目次
- フリーライター染谷悟の不審死
- フリーライター染谷悟とは
- プチエンジェル事件に不信感を持ち調査した唯一のライター
- 「柏原蔵書」「山口六平太」というペンネームで活動していた
- 小説も発行していたとされるが詳しい経歴は不明
- アングラ記者として危険な取材・記事が中心
- 空き巣や盗難の被害にあっていた
- 他事件の取材等でトラブルもあった
- 2003年9月5日染谷の生存が確認された最後の日
- 2003年9月7日「旅に出る」というメール
- 2003年9月12日東京湾で遺体が発見される
- 背中に8か所以上の刺し傷や頭部を殴られた跡
- 遺体が発見された場所は一般人が立ち入りできない場所だった
- 染谷は殺害される前に「殺される」と周囲に漏らしていた
- プチエンジェル事件とは
- 非合法なデートクラブ
- 経営者は吉里弘太朗
- 小学生など未成年少女が多数在籍
- カラオケから裸体撮影などの斡旋を行っていた
- 事件発生場所は赤坂「インターナショナルプラザ赤坂No.1」の1101号室
- 2003年7月少女1人が渋谷で勧誘され金銭を受け取る
- 後日犯行現場となるマンションの掃除を少女4人に依頼
- 少女4人がマンションの掃除を始めると吉里の態度が豹変
- 少女4人は監禁される
- 脱走を試みるも失敗
- 2003年7月15日少女行方不明を報道
- 2003年7月16日吉里弘太朗はリビングで練炭自殺により死亡
- 2003年7月17日1人の少女が手錠を外し脱出
- 警察官が駆け付け他少女3人を無事に保護
- その後の捜査によって顧客リストが押収される
- 顧客リストが見つかったとほぼ同時期に捜査終了
- プチエンジェル事件は追ってはいけない事件と恐れられた
- プチエンジェル経営者の吉里弘太朗の生い立ち
- 裕福な家庭で育つ
- 東京芸大卒業
- 複数の女性と交際
- ホストクラブでアルバイト
- 父・兄が自殺
- 母親は自殺未遂に留まる
- 2002年2月売春容疑で指名手配
- 2003年自殺
- プチエンジェル事件の不審な点
- 主犯、吉里の練炭自殺の不審点
- 主犯、吉里の自殺動機の不審点
- 同マンション内にいた少女たちの証言
- 単独犯という不審
- 自殺前に金策に走っていた
- リスト押収での捜査終了は顧客が有名人や大物政治家だったから?
- 染谷悟を殺害した容疑で逮捕された人物
- 2003年9月22日死体遺棄容疑で3人の男が逮捕される
- 激しい暴行を加えたことを認める
- 鍵業者、桜井景三
- ダイバー熊本恭丈
- 染谷悟の助手、藤井亮一
- 殺害事件は被疑者が執筆した『歌舞伎町アンダーグラウンド』
- プチエンジェル事件の顧客名簿を手に入れたために殺害されたという噂
- プチエンジェル事件への関連が噂される人物
- 芸能人
- 関東連合
- 山口組
- 政治家
- 三菱商事
- 富豪
- 皇族
- 権力にもみ消されたもう一つの事件「岩手17歳女性殺害事件」
- 元警視庁、黒木昭雄
- 岩手17歳女性殺害事件を追っていた
- 2010年11月自動車内で練炭自殺
- 他殺の可能性があるとしつつ、結果的に自殺として処理された
- プチエンジェル事件には多くの噂が渦巻いている
フリーライター染谷悟の不審死
via pixabay.com
日本という国は世界に比べ、一見治安も良く、平和に感じる人が多いでしょう。しかし、この国は戦後、何者かによって未だに支配され、長い歴史と文化を破壊され続けています。その為、政治家や官僚、警察、司法、マスコミなどのほとんどが、一般庶民の味方ではありません。
2003年(平成15年)9月12日(金)の朝、東京江東区の東京港で1人の男の遺体が発見されました。被害者はフリーライターの染谷悟という当時38歳の男です。染谷悟の遺体には、刺し傷があり、身体には潜水士が使う専用の重りが念入りに巻き付けられていました。
染谷悟を殺した犯人はわりと早めに逮捕されているので、プチエンジェル事件とは余り関連性が無いように見えます。しかし、その後ネットでは「染谷悟はプチエンジェル事件を追っていた」という噂が飛び交いました。果たして、本当に係わりがあるのでしょうか?今回は、染谷悟の謎の死とプチエンジェル事件の関係について検証していきます。
2003年(平成15年)9月12日(金)の朝、東京江東区の東京港で1人の男の遺体が発見されました。被害者はフリーライターの染谷悟という当時38歳の男です。染谷悟の遺体には、刺し傷があり、身体には潜水士が使う専用の重りが念入りに巻き付けられていました。
染谷悟を殺した犯人はわりと早めに逮捕されているので、プチエンジェル事件とは余り関連性が無いように見えます。しかし、その後ネットでは「染谷悟はプチエンジェル事件を追っていた」という噂が飛び交いました。果たして、本当に係わりがあるのでしょうか?今回は、染谷悟の謎の死とプチエンジェル事件の関係について検証していきます。
プチエンジェル事件の概要と真相は?少女たちのその後と皇太子の噂も - POUCHS(ポーチス)
今から16年前に発生したプチエンジェル事件をご存知ですか?謎の多い事件で未だにネットなどでは話題になります。そこでプチエンジェル事件の真相や、本当に当時の皇太子や皇族がかかわっていたのか被害にあった少女の気になるその後など詳しく紹介していきます。
フリーライター染谷悟とは
via pixabay.com
染谷悟が殺された事件は、不思議なことにあまり詳しい経緯のニュースソースがほとんど残されていません。確かに、2019年(令和元年)の段階で、すでに事件から16年余り経っていますし、犯人も逮捕され、殺人事件としては一応解決済みなので、仕方が無いとも言えます。
しかし、もしこの事件が、故意に終息させられたのだとすれば、やはり染谷悟が殺された理由は、深い闇に繋がっているのかもしれません。
ここではまず、少ない情報の中から、染谷悟が殺されてしまうまでの経緯を解説していきます。
しかし、もしこの事件が、故意に終息させられたのだとすれば、やはり染谷悟が殺された理由は、深い闇に繋がっているのかもしれません。
ここではまず、少ない情報の中から、染谷悟が殺されてしまうまでの経緯を解説していきます。
ペッパーランチ事件の詳細と真相!犯人の北山大輔と三宅正信のその後 - POUCHS(ポーチス)
ペッパーランチ事件と言ったら皆さんはどの事件を思い浮かべますか?食品を取り扱う会社なので食中毒事件と思われがちですが、今回はその事件ではなくペッパーランチで起こった強盗強姦事件についてのその後と、知られざる真相と犯人について紹介していきます。
プチエンジェル事件に不信感を持ち調査した唯一のライター
via pixabay.com
プチエンジェル事件が発覚した後、始めは大きく報道したマスコミでしたが、何故か急に終息してしまいました。事件の経緯はのちに説明していきますが、当時2ちゃんねるなどではこの不自然な終息に、この事件を検証している人達も多くいたのです。
しかし、テレビやラジオ、そして新聞が急に止めてしまうような事件は、その後週刊誌は追うことが多いはずなのですが、こちらもあっさり終息してしまいました。
週刊誌などのマスコミにスクープを持ってくるのは、たいていフリーライターや、フリーのジャーナリストですが、プチエンジェル事件を追う人は、染谷悟だけだったと言われています。ただし、この話はネットのみに流れているものであり、未だ信憑性は分かっていません。
しかし、テレビやラジオ、そして新聞が急に止めてしまうような事件は、その後週刊誌は追うことが多いはずなのですが、こちらもあっさり終息してしまいました。
週刊誌などのマスコミにスクープを持ってくるのは、たいていフリーライターや、フリーのジャーナリストですが、プチエンジェル事件を追う人は、染谷悟だけだったと言われています。ただし、この話はネットのみに流れているものであり、未だ信憑性は分かっていません。
「柏原蔵書」「山口六平太」というペンネームで活動していた
via pixabay.com
染谷悟の詳しいプロフィールはほとんど残されていません。1991年(平成3年)頃から、フリーライターになったと言われていることや、亡くなった時の享年が38歳だったことを踏まえると、25歳前後からフリーライターになったのでしょう。
最初は本名での活動だったのかは不明ですが、1995年(平成7年)辺りからペンネームを使い始めていたと言われてます。ペンネームは、2つあり、「柏原蔵書(かしわばらくらがき)」と「山口六平太(やまぐちろくへいた)」という名前で活動していたようです。
最初は本名での活動だったのかは不明ですが、1995年(平成7年)辺りからペンネームを使い始めていたと言われてます。ペンネームは、2つあり、「柏原蔵書(かしわばらくらがき)」と「山口六平太(やまぐちろくへいた)」という名前で活動していたようです。
小説も発行していたとされるが詳しい経歴は不明
via pixabay.com
染谷悟は、「柏原蔵書」のペンネームで2冊本を出していますが、「山口六平太」での著作物は発見できません。ネットでは、小説を出していると書かれているサイトもあるのですが、小説を出していたのかは不明です。
のちに詳しく説明しますが、「柏原蔵書」のペンネームで出している本は、1つは山本和明という人との共著で、スノーボードのハウツー本で、もう1つはこれが殺される原因になったと言われている、歌舞伎町の闇を書いたドキュメンタリー本なので、小説は書いていないのではないでしょうか?
この歌舞伎町のドキュメンタリー本は、奇しくも染谷悟の遺作となってしまうのですが、その他の彼の経歴はあまりよく分かっていないのです。
のちに詳しく説明しますが、「柏原蔵書」のペンネームで出している本は、1つは山本和明という人との共著で、スノーボードのハウツー本で、もう1つはこれが殺される原因になったと言われている、歌舞伎町の闇を書いたドキュメンタリー本なので、小説は書いていないのではないでしょうか?
この歌舞伎町のドキュメンタリー本は、奇しくも染谷悟の遺作となってしまうのですが、その他の彼の経歴はあまりよく分かっていないのです。
アングラ記者として危険な取材・記事が中心
via pixabay.com
染谷悟は、「裏BUBKA(ブブカ)」という男性向けのアングラ雑誌の記者として、危険な取材や記事を書いていたと言われています。白夜書房から出されていたこのブブカシリーズは、1997年(平成9年)から刊行されていますが、現在はほとんどのシリーズが休刊になり、残されているものは「実話BUNKA(ブンカ)タブー」という名前に変わっています。
内容は、アイドルや芸能人のスキャンダル系が多いのですが、染谷悟が係わっていたと言われる「裏BUBKA(ブブカ)」は、男性向け雑誌なだけあって、小中学生の落とし方や、風俗の闇、援交などのセックス系の見出しや、ロリコン風なイラストの表紙がバックナンバーから見受けられます。
しかし、染谷悟がどのような取材や記事に係わっていたのかは、あまりハッキリ分かっていません。
内容は、アイドルや芸能人のスキャンダル系が多いのですが、染谷悟が係わっていたと言われる「裏BUBKA(ブブカ)」は、男性向け雑誌なだけあって、小中学生の落とし方や、風俗の闇、援交などのセックス系の見出しや、ロリコン風なイラストの表紙がバックナンバーから見受けられます。
しかし、染谷悟がどのような取材や記事に係わっていたのかは、あまりハッキリ分かっていません。
空き巣や盗難の被害にあっていた
via pixabay.com
染谷悟は、殺される1年程前から空き巣や盗難の被害に遭っていました。彼は、短期契約の賃貸マンションを転々としていたようですが、窓やベランダを壊されたり、カメラやパソコンなどの仕事道具を、なんと77点も盗まれたということがあったのです。
更に「金返せ!」と叫ぶ男2人が、染谷悟の家の玄関を蹴飛ばすところを近所の人が目撃していたこともありました。これらのことを見ても、彼が何者かに狙われていたことは間違いありません。
更に「金返せ!」と叫ぶ男2人が、染谷悟の家の玄関を蹴飛ばすところを近所の人が目撃していたこともありました。これらのことを見ても、彼が何者かに狙われていたことは間違いありません。
他事件の取材等でトラブルもあった
via pixabay.com
先程述べた数々のトラブルは、歌舞伎町のドキュメンタリー本の取材の中で起きたものでしょう。しかし、染谷悟はその頃もう1冊本を出そうとしていたようです。
その本の出版の為に、染谷悟に金を貸したという男が、のちに殺人容疑で逮捕されました。その男達とのトラブルはのちに述べますが、染谷悟は他にも短期契約の賃貸マンションの家賃も滞納していたり、他の知人達にも借金をしていたと言われています。
フリーライターですから、記事を掛けなければお金は入ってきません。アングラ雑誌の原稿料では、生活も苦しかったのでしょう。染谷悟は、金銭トラブルや歌舞伎町の取材の中で、様々な危険を増やしていくのです。
その本の出版の為に、染谷悟に金を貸したという男が、のちに殺人容疑で逮捕されました。その男達とのトラブルはのちに述べますが、染谷悟は他にも短期契約の賃貸マンションの家賃も滞納していたり、他の知人達にも借金をしていたと言われています。
フリーライターですから、記事を掛けなければお金は入ってきません。アングラ雑誌の原稿料では、生活も苦しかったのでしょう。染谷悟は、金銭トラブルや歌舞伎町の取材の中で、様々な危険を増やしていくのです。
2003年9月5日染谷の生存が確認された最後の日
via pixabay.com
染谷悟の死亡推定時刻は不明です。発見されたのは、2003年(平成15年)9月12日(金)でしたが、彼は少なくともその1週間前まで生きていたことが分かっています。
2003年(平成15年)9月5日(金)の午後、染谷悟は知人の雑誌編集者と電話で話した後、姿を消してしまいました。更に、同日または翌日の6日(土)に、JR池袋駅付近で染谷悟のカメラが発見されています。
このような背景から、当初から彼は、池袋駅付近で何者かに連れ去れた可能性が考えられていました。
2003年(平成15年)9月5日(金)の午後、染谷悟は知人の雑誌編集者と電話で話した後、姿を消してしまいました。更に、同日または翌日の6日(土)に、JR池袋駅付近で染谷悟のカメラが発見されています。
このような背景から、当初から彼は、池袋駅付近で何者かに連れ去れた可能性が考えられていました。
2003年9月7日「旅に出る」というメール
1 / 8