2019年7月14日 更新

フリーライター染谷悟とは?追っていたプチエンジェル事件と死の関係

ある事件を追っていたフリーライターの染谷悟は、事件発覚後のわずか2ケ月後に東京港で遺体となって発見されました。彼が追っていたのはプチエンジェル事件。政治家や皇族、三菱商事など大物人物が多く係わっていたと言われています。今回は、染谷悟と事件の概要を紹介します。

目次

その後の捜査によって顧客リストが押収される

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少女達を保護した後、吉里が借りていた埼玉県にあるアパートを家宅捜査して、ビデオテープ1000本以上と、2000名と言われる程の名前が載った顧客リストを押収したのです。

事件発覚の翌日、警察は渋谷で少年少女達1500人を補導したりしていますが、吉里の司法解剖などの詳しい調査もせずに、遺体も早々に火葬してしまいました。

この顧客リストが押収された後から、警察やマスコミの動きに不審な点が見受けられ、ネットではどんどん憶測と検証が始まっていくことになります。

顧客リストが見つかったとほぼ同時期に捜査終了

Bodyworn Body Camera Police - Free photo on Pixabay (456998)

警察はこの顧客リストを手に入れてすぐに、捜査を打ち切ります。自殺の動機としては、事件発覚と逮捕を恐れての自殺と断定しました。しかも、顧客リストはほとんど偽名なので信憑性が低いとも発表します。そのことから、大きな組織的犯罪ではなく、吉里の単独犯行だとした為、捜査を早々に終了してしまったのです。

警察が吉里の逮捕状を取った日と、吉里の自殺した日は同じです。確かにテレビで少女4人行方不明の報道が流れているので、事件が発覚したことは吉里も知ることはあったでしょう。しかし、逮捕状が出たことまでは報道されていたかは不明です。

のちに吉里の不審な自殺の状況を詳しく述べますが、不可思議な点はまだあります。吉里は少女達を監禁する前に、重し用のポリタンクや鉄アレイを購入した際、自殺に使った練炭なども購入しているのです。ただし、買い物中に監視カメラに映っていた人物が彼だとはハッキリ断定できるものではありませんでした。

プチエンジェル事件は追ってはいけない事件と恐れられた

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最初の頃は、テレビでも大々的に報道していたプチエンジェル事件。事件発覚後からマスコミは、吉里の自殺の仕方がおかしいという点を検証していたりします。

週刊誌では、デートクラブの実態や吉里が稼いだ金は35億円などと、スクープ記事で溢れていました。しかし、ある日を境にこの報道合戦は、ピタっと止まってしまうのです。

また、報道が止む直前には、赤坂で起きたこの事件が、いつの間にか渋谷で起きたことにもなっていました。このようにマスコミの動きが鈍くなったのは、やはり警察が顧客リストを押収した後からだと言われています。報道が不自然に止まったことによって、ネットではこの事件は追及してはいけないほどの怖い事件として、今も語り継がれることになったのです。

プチエンジェル経営者の吉里弘太朗の生い立ち

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プチエンジェル経営者だった、吉里弘太朗は一体どのような人物だったのでしょうか?殺人などの凶悪事件ではなくとも、未成年者のデートクラブ経営をするほどの男です。

スキャンダラスな事件が起きると、マスコミは犯人の卒業アルバムや、同級生からのインタビューなど、大抵は生い立ちや人物像を深く追求していくでしょう。しかしこの事件では、突然警察もマスコミも動かなくなってしまった為に、吉里弘太朗の詳しい生い立ちはあまりよく分かっていません。

ここでは、少ない情報の中から、吉里弘太朗の生い立ちを紹介していきます。

裕福な家庭で育つ

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吉里弘太朗が自殺してこの世を去った時、2003年(平成15年)の時点で享年29歳ということが分かっています。そのことから逆算すると、1974年(昭和49年)前後の生まれと断定できます。

父親は元警視庁の幹部で、その後朝日新聞の幹部社員となりました。今ではすっかり悪意と捏造の新聞代表と言われ、凋落の一途を辿っている朝日新聞ですが、吉里が生まれた頃はまだエリートと呼ばれている頃です。

朝日新聞では、更に西部本社社会部長にもなっていることから考えても、吉里の家は裕福な家庭だったと言えるでしょう。兄がいたようなので、男2人兄弟の次男として吉里弘太朗は育ったことになります。

東京芸大卒業

Painter Painting Brush - Free photo on Pixabay (457404)

吉里弘太朗は、東京芸大を卒業しています。卒業後デザイナーとして働いていたという話もありますが、ハッキリしていません。

吉里が1974年(昭和49年)前後の生まれであれば、彼が大学を卒業する頃は氷河期時代です。団塊ジュニアで氷河期世代の年代なので、芸大卒業では就職先は相当厳しかったことが考えられます。

更に、吉里が芸大に入った頃、父親が難病に罹ってしまいます。裕福だった家庭は、この辺りから不幸が始まっていきました。

複数の女性と交際

Lover Adult Bedroom - Free photo on Pixabay (457485)

吉里弘太朗とネットで検索すると、報道された時の顔写真がヒットしますが、わりと整った幼い感じの顔だということが分かります。

吉里は、大学時代から複数人の女性と付き合い始め、ヒモのような生活をしていたと言われています。父親が難病に罹ったことにより、仕送りなどが減ったのでしょうか?それとも、働くことが好きでは無かったのでしょうか?詳しくは分かりませんが、時期的には経済的に苦しかったことが想像できます。

のちに未成年者のデートクラブを始められただけあって、元々吉里弘太朗は女性受けが良かったのかもしれません。

ホストクラブでアルバイト

Champagne Rotkäppchen Heart - Free photo on Pixabay (457527)

吉里は、ホストクラブでも2年間アルバイトをしていたと言われています。大学時代から複数の女性と交際し、ヒモ生活をしていたことに続き、ホストクラブとは、女受けも良かったのでしょうが、何かしら才能があったのかもしれません。

やはり時期的にみて、吉里は良い就職先も見つけられず、更にこのあと詳しく述べますが、家庭にも大きな変化があったことで、家からの支援も期待出来なくなっていた頃です。

ホストクラブで働いてはいましたが、吉里はこの頃からロリータデートクラブに入り浸るようになっていました。元々、ロリコン趣味だったようなので、同年代や年上の女性には金の為だけに付き合っていたのでしょう。

父・兄が自殺

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エリートであった父親は、1993年(平成5年)に頭頚部ジストニアという難病を発症してしまいます。時期的に里見がちょうど19~20歳の頃なので、大学に入った直後と考えられます。

頭頚部ジストニアとは、脳や神経などの機能異常によって、身体が緊張状態になり、無意識で身体のあちこちがねじれ姿勢がおかしくなってしまう病気です。父親はそのことを苦に、1996年(平成8年)に自殺してしまいました。

追い打ちを掛けるように、その3年後の1999年(平成11年)に今度は兄が自殺してしまいます。兄の自殺理由は分かっていません。父が亡くなった時、吉里弘太朗は22歳前後、留年などをしていなければ卒業の頃でしょう。兄が自殺した頃は25歳前後です。このような家庭事情や不景気突入の中で、吉里は金を稼ぐことを考え始めたのかもしれません。

母親は自殺未遂に留まる

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吉里弘太朗の父と兄が自殺してしまった後、今度は2001年(平成13年)に母親が自殺を図りました。夫と息子の相次いだ自殺で悩んでいたのかは不明ですが、とりあえず母親は未遂で終わります。

この頃、吉里は27歳前後になっていますが、相次ぐ家族の自殺に何を考えたでしょう。まさかこの2年後、自分が母より先に死ぬとは余り考えてはいなかったように感じます。

何故なら、吉里はホストクラブでアルバイトをした後、人妻などを使った非合法の売春斡旋を始めたり、プチエンジェルの経営も始めて稼げるようになっているからです。プチエンジェル事件前には、2500万円ほどするフェラーリを2台も所有していたほどですから、自殺をしようとする理由があまり見当たりません。

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