目次
- 瀬戸内シージャック事件とは
- 犯人・川藤展久の生い立ち
- 6人兄弟の三男として誕生
- 新興宗教にのめり込んでいた母親
- 小学生時代
- 中学生時代
- 放浪生活
- 軽犯罪を繰り返す日々
- 犯人・川藤展久の性格
- だらしない
- 善悪の判断力が弱い
- 気に入ったことしかしない
- 誘惑に弱い
- 瀬戸内シージャック事件の概要
- 事件現場は海の上「ぷりんす号」
- 1970年5月12日旅客船ぷりんす号を乗っ取る
- 船長を脅迫して出航
- 乗員9人・乗客37人が人質に
- 操舵室を狙撃する
- 一般人を狙撃する
- セスナ機を銃撃する
- 乗客を解放する
- 逮捕された仲間を連れて来いと要求
- 父親・姉が投降を呼びかける
- 呼びかけ虚しくライフル乱射
- 「警察隊と撃ち合いになって死にたい」
- 狙撃隊員が川藤を狙撃する
- 左胸部に銃弾が貫通する
- 搬送され緊急手術を受けるも川藤死亡
- 瀬戸内シージャック事件発生までの経緯
- 川藤展久他2人が窃盗車で広島方面へ向かう
- 交通違反し窃盗車とバレ、逮捕
- 猟銃で警官を脅し逃走
- 少年Aが警察の胸を刺し川藤と逃走
- 少年Bは拘束される
- 逃走後軽四輪車を盗み宇部市へ向かう
- バレない為に服装を変える
- 広島市に山陽本線で向かう
- 山中に身を隠す
- 二葉山の仏舎利塔で野宿
- 山中に猟銃を持った男が居ると通報が入る
- 国鉄芸備線の踏切で軽トラックに便乗していた警察に発見される
- 軽トラック運転手を脅迫し市中心部に向かう
- 一緒に逃走した少年Aを逮捕
- 川藤は鉄砲店でライフル・弾丸を強奪
- タクシーで検問を突破し宇品港へ向かう
- 事件のその後
- 川藤が発砲した実弾は116発だった
- 流れ弾を受けた警官は半身不随に
- 事件のその後、狙撃手は弁護士に訴えられることに
- マスコミからの誹謗中傷
- 「射殺は見せしめ」と問題視される
- 広島地検に告訴
- 犯人遺族の言葉
- 瀬戸内シージャック事件を起こした動機
- 警官を襲ってしまった
- よど号ハイジャック事件
- 川藤展久が残した最期の言葉
- 「こらえんぞ!あしたじゅうでやったったらぁ」
- 「死んでたまるか、もういっぺん」
- 事件のその後の影響
- 射殺の是非
- メディアの影響力の大きさ
- あさま山荘事件
- 三菱銀行人質事件
- 警察官等けん銃使用及び取り扱い規範が改定
- 犯人射殺に至った事件
- 三菱銀行人質事件
- 長崎バスジャック事件
- 瀬戸内シージャック事件を元に作成された作品
- あいつを撃つな
- 凶弾 瀬戸内シージャック
- 冒険者たち
- 二度と起こってはいけないハイジャック事件
だらしない
via pixabay.com
川藤展久は「だらしない性格」であったといわれています。家庭を顧みない母親だったということもあり、幼少時代からこの性格になってしまったのでしょう。また、だらしない部分を正してくれる存在が居なかったとも思われています。
幼少時代に自分の子どもがだらしない性格だと分かったら、一般的には注意をしたり正そうとしたりするでしょう。ですが小さい頃から「悪い子」と印象付いていたので「この子だからしょうがない」という目で見られてしまっていたのかもしれません。そしてその性格のまま成長を遂げてしまったのです。
幼少時代に自分の子どもがだらしない性格だと分かったら、一般的には注意をしたり正そうとしたりするでしょう。ですが小さい頃から「悪い子」と印象付いていたので「この子だからしょうがない」という目で見られてしまっていたのかもしれません。そしてその性格のまま成長を遂げてしまったのです。
善悪の判断力が弱い
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川藤展久は「善悪の判断力が弱い性格」であったといわれています。幼少時代から小さな犯罪を繰り返し行ってしまっていた為に、どの行為が正しい行為であり、どの行為が悪い行為であるのか。判断することが得意ではない性格だったのです。
「周囲の人が行っているから悪い事ではない」「お金をもらえるのであれば悪い事ではない」というような、彼だけの世界だけで通用する「固定概念」が生まれてしまっていたのでしょう。
犯罪を働いてしまい、逮捕をされてしまった場合。普通であれば「悪い事をしてしまった」「申し訳ない」「更正をしよう」と努力をするはずです。ですが川藤展久はそのような考えに至ることはなく様々な犯罪を犯しても、何度も犯罪行為を繰り返していたのです。
「周囲の人が行っているから悪い事ではない」「お金をもらえるのであれば悪い事ではない」というような、彼だけの世界だけで通用する「固定概念」が生まれてしまっていたのでしょう。
犯罪を働いてしまい、逮捕をされてしまった場合。普通であれば「悪い事をしてしまった」「申し訳ない」「更正をしよう」と努力をするはずです。ですが川藤展久はそのような考えに至ることはなく様々な犯罪を犯しても、何度も犯罪行為を繰り返していたのです。
気に入ったことしかしない
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川藤展久は「気に入ったことしかしない性格」であったといわれています。義務教育時代に学ぶことができる「団体生活」をしてこなかった川藤展久はわがままな性格となってしまったのでしょう。家出をしてから、様々な職業に就き多くの経験を積むことになりましたが、どれも自分の気に入る職業ではなかったのでしょう。多くの仕事を短期間で退職しています。
川藤展久は自分の気に入ったことばかりを繰り返し、いやな事があれば逃げ出すというような特徴をもっていたようなのです。
川藤展久は自分の気に入ったことばかりを繰り返し、いやな事があれば逃げ出すというような特徴をもっていたようなのです。
誘惑に弱い
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川藤展久は「誘惑に弱い性格」であったといわれています。「金銭」というなんとも魅力的な誘惑に川藤展久は魅了されてしまっていたようです。前述でも紹介した、工場・蕎麦屋・パチンコ屋などだけではなく暴力団の使い走りなどもしていたようです。
「違法性はあるが短時間で大きな金銭を受け取ることが出来る」という甘い誘惑に何度も負けてしまっていたのです。川藤展久は未来や先のことを考えずに「今がよければ良い」というような考えを持ってしまっていたのでしょう。多額な金銭を得る為には大きな代償が必要なこともあります。それが彼にとっては「普通」だったのかもしれません。
「違法性はあるが短時間で大きな金銭を受け取ることが出来る」という甘い誘惑に何度も負けてしまっていたのです。川藤展久は未来や先のことを考えずに「今がよければ良い」というような考えを持ってしまっていたのでしょう。多額な金銭を得る為には大きな代償が必要なこともあります。それが彼にとっては「普通」だったのかもしれません。
瀬戸内シージャック事件の概要
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瀬戸内シージャック事件はどのような事件だったのでしょうか。川藤展久が引き起こした瀬戸内シージャック事件について時系列で紹介をして参ります。事件発生後、日本中の人々がこの事件に注目しました。多くの人がこの事件について「印象に残っている」「鮮明に覚えている」と答える大きな事件だったのです。
というのもこの事件が発生したとき多くのメディアが生放送で中継を行っていました。ショッキングな事件だったということもあり現場の異常な空気・画面に映った犯人の顔が、視聴者の脳に焼き付いてしまっているのです。
というのもこの事件が発生したとき多くのメディアが生放送で中継を行っていました。ショッキングな事件だったということもあり現場の異常な空気・画面に映った犯人の顔が、視聴者の脳に焼き付いてしまっているのです。
事件現場は海の上「ぷりんす号」
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瀬戸内シージャック事件の事件現場は海の上、そして旅客船「ぷりんす号」の船の上で起きました。旅客船ということもあり、事件が起きた当日には多くの乗客がぷりんす号に足を踏み入れ、これからの旅に大きな期待を抱いていました。
そんな多くの人々の期待を乗せた船の上で、瀬戸内シージャック事件は発生してしまうのです。この事件が起きる以前にも、少ない数ではありますがハイジャック事件は発生していました。ですがシージャック事件の発生はあまり確認されておらず、まさか今から乗船する船が何者かにハイジャックされるなんて誰もが思いもしなかったのです。
そんな多くの人々の期待を乗せた船の上で、瀬戸内シージャック事件は発生してしまうのです。この事件が起きる以前にも、少ない数ではありますがハイジャック事件は発生していました。ですがシージャック事件の発生はあまり確認されておらず、まさか今から乗船する船が何者かにハイジャックされるなんて誰もが思いもしなかったのです。
1970年5月12日旅客船ぷりんす号を乗っ取る
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1970年5月12日、事件は発生しました。事件の現場となったぷりんす号は広島港から定期旅客船として使用されていました。事件当日も広島と今治を結ぶ為にぷりんす号は出航をする予定でした。
広島港にぷりんす号は停泊しており、多くの人々が乗船し始めていました。そんな中、広島港に降り立った犯人・川藤展久は警官に追われる身でした。警官から逃亡を図っていましたが、ぷりんす号を目にするや否やライフルを片手にぷりんす号へと足を踏み入れていったのです。
周囲の人々は大きな銃声と犯人・警官の格闘を目の当たりにして悲鳴を上げながら逃げ惑いました。そんな光景に躊躇することなく、川藤展久は発砲を繰り返しました。川藤展久が手にしていたのは、その時代最も強力とされていたライフル銃・300発の弾丸・3丁の銃でした。
広島港にぷりんす号は停泊しており、多くの人々が乗船し始めていました。そんな中、広島港に降り立った犯人・川藤展久は警官に追われる身でした。警官から逃亡を図っていましたが、ぷりんす号を目にするや否やライフルを片手にぷりんす号へと足を踏み入れていったのです。
周囲の人々は大きな銃声と犯人・警官の格闘を目の当たりにして悲鳴を上げながら逃げ惑いました。そんな光景に躊躇することなく、川藤展久は発砲を繰り返しました。川藤展久が手にしていたのは、その時代最も強力とされていたライフル銃・300発の弾丸・3丁の銃でした。
船長を脅迫して出航
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ライフルを構え、発砲をしながら乗船した川藤展久を見た船長は驚きながらも、川藤展久を刺激しないように諭そうとします。ですが、川藤展久は聞く耳も持たず「出発しろ」と船長に命令し、船の出港を促しました。船長は抗うこともできず、ぷりんす号を出航させました。そして広島港を後にします。
ぷりんす号が停泊できる港は多くありました。ですが多くの港には保安部があり、川藤展久はぷりんす号が向かうべき場所を悩みます。悩んだ挙句、川藤展久は船長に「どこでもいいから大きな街へ行け」と脅迫をし、午後5時15分ごろに船を出航させたのです。
ライフルを発砲しながら船に乗り込んできた犯人を見ていた船長・乗客・乗組員たちは犯人に大きな恐怖を抱いており、歯向かうことはできませんでした。
ぷりんす号が停泊できる港は多くありました。ですが多くの港には保安部があり、川藤展久はぷりんす号が向かうべき場所を悩みます。悩んだ挙句、川藤展久は船長に「どこでもいいから大きな街へ行け」と脅迫をし、午後5時15分ごろに船を出航させたのです。
ライフルを発砲しながら船に乗り込んできた犯人を見ていた船長・乗客・乗組員たちは犯人に大きな恐怖を抱いており、歯向かうことはできませんでした。
乗員9人・乗客37人が人質に
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川藤展久がジャックしたぷりんす号には乗組員9人・乗客37人が乗っていました。乗客は旅を楽しみにしていた人だけかと思われていましたが、乗客のうちの15人は乗車券を持っていませんでした。15人の乗客はは見送りの為に広島港を訪れていたなど、偶然にも居合わせていた人々だったのです。
巻き添えとなってしまった人々を含む47人が瀬戸内シージャック事件の人質となってしまったのです。人質になってしまった人々は老若男女、様々な人がおり中には当時未成年だった人もいたようです。乗客たちは持っていたラジオを聴きながら、今すぐ近くで起きている事件の動きを確認していたのです。
巻き添えとなってしまった人々を含む47人が瀬戸内シージャック事件の人質となってしまったのです。人質になってしまった人々は老若男女、様々な人がおり中には当時未成年だった人もいたようです。乗客たちは持っていたラジオを聴きながら、今すぐ近くで起きている事件の動きを確認していたのです。
操舵室を狙撃する
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人質と犯人を乗せたぷりんす号はどんどんと海を進んでいきました。瀬戸内海で逃走を続けたのです。逃走を続けているうちに、川藤展久は元宇品沖で広島県警の警備艇である「こがね」の操舵室を狙撃しました。
こがねに同乗をしていた警部補が胸で銃弾を受け、貫通銃創の重傷を負ってしまったのです。川藤展久は警官に対して、絶対に警戒を解かないといったような姿勢をしていました。そして狙撃をする際には、何の躊躇もなく、そして的確に発砲を続けていました。川藤展久はこの事件を起こしながら、覚悟を決めていたのでしょう。「もしものことがあったら自殺をする」と船長に漏らしていたという情報もあります。
こがねに同乗をしていた警部補が胸で銃弾を受け、貫通銃創の重傷を負ってしまったのです。川藤展久は警官に対して、絶対に警戒を解かないといったような姿勢をしていました。そして狙撃をする際には、何の躊躇もなく、そして的確に発砲を続けていました。川藤展久はこの事件を起こしながら、覚悟を決めていたのでしょう。「もしものことがあったら自殺をする」と船長に漏らしていたという情報もあります。
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