2019年7月14日 更新

フリーライター染谷悟とは?追っていたプチエンジェル事件と死の関係

ある事件を追っていたフリーライターの染谷悟は、事件発覚後のわずか2ケ月後に東京港で遺体となって発見されました。彼が追っていたのはプチエンジェル事件。政治家や皇族、三菱商事など大物人物が多く係わっていたと言われています。今回は、染谷悟と事件の概要を紹介します。

目次

フリーライター染谷悟の不審死

Bridge Japan Coast - Free photo on Pixabay (454660)

日本という国は世界に比べ、一見治安も良く、平和に感じる人が多いでしょう。しかし、この国は戦後、何者かによって未だに支配され、長い歴史と文化を破壊され続けています。その為、政治家や官僚、警察、司法、マスコミなどのほとんどが、一般庶民の味方ではありません。

2003年(平成15年)9月12日(金)の朝、東京江東区の東京港で1人の男の遺体が発見されました。被害者はフリーライターの染谷悟という当時38歳の男です。染谷悟の遺体には、刺し傷があり、身体には潜水士が使う専用の重りが念入りに巻き付けられていました。

染谷悟を殺した犯人はわりと早めに逮捕されているので、プチエンジェル事件とは余り関連性が無いように見えます。しかし、その後ネットでは「染谷悟はプチエンジェル事件を追っていた」という噂が飛び交いました。果たして、本当に係わりがあるのでしょうか?今回は、染谷悟の謎の死とプチエンジェル事件の関係について検証していきます。

フリーライター染谷悟とは

Camera Photo-Camera Sony - Free photo on Pixabay (454849)

染谷悟が殺された事件は、不思議なことにあまり詳しい経緯のニュースソースがほとんど残されていません。確かに、2019年(令和元年)の段階で、すでに事件から16年余り経っていますし、犯人も逮捕され、殺人事件としては一応解決済みなので、仕方が無いとも言えます。

しかし、もしこの事件が、故意に終息させられたのだとすれば、やはり染谷悟が殺された理由は、深い闇に繋がっているのかもしれません。

ここではまず、少ない情報の中から、染谷悟が殺されてしまうまでの経緯を解説していきます。

プチエンジェル事件に不信感を持ち調査した唯一のライター

Organizer Brown Leather Executive - Free photo on Pixabay (454965)

プチエンジェル事件が発覚した後、始めは大きく報道したマスコミでしたが、何故か急に終息してしまいました。事件の経緯はのちに説明していきますが、当時2ちゃんねるなどではこの不自然な終息に、この事件を検証している人達も多くいたのです。

しかし、テレビやラジオ、そして新聞が急に止めてしまうような事件は、その後週刊誌は追うことが多いはずなのですが、こちらもあっさり終息してしまいました。

週刊誌などのマスコミにスクープを持ってくるのは、たいていフリーライターや、フリーのジャーナリストですが、プチエンジェル事件を追う人は、染谷悟だけだったと言われています。ただし、この話はネットのみに流れているものであり、未だ信憑性は分かっていません。

「柏原蔵書」「山口六平太」というペンネームで活動していた

Computer Laptop Workplace - Free photo on Pixabay (454977)

染谷悟の詳しいプロフィールはほとんど残されていません。1991年(平成3年)頃から、フリーライターになったと言われていることや、亡くなった時の享年が38歳だったことを踏まえると、25歳前後からフリーライターになったのでしょう。

最初は本名での活動だったのかは不明ですが、1995年(平成7年)辺りからペンネームを使い始めていたと言われてます。ペンネームは、2つあり、「柏原蔵書(かしわばらくらがき)」と「山口六平太(やまぐちろくへいた)」という名前で活動していたようです。

小説も発行していたとされるが詳しい経歴は不明

Books Bookshelf Library - Free photo on Pixabay (455031)

染谷悟は、「柏原蔵書」のペンネームで2冊本を出していますが、「山口六平太」での著作物は発見できません。ネットでは、小説を出していると書かれているサイトもあるのですが、小説を出していたのかは不明です。

のちに詳しく説明しますが、「柏原蔵書」のペンネームで出している本は、1つは山本和明という人との共著で、スノーボードのハウツー本で、もう1つはこれが殺される原因になったと言われている、歌舞伎町の闇を書いたドキュメンタリー本なので、小説は書いていないのではないでしょうか?

この歌舞伎町のドキュメンタリー本は、奇しくも染谷悟の遺作となってしまうのですが、その他の彼の経歴はあまりよく分かっていないのです。

アングラ記者として危険な取材・記事が中心

Shibuya Crossing Tokyo Japan - Free photo on Pixabay (455097)

染谷悟は、「裏BUBKA(ブブカ)」という男性向けのアングラ雑誌の記者として、危険な取材や記事を書いていたと言われています。白夜書房から出されていたこのブブカシリーズは、1997年(平成9年)から刊行されていますが、現在はほとんどのシリーズが休刊になり、残されているものは「実話BUNKA(ブンカ)タブー」という名前に変わっています。

内容は、アイドルや芸能人のスキャンダル系が多いのですが、染谷悟が係わっていたと言われる「裏BUBKA(ブブカ)」は、男性向け雑誌なだけあって、小中学生の落とし方や、風俗の闇、援交などのセックス系の見出しや、ロリコン風なイラストの表紙がバックナンバーから見受けられます。

しかし、染谷悟がどのような取材や記事に係わっていたのかは、あまりハッキリ分かっていません。

空き巣や盗難の被害にあっていた

Burglar Mask - Free photo on Pixabay (455131)

染谷悟は、殺される1年程前から空き巣や盗難の被害に遭っていました。彼は、短期契約の賃貸マンションを転々としていたようですが、窓やベランダを壊されたり、カメラやパソコンなどの仕事道具を、なんと77点も盗まれたということがあったのです。

更に「金返せ!」と叫ぶ男2人が、染谷悟の家の玄関を蹴飛ばすところを近所の人が目撃していたこともありました。これらのことを見ても、彼が何者かに狙われていたことは間違いありません。

他事件の取材等でトラブルもあった

Euro Bank Notes Handshake - Free photo on Pixabay (455162)

先程述べた数々のトラブルは、歌舞伎町のドキュメンタリー本の取材の中で起きたものでしょう。しかし、染谷悟はその頃もう1冊本を出そうとしていたようです。

その本の出版の為に、染谷悟に金を貸したという男が、のちに殺人容疑で逮捕されました。その男達とのトラブルはのちに述べますが、染谷悟は他にも短期契約の賃貸マンションの家賃も滞納していたり、他の知人達にも借金をしていたと言われています。

フリーライターですから、記事を掛けなければお金は入ってきません。アングラ雑誌の原稿料では、生活も苦しかったのでしょう。染谷悟は、金銭トラブルや歌舞伎町の取材の中で、様々な危険を増やしていくのです。

2003年9月5日染谷の生存が確認された最後の日

Man Talking On The Phone - Free photo on Pixabay (455259)

染谷悟の死亡推定時刻は不明です。発見されたのは、2003年(平成15年)9月12日(金)でしたが、彼は少なくともその1週間前まで生きていたことが分かっています。

2003年(平成15年)9月5日(金)の午後、染谷悟は知人の雑誌編集者と電話で話した後、姿を消してしまいました。更に、同日または翌日の6日(土)に、JR池袋駅付近で染谷悟のカメラが発見されています。

このような背景から、当初から彼は、池袋駅付近で何者かに連れ去れた可能性が考えられていました。

2003年9月7日「旅に出る」というメール

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