世界大戦の真っ只中で、食料や物資、人手などあらゆるものが不足していました。そのため、一般市民は生き残るため、集落や街単位で寄り添い、力を合わせて生活します。こういった過程の中で、現代とはかけ離れた、独自の文化や規則が形成されていきました。

幼少期に両親を肺結核で亡くす

Family Baby Crawling - Free photo on Pixabay (588699)

都井睦雄は、2歳の時に父親を、3歳の時に母親を亡くします。どちらも、肺結核という病名でした。結核は、結核菌に感染することで発症する感染症の一つです。現在も存在する感染症であり、HIVの次に死者数の多い感染症と言われています。

結核菌に感染しても、抗体や免疫力によって発症しないケースがほとんどです。しかし、当時は第一次世界大戦の最中であり、食べ物や生活環境も十分ではなかったため、亡くなる人が多く、死の病として人々から恐れられていました。

祖母によって育てられる

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早くして両親を失った都井睦雄は、父方の祖母のもとで育てられました。父方の祖父は、大正7年に死亡しています。死因は、明確にされていません。

祖父の死因について、明確な記述は残されていませんが、都井睦雄の両親と同じく、肺結核ではないかと予想されています。都井家は、大正7~8年の間に、祖父と両親の3人が亡くなっていたことになります。

また、祖母に引き取られたのは、睦雄だけではありません。睦雄には姉が一人おり、姉弟揃って祖母の手で育てられました。

ある程度の所得と資産を有していた

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