目次
- 昭和の時代を震撼させた津山事件
- 坂元両集落という場所で発生した惨殺事件
- 「津山30人殺し」「都井睦雄事件」とも呼ばれる
- 日本史上最も多い人々が犠牲となった大量殺人事件
- 小説のモデルとしても有名
- 30人を殺害した都井睦雄の生い立ち
- 1917年誕生
- 幼少期に両親を肺結核で亡くす
- 祖母によって育てられる
- ある程度の所得と資産を有していた
- 尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患う
- 姉の結婚を期に引きこもるようになる
- 夜這いによって多くの女性と性関係を持つ
- 寺井ゆり子は都井の本命だったと言われている
- 1937年結核を理由に徴兵に不合格となる
- 犯行時都井睦雄は21歳になっていた
- 都井睦雄は実に周到に準備をしていた
- 1937年狩猟免許を取得
- 1938年毎日山にこもり射撃の練習を行う
- 猟銃を片手に毎夜村を徘徊し威嚇
- 自宅や土地を担保に借金をする
- 祖母に訴えられ凶器を全て押収される
- 一から凶器を揃え始める
- 実姉など数名に宛てた遺書を作成する
- 駐在所までの時間を知るために実際に試す
- 津山事件の真相
- 1938年5月20日送電線を切断
- 翌日衣服を整え武器を手に人々を次々に殺していく
- 約1時間半の間に28名を殺害、その後さらに2名が死亡
- 11軒の家が襲われる
- 必死の命乞いによって助かった人もいる
- 犯行後3.5km離れた場所で猟銃自殺
- 津山事件の殺害時系列
- 最初のターゲットは祖母
- 1軒目は隣の家
- 2軒目では妻を始めに銃殺
- 3軒目は無関係な親戚をも射殺
- 4軒目は都井が最も憎んでいた女性の家
- 5軒目は4軒目の女性が逃げ込んだため犯行におよぶ
- 6軒目は就寝中を銃殺
- 7軒目は頭を打たれ脳がぶちまけられる
- 8軒目の母親はかろうじて息はあったが病院で亡くなる
- 9軒目では5歳の幼子も容赦なく殺害される
- 10軒目の女性も息はあったが搬送先で亡くなる
- 11軒目の家は都井が住む集落ではなかった
- 津山事件の動機
- 結核
- 阿部定事件
- 夜這いで性的関係を持っていた女性たちの態度
- 寺井ゆり子・良子の帰省
- 夜這いの真相
- 都井睦雄が残した遺書の内容
- 祖母への謝罪と後悔
- 姉への謝罪
- 自身の弔いは不要
- 社会への憤り
- 人生への後悔
- 来世への想い
- 寺元ゆり子への執着
- 又寺元倉一への恨み
- 津山事件の生存者・寺井ゆり子のその後
- 寺井ゆり子と都井は婚約していた
- 寺井ゆり子は別の男性と結婚・離婚
- 上村岩男という男性と再婚後事件が起こる
- 事件の原因だと言われ虐げられた
- 事件の半年後に娘を出産
- 他の集落に転居
- 自責の念に駆られながら生き続けていた
- 2014年時点では健在
- 事件後から現在に至るまでの事件現場
- 被害者が出なかった家は事件後集落を離れた
- 都井の生家は取り壊された
- 過疎化が進む
- 津山事件から考えるべきこと
- 一般人が凶器を入手することが容易だった時代があった
- 病気の間違った知識により迫害された人々が大勢いた
- 日本に存在する集落・地域文化の恐ろしさ
- 偏見や差別がもたらす大きなリスク
- 保守的な人は知らない事柄を攻撃し排除してしまう
- 津山事件は時代背景や人々が作り出したともいえる悲しい事件
都井家には、ある程度の資産と、所得があったと言われています。そのため、引き取られた姉と睦雄は、それほど不自由なく暮らせていました。しかし、実はそれほど裕福ではなかったという説も存在しています。
都井家自体は、地位や資産があったものの、後妻であった祖母が本家を追い出され、孫を連れ犯行現場となる家に引っ越したため、それほど裕福ではなかったとも言われているのです。
また、引っ越し先の家も、切腹自殺があった家であったため、比較的格安で購入したのではないかとも言われています。
都井家自体は、地位や資産があったものの、後妻であった祖母が本家を追い出され、孫を連れ犯行現場となる家に引っ越したため、それほど裕福ではなかったとも言われているのです。
また、引っ越し先の家も、切腹自殺があった家であったため、比較的格安で購入したのではないかとも言われています。
尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患う
via pixabay.com
都井睦雄は、高等小学校卒業直後に、肋膜炎(ろくまくえん)という病を発症します。高等小学校とは、現在の中学校にあたる教育課程です。
睦雄が発症した肋膜炎は、胸膜炎(きょうまくえん)とも呼ばれます。胸膜に炎症が起こり、発熱や咳、呼吸困難や胸の痛み等を引き起こす病で、ほとんどの場合、癌や結核が原因で発症しました。
肋膜炎を発症した睦雄は、医者に農作業等を禁止されますが、病状はすぐに快方に向かったといわれています。
睦雄が発症した肋膜炎は、胸膜炎(きょうまくえん)とも呼ばれます。胸膜に炎症が起こり、発熱や咳、呼吸困難や胸の痛み等を引き起こす病で、ほとんどの場合、癌や結核が原因で発症しました。
肋膜炎を発症した睦雄は、医者に農作業等を禁止されますが、病状はすぐに快方に向かったといわれています。
姉の結婚を期に引きこもるようになる
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都井睦雄は、肋膜炎の病状が落ち着いた後、実業補習学校に入学します。実業補習学校とは、中等教育学校へ進学せず働いていた青年が入学し、社会教育を学べる場です。
働きながら社会教育を受けていた睦雄ですが、睦雄が10代の頃、たった一人の姉が結婚したことから、生活が変わっていきます。睦雄は実業補習学校に行くことも少なくなり、徐々に自宅に引きこもるようになりました。そのため、同年代の人々と、深くかかわる機会も減っていきます。
働きながら社会教育を受けていた睦雄ですが、睦雄が10代の頃、たった一人の姉が結婚したことから、生活が変わっていきます。睦雄は実業補習学校に行くことも少なくなり、徐々に自宅に引きこもるようになりました。そのため、同年代の人々と、深くかかわる機会も減っていきます。
夜這いによって多くの女性と性関係を持つ
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当時、日本のいたる場所に、夜這いという文化が存在していました。夜這いとは、男性が女性宅を訪問し、性的関係を持つ行為です。恋人同士でなくとも、性関係を持つことができましたし、既婚者であっても夜這いしあうことが可能だったといわれています。
教育や同年代との交流を放棄しつつあった睦雄でしたが、夜這いは行っていました。夜這いによって、複数人の女性と定期的に、性的関係を持っていたと言われているのです。
また、夜這い行為をひけらかすように、周囲に言いふらしていたともいわれています。自身の自尊心を保つためだったのではないかと考察されていますが、こういった行為は、当時周囲から批判的な目で見られていました。
教育や同年代との交流を放棄しつつあった睦雄でしたが、夜這いは行っていました。夜這いによって、複数人の女性と定期的に、性的関係を持っていたと言われているのです。
また、夜這い行為をひけらかすように、周囲に言いふらしていたともいわれています。自身の自尊心を保つためだったのではないかと考察されていますが、こういった行為は、当時周囲から批判的な目で見られていました。
寺井ゆり子は都井の本命だったと言われている
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都井睦雄が、夜這いによって性的関係を持った女性の中に、寺井ゆり子という女性がいました。この寺井ゆり子という女性が、睦雄の本命だと言われ、津山事件の数少ない生存者です。
寺井ゆり子と睦雄の関係について、夜這いによる性的関係はなかったという説もあります。睦雄が一方的に、寺井ゆり子に好意を寄せていたという説です。
また、寺井ゆり子と都井睦雄には、婚約していたという説も存在しています。詳しいその後の様子については、後半で解説していきましょう。
寺井ゆり子と睦雄の関係について、夜這いによる性的関係はなかったという説もあります。睦雄が一方的に、寺井ゆり子に好意を寄せていたという説です。
また、寺井ゆり子と都井睦雄には、婚約していたという説も存在しています。詳しいその後の様子については、後半で解説していきましょう。
1937年結核を理由に徴兵に不合格となる
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都井睦雄は、結核を発症します。もともと、それほど体が強かったわけではなく、病弱な体質だったようです。1937年、睦雄は徴兵検査を受けますが、結核により不合格となります。
当時の日本では、徴兵によりお国の役にたってこそ一人前の男性という見方をされる文化、風潮がありました。そのため、病気により不合格となった睦雄に対して、女性や村の風当たりは非常に強くなっていきます。
これまで、唯一の楽しみであった夜這い行為も、拒絶されることが多くなったようです。
当時の日本では、徴兵によりお国の役にたってこそ一人前の男性という見方をされる文化、風潮がありました。そのため、病気により不合格となった睦雄に対して、女性や村の風当たりは非常に強くなっていきます。
これまで、唯一の楽しみであった夜這い行為も、拒絶されることが多くなったようです。
犯行時都井睦雄は21歳になっていた
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集落という狭いコミュニティーの中で、都井睦雄が結核を持っている事、それによって徴兵検査が不合格となった事は、瞬く間に広がっていきます。
同性である男性たちからは蔑まれ、女性たちからは性的関係を拒まれるようになりました。それ以外の人々からも、すれ違いざまに息を止められたり、あからさまに嫌がられるようになっていきます。
睦雄の負の感情は、溜まる一方となっていきました。そして、津山事件を引き起こします。都井睦雄は、犯行当時21歳になっていました。
同性である男性たちからは蔑まれ、女性たちからは性的関係を拒まれるようになりました。それ以外の人々からも、すれ違いざまに息を止められたり、あからさまに嫌がられるようになっていきます。
睦雄の負の感情は、溜まる一方となっていきました。そして、津山事件を引き起こします。都井睦雄は、犯行当時21歳になっていました。
都井睦雄は実に周到に準備をしていた
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津山事件について、加害者の都井睦雄は、精神疾患を持っていたのではないかという説も存在しています。何らかの精神疾患により、善悪の判断やその他の自制ができない状態だったのではないかというものです。
しかし、都井睦雄は津山事件当日までに、多くの準備をしていました。非常に冷静に、事件を計画していたのです。このことから、都井睦雄が何かしらの精神異常により、発作的に犯行を企てたとは考えにくいでしょう。ここからは、都井睦雄が、事件前に行っていた準備の一部始終をご紹介していきます。
しかし、都井睦雄は津山事件当日までに、多くの準備をしていました。非常に冷静に、事件を計画していたのです。このことから、都井睦雄が何かしらの精神異常により、発作的に犯行を企てたとは考えにくいでしょう。ここからは、都井睦雄が、事件前に行っていた準備の一部始終をご紹介していきます。
1937年狩猟免許を取得
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徴兵検査に不合格となった同年、都井睦雄は猟銃免許を取得します。どのような目的で猟銃免許を取得したのか、考察する他ありませんが、当時の日本では戦争中であっても、一般市民が銃を携帯することは違法でした。
これまで引きこもりがちであった都井睦雄が、不合格となった同年すぐに猟銃免許を取得したのは、それまでにも何かしらの鬱憤があり、銃を使った復讐を考えていたと考察できます。
他の考察としては、狩猟等の仕事を考えていたというものもありますが、資産や畑仕事に困らないという家庭環境から考えにくいでしょう。
これまで引きこもりがちであった都井睦雄が、不合格となった同年すぐに猟銃免許を取得したのは、それまでにも何かしらの鬱憤があり、銃を使った復讐を考えていたと考察できます。
他の考察としては、狩猟等の仕事を考えていたというものもありますが、資産や畑仕事に困らないという家庭環境から考えにくいでしょう。
1938年毎日山にこもり射撃の練習を行う
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狩猟免許を取得した都井睦雄は、すぐに散弾銃を購入します。すぐに購入できたことから、金銭に困っていたとは考えられないでしょう。購入した散弾銃を下取りに出し、猛獣を仕留める際に使用する、より威力が高いブローニング猟銃を購入します。
猛獣用の銃を手に入れた都井睦雄は、近くの山にこもり、射撃の練習に励むようになりました。結核という治らない病を抱えた都井睦雄が、第二次世界大戦に備えて、自身の価値を上げようとしていたとは考えにくいでしょう。
猛獣用の銃を手に入れた都井睦雄は、近くの山にこもり、射撃の練習に励むようになりました。結核という治らない病を抱えた都井睦雄が、第二次世界大戦に備えて、自身の価値を上げようとしていたとは考えにくいでしょう。
猟銃を片手に毎夜村を徘徊し威嚇
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